第3幕 白の逢瀬
先輩の虹彩は不思議な造りをしている。緑がかった茶の海に、藍の光の交じる薄茶の網がかかっていて、まるで幻想世界みたいだ。
「綺麗ですよね。……あ、逃げた。もっと見せてくださいよ」
「あほ。誰か来たらどうすんねん」
「来ませんよ。他のバイトと園長くらいしか」
「来るやんけ」
押し問答していると、ノックの音が聞こえた。慌てて居住まいを正す先輩と僕。
「どうぞ」
「入るでぇ」
バンビ柄の手ぬぐいで汗を拭きながら、園長が入ってきた。毎回思うが本当に代謝のいい人だ。
「ちょっと今日風強いから、アトラクション動かされへんわ。閉園することになったから、二人とももう帰ってええで」
「はーい」
「じゃ、お疲れさま」
「お疲れ様です」
園長が出ていった後、先輩が所在なさげな表情をした。
「なんや拍子抜けやなぁ。今日他に予定入ってないねん」
「奇遇ですね。僕もです。……どっか遊びに行きます?」
「遊園地以外ならええよ」
「閉まってる可能性ありますもんね」
ということでスマホで今日開催されるイベント、などと検索をかけてみると、隣の県の古本市がヒットした。
「古本市……」
「ふるほんいち? 行きたいん?」
先輩は不思議そうな顔をする。こういうとき、嫌そうな顔をしないのが先輩のいいところだ。
「いや、大丈夫です。もっと素敵なところに行きましょう」
まさかデートに恋人を趣味の古本市に引っ張っていく奴はいまい。
「でも目ぇ輝いたやん、今。行きたいんやろ? どこ、〇〇市か。車で飛ばしたら40分くらいやな」
さすがの観察眼だな。
「えええ、いいんですか……?」
「ええよ。なんか探してる本でもあるんか?」
「実はそうなんです」
思い出の児童書のことをかくかくしかじかと話す。なんとなく、先輩が主人公に似ていることは伏せた。もはやそのことが僕の中で重要ではなくなってきているからか。
「なるほどな」
顎に手をあてて、しばらく思案していた先輩は、ぱっと顔を上げて「ほな行こか」と言った。
「すみません、こういうとき僕に免許があれば」
「うん、はよ取りや」
と言いつつ、運転が好きな彼は喜々としている。
「あのルートのほうが早いか……ちょっと道細いけど……」
頭の中でセルフナビゲーションを鳴らしているのを邪魔しないようにして、僕は蛸部屋のドアを開けた。
自販機でオレンジジュースを一本買い、ミニ四駆に乗り込む。車は国道を走り出した。
「先輩、本とか読むんですか?」
「たまにな。小説とか。……なぁ」
「何ですか?」
「その先輩ってのやめへん」
「あっなんて呼べばいいです?」
そう言ってくれるのを期待していたのだ。感づいた先輩がこいつ……という視線を投げかけてくる。
「……聡でえーよ」
「じゃあ聡さん」
「なんでさん付けやねん」
「だって先輩ですし」
「先輩ってよりも」
先輩がぐいと顔を近づけてきた。
「恋人って属性を優先させるべきやろ?」
照れて怒り気味の彼の目に辛抱たまらなくなって、高鳴る鼓動のままに彼の唇にくちづ、け、
「あああ先輩前まえまえ」
「はいはい分かってるわかってる」
赤信号で一時停車して、唇をとがらせた先輩が言った。
「先輩言うてるやん」
「慣れてるもので」
「……呼んでぇや」
あ、だめだ。可愛すぎる。
名前を呼んでキスをした。かさついた唇を割って舌を滑り込ませる。服を掴んでくる先輩の手を上から包んだ。
「……可愛いです」
「……は、成人男性に向かって」
「だって」
何度も唇を落とす。
「……あなたが可愛いのが悪い」
先輩の呼吸が乱れ、僕の腰を掴む手に力がこもる。
「すいません、青信号です」
「……はーーーお前はもーー」
息を吐き吐き、アクセルを踏んでくれる。
「……アカン、こんなんしてたら何時間あっても着かんで」
「んじゃ一息にちょっと路肩に停めましょうよ」
じとっとした目で見つめてくる先輩。そういうことじゃないだろと言いたいらしい。誘ってきたのはそっちなのにね。僕はかまわず涼しい顔で「ほら、あっちに駐車場がありますよ」と指さした。先輩は何も言わずにハンドルを切った。
