第4幕 夜の訪客
その女性は、夜風に顔を向けて、涼しそうに佇んでいた。柔らかそうな髪がふわりとなびいている。
「叔母さん」
「……あ、裕太君。久しぶり」
「なんでここに」
「なんだか裕太君に会いたくなっちゃって」
叔母の優子さんは、ふふっと笑った。
「……さっきの子、綺麗な子だったね」
見られている。思わず警戒した視線を送ると、優子さんは「やだぁ」と笑った。
「誰にも言わないよ? 裕太君の彼氏でしょう? なんだか華のある子だね」
「……何しに来たんですか」
「ひどい。君の顔を見にきただけだよ。それにしても、寒いね、ここ」
上げるしかない。できるだけ早くお帰りいただこう。
「どうぞ」
「ありがと」
靴を揃えずに廊下に上がる叔母。そういうところである。
「すごい綺麗にしてるねー。弟君と大違い」
「陸人を引き合いに出す必要ってあるんですか」
「やだ、そんな怒んないでよ、褒めてるんだから」
だめだ、話が通じない。すでに精神力は消耗の一途を辿っている。
「要件だけお伝えいただければ」
「えーん、裕太君がいじわるだよぉ」
いつまでも少女のような人だ。彼女は母より年上だが、結婚はせず、夜の仕事をして生活していた。
お茶を出すと、両手でぐびくび飲んだ。大きな音を立てて机にコップを置く。
「あのね、陸人君、〇〇大学今年受けるみたいだよ。元気でやってるみたい」
「……父と母はなんて」
「さぁ? あんま興味ないんじゃなーい? あの二人、口を開けば裕太君のことばっかりだもんね」
それが嫌で、家が近くにも関わらず寮住まいをしている身としては、相変わらずといった様子の報告にげんなりとした。
「祥子、裕太君が出ていってから全然元気ないみたいなの。健吾さんも苛々しちゃって」
だからどうしたんだという話である。
「そうですか」
愛想もなにもあったもんではない返事をする。
昔からおかしな親だとは思っていた。二人兄弟なのに、甘えて許されるのは僕だけだった。父も母も、陸人には厳しくし、何時間も勉強机に縛り付けた。一方、僕は何をしてもよかった。
「裕太は優秀だから」
というのが二人の口癖だったように思う。昔から居心地が悪くて、もらったお菓子をよく陸人にあげた。小学校低学年までは、それで兄弟仲良くなんとか暮らしていたのだ。でも、高学年になってから、彼の態度が変わった。
「お前も俺に同情してんだろ。馬鹿でのろまな弟を」
そう言われたとき、僕はすぐに誤解を解こうとした。
「違う、どうしてあんな親の呪いを間に受けるんだよ。僕らは兄弟だし、今まで仲良くしてきたじゃないか。……もしかして、お兄ちゃんが何か、」
弟はため息をついた。
「……知ってるよ、お兄ちゃんが僕を純粋に可愛がってくれてることくらい。でもさ、」
彼は自分の胸を掴んだ。
「そうでも思わないと、苦しくてしょうがないんだ。優秀な兄と馬鹿な弟。ずっとそうやって対比されてきて、自分でもそうかなって思って。いっそお兄ちゃんを憎めたら……憎めるほど嫌な奴ならよかった。でも」
彼はそのまま膝を折って泣き始めた。
「どうしてそんなに優しいんだよ。バカ。……お兄ちゃんを見てると、自分の出来の悪さを突きつけられてるみたいで嫌なんだ。ごめん、こんなこと言って。自分でも自分勝手なこと言ってるって分かってる。でももう限界みたい……」
彼を抱きしめに行った僕の手を、彼はそっと振り払った。
「どこか遠くへ行ってほしい」
それはほとんど死刑宣告のようなものだった。僕らは慈しみ合っているのに、二人でいることは許されなかった。
「……分かった。大学生になったら、お兄ちゃんは家を出るよ。それまではどうか、ここにいさせてほしい」
弟はがばりと顔を上げた。そこには、申し訳なさと、悲しさと、そして少しの安堵が混ざっていた。僕はその瞬間に、足元の床が外れるのを感じた。