暑くなって窓を開ける。すると一瞬にして先輩にその手を押さえられた。
「絶対アカン! 公共風俗に反する!」
「無断駐車してやってる時点でもう十分反してます」
「ぐっ……」
無言で閉められる窓。
「泥棒と強盗ではやっぱりちゃうねん」
「言いたいことは分かります。泥棒の自覚はあるんですね」
「うん。ん……? いや、泥棒はしてな」
「言い訳してもだめです。ここに手錠があります」
「なんで」
カシャンと音を立てて役割を果たす手錠。
「罪状はえっち罪」
「なんやそのネーミングセンス……やめろ、俺は無罪だ」
「さっさと吐いたほうが身のためですよ」
胸に舌を這わせる。
「じゃないと罪が重くなっちゃいますから」
「ん……あ、俺がやった」
「ヤッたんですね」
「なんやねんお前……」
余裕のなくなった先輩の乱れた息遣いに舌を絡めた。
「んー……ふは、ちょ、タンマ、カツ丼食わせて」
「だめです、あなたは食べられる側なんですから」
「なんやねんさっきから上手いこと言って」
「ここで大喜利合戦はやめましょう」
「えー悔しいなぁ」
先輩の頭がネタのほうに切り替わってはよくないので、深めに律動する。案の定、可愛らしい声で鳴きはじめた。
「可愛いです」
耳元で囁くと、一段と声が大きくなる。本人もそれに気づいたのか、はっと目を開いて必死に唇を噛んだ。あくまで公共風俗を守る気らしい。こっちも負けじと彼の倫理観を解きにかかった。
「聡」
それは反則だと目で訴えかけてくる。
「こ、え出していいんですよ」
観念したのか、涙声で僕の名前を呼び始めた。
「今はちゃんと名前で呼んでくれるんですね」
ちょっといじけたように言うと、先輩に申し訳なさそうな目をさせてしまった。
「いいんです、お前でもなんでも好きなように呼んでくれれば」
先輩にそんな目をさせるのは本意じゃなかった。ただ気持ちよくなってほしい。欲を言えば、僕のことで頭をいっぱいにしてほしかった。
「ゆう、た、ごめ、ん、ふだ、んは、なん、か、き、はずかし、く、て、」
「うんうん、分かってます、あなたのことですからそうなんだろうなと」
「これ、から、は、ちゃん、と、なま、えでよぶ、から、」
「無理しなくていいんですよ。……それより、僕と一緒にいってくれますか」
何度も頷く先輩。たまらなくなって肩と頭を抱き、胸に寄せた。目の前が弾けたとき、彼との境界が溶けて、一人の人間になったような気がした。
「……じゃあ出所しても過ちを犯さず、正直に生きていってくださいね」
「お世話になりました。……ってお前も同罪やろ」
というオチがあったことはともかく、無事古本市に着いた。お寺の境内でやっているため、砂埃がすごい。思わず先輩の目をかばうと、「ありがたいけど見えへん」としごく当たり前のことを言われた。
「ゴーグルとかあったらよかったんですけどね」
「古本市でゴーグルつけてる奴こそお縄やろ」
「じゃあ抱っこしてあげます」
「それは社会的にちょっと」
「わがままですねぇ……じゃあ目を瞑っててください。手をひいてあげますから」
捕虜連行の図で各店舗を回る。
「あったぁ?」
「ないですねぇ……あ、この作家さん知ってる」
むぎゅと手を強く握られる。
「いたた。どうしたんですか」
「……分かってるくせにぃ」
「あはは、すみません。あそこの団子屋で一休みしましょう」
目が見えないせいでかまってちゃんと化した先輩を連れて団子屋に入る。
「すみません、お団子2つ、と熱いお茶を」
「あいよー」
しばしまったり団子を食む。
「美味いな」
「美味しいですね」
「なかなか見つからへんのか」
「ないもんですねぇ……」
「通販は?」
「たぶんあるんですけど、格安の値段つけられてたらへこむのでチェックはしてないですね」
「なるほどな」
それ以上何も言わない先輩は優しい。
「裕太、工学部やろ。エンジニアとかプログラマとかになりたいん」