叔母はそのことを知らない。大学に入って、僕が気まぐれで家を出たと思っている。そういうところは鈍感なのに、僕が男性を好きであることはすぐに見抜いた。そういう人だ。性産業に長く居るためかもしれなかった。
母親の家系における叔母の立ち位置は独特で、成果主義的な風潮をなんとも思わず、学生時代は幾人もの男性と付き合い、その後迷いなく夜の道に入ったらしい。
「大学入ってすぐの裕太君、男癖悪かったもんねー。あたしひやひやしてたよ? すーぐ捕まっちゃうんだもん。ここに来るたんびに違う香水の匂いしてたから、優子ちゃん分かっちゃうんだもんねー」
人の黒歴史を躊躇なく掘り返すところも相変わらずである。
「でもしばらくしたら落ち着いてよかったよー。結局誰でもよかったんでしょ? そーゆーの虚しくなってすぐ飽きるもんね。うん分かるわかる」
分かってる面をされるのは嫌だったが、心情としては合っているので僕は何も言わずにコップを傾けた。
幾人かとのセックスは、最初は心を慰めたが、やがてこれはただの表層的な刺激だということに気づいてすぐにやめた。勉強やバイトに打ち込んで、虚しさを紛らわせた。絞首刑に処された後の死体を引きずって歩いているような感覚は、でも、先輩に出会ってからは消え去った。
「顔色いいよね。いい彼氏さんみたいだね」
「……そうですね」
「よかったよぉ裕太君が元気になって。叔母さん心配したもんー」
ふくれっつらをする叔母。くっきりした目鼻立ちはあまり母と似ていない。母はどちらかというと目立たない顔立ちをしていた。
「そうだ。裕太君に本あげたことあったでしょ? あれね、私続き思い出したよ」
なに。心の中だけで動揺する。なんで、今更、そんな。
「あれねー、手紙書いてたのは本当は女の子じゃなかったの。お兄さんのなんだったっけな……アン、ジェ? みたいな名前の人だったんだよね。そんで、主人公は心がきれいなもんだから、アンジェに告白するの。でもね」
優子さんは眉を下げた。
「それはできないって。僕は男性だからあなたとは結婚できませんって言うの。それで星の国に行ってしまうの」
死の隠喩だろうか。
「主人公は泣き暮らすんだけど、手紙は手元にあってね。それを読んで暮らす……っていう終わり方だったような気がする。暗いよね。でも童話はこういうのがよく残ったりするのかなぁ」
「……教えてくださってありがとうございます」
「いいんだよ。私もねー、昨日思い出して、あっ! って思って。裕太君に教えてあげなきゃ! と思って、それで来たの」
ああ。この人は純粋な人なんだな。自分の思うように生きてきて、確かにデリカシーのないところはあるけれど、でも、だからこそ、人を悪く思う術を知らない。性であれなんであれ、愛することしか知らないのだ。
「……なんかすみませんでした、わざわざ来てもらったのに」
「えっすっごいもてなしてくれたじゃん! お茶も入れてくれてさー、さすが一人暮らししてるだけあるー! って思ったよ」
優子さんはにこっと笑った。
「じゃ、叔母ちゃん帰るね。彼氏さんによろしくね」
それだけ言うと、さっと立ち上がって玄関を開け、そのまま出ていった。僕は後ろ姿を見送ることしかできなかった。
ふと机にテーブルを見ると、何かの紙切れが置いてある。裏返すと、携帯電話番号と「陸人クンの♡」の文字。
「そっか、スマホ持ってなかったから……」
しばらく躊躇って、番号を入力し、電話をかけてみた。久しぶりに聞いた弟の声は、優しく、落ち着いた声色をしていた。僕の声はきっと涙で歪んでいたと思う。
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