「それが、最近揺れてるんですよね。昔から文学が好きで、聡にも脚本褒められたし、構成作家いいかなぁなんてけっこう本気で思いだしてて」
「文才あるもんな。でもこっちの世界は博打みたいなもんやで。世間の価値観と自分の世界観を合わせていかなあかんし」
一瞬嬉しそうにした先輩は、でも真剣な瞳で現実を伝えてくれた。
「……聡は、なんで芸人を志したんですか」
「うーん……。中学生の頃は無難なだけの人間でな。見てくれだけで変な先入観持たれることが多くて、それが嫌やってん。裏切ったろうと思って文化祭で友達と漫才披露して。そしたらめちゃくちゃウケた。その快感が忘れられんで今もやってる」
見た目で判断されていたのなら、相当理想像を仮託されていたのだろう。その苦労は少しだけ分かった。
「素敵ですね。その友達とは今も仲いいんですか」
「まぁ花田のことやねんけどな」
「えっその時からの」
「まぁそうやな」
うっ。なんか嫉妬する。いいな。
「でも待ってください。僕その漫才見てないです」
「俺が1年の時にやったからな」
「あー見たかった」
「動画あるで? 見る?」
「えっっ見ます」
スマホ画面を見せてくれる。学ラン姿の先輩と花田さんが舞台中央に立っている。
「どうも綿貫露店ですよろしくお願いしますー」
「この時からコンビ名、綿貫露店なんですね。由来ずっと知りたかったんですけど、」
「俺の家が飼ってた犬の名前が綿貫やったんや。親父が命名したんやけど、後々昔の恋人の苗字やったことが判明して一時は大騒ぎやったな。露店は花田が屋台好きやから。中学生らしいやろ。まぁドッキングさせただけやな」
「濃いエピソードですね」
「アホな親父やで」
ユニークなお父さんのことも気になるが、それよりも、
「声高いですね」
「変声期前やからな」
「可愛いです」
「おっ鞄の中の手錠が本来の役割を果たす時がきたか」
「そんなんじゃないです、あなただから可愛いんです」
思わぬカウンターに先輩が黙りこんだ。
「耳赤いですよ」
「やめ」
「食んでいいですか」
「ここではあかん」
漫才は中学生とは思えないクオリティだった。カツアゲに遭ったらどうしようと言う花田さんに、じゃあシミュレーションして耐性をつけようと持ちかける先輩。花田さんをヤンキーを演じる先輩がカツアゲするのだが、花田さんの自虐的な発言に段々ヤンキーのほうが同情していき、最終的に「これで流行りのもん買い」とお金を渡す、という筋書き。綿貫露店の、ボケとツッコミが変幻自在なスタイルがこの頃から確立されている。
「……面白かったです」
「やろ」
満足そうに頷く先輩。シンプルにかっこいい。
「ほんなら、もう一回探しに行くか?」
僕は首を振った。
「今回は諦めます。帰りの車で先輩の漫才が見たいです」
その通りにして帰ってきた。プラスアルファもあったがそれはまぁよしとしよう。
雪が降り始めた町に帰ってきて、僕の寮の前まで来ると、先輩は車を停めた。運転席から降り、両手を口元に当てる先輩。細い指の先から水蒸気の白が立ち昇る。
「もうすぐクリスマスですね」
「せやな」
沈黙。二人とも、言いたいことは同じなような気がした。
「一緒に過ごしませんか」
「一緒に過ごさへん?」
言い出したのは全く同時だった。
「奇遇ですね」
「しゃーない一緒に過ごしたろ」
「おんなじこと言い出したじゃないですか」
「なんのこと?」
「素直になっていいんですよ」
「そんならお言葉に甘えて」
不意打ちで、触れるだけのキスをされた。
衝撃で口が聞けない僕を振り返って先輩はいらずらっぽく笑った。
「びっくりしたやろ」
「……そりゃ、もう」
「男子たるもの死角を持ってはいかん」
「えへへ、勉強になります。……じゃ、また今度」
「またな。滑りなや」
「気をつけます。聡も……気をつけて」
去っていく車を見送ってから、寮に帰る。階段を上り、角を曲がると、どうやら僕の部屋の前に、短い黒髪の女性が一人で立っていた。
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