第18話 ウルマスと厄災の書

 ムアサドが黒い血煙を撒き散らして崩れ落ちた。ヴィルホらが結界の中で歓声を上げる。


「ふぅ」

 アルクも安堵の息をついた。

(あの癖の強い魔筆を即興で使いこなすなんて。コトカの技量はさすがだ)


 コトカが満面の笑みを浮かべて駆け寄ってくる。

「アルク、うまくいったよ」

「よかった。俺の魔筆が使いものにならなかったらどうしようかと、冷や汗をかいた」

「アルクの魔筆と助言のおかげだよ」

「いや、倒せたのはコトカの力だ。俺は何もしていない」


 その言葉を聞いたコトカはアルクの両肩をつかみ、琥珀色の眼で見据えると言った。

「そんなことはない。アルク、もっと胸を張っていい。君は自分のことを過小評価しすぎている。あの魔筆は素晴らしい仕上がりだったよ」


 コトカはお世辞を言った訳ではない。

 出力がピタリとハマったときのムアサドの魔筆の威力は、思い出しても身震いするほどだった。

 刷毛はけのような太くて短い穂も、鉄線で補強した丈夫な軸も、あの魔筆を制御するための配慮だ。全てが必然の形状であることが、今ならわかる。


 アルクはコトカのまっすぐな言葉に心を揺さぶられた。

(そうだ。俺の魔筆が、初めて実戦で使われたんだ)

 子どもの頃からずっと、いつかこうなることを夢見ていたのだ。アルクは自分の魔筆を認めてくれた相手がコトカであったことが、嬉しく、誇らしかった。


  ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎


 ヴィルホとアイノはムアサドの死体を検分している。


 その間、アルクとコトカは書庫の中を見て回っていた。リネアが少し距離を置いて、影のように従う。


 コトカは書架にあった葦紙の束を手に取って眺めている。

「うーん、見たことない字体だなぁ。このあたりは帳簿か公文書だと思うけど、かなりの年代物だね」


 アルクはそんなコトカのかたわらで、喉の奥に小骨がささったような胸騒ぎを感じていた。何かを見落としている気がしたのだ。それでも眼前の光景への興味が勝った。


 アルクがつぶやく。

「ここは不思議な空間だな。地下なのに、こんなにだだっ広くて、階層構造になっている。物語に出てくる地下迷宮が現実に存在するなら、こんな感じかもしれない」

 コトカもうなずいた。

「うん。不思議だよね。もとは教会や墓所だったって聞いたけど。どうしてわざわざこんな地下につくられたのかな」


「確証はないけど。人が地下にひそむ理由は、昔も今も、同じじゃないかな」

「同じ、というと?」

「例えば、隠れたり、逃げ込んだり、追いやられたり、とか。もしかしたら異民族や異教徒が使っていたのかもしれない」


 アルクが思いつきで口にした言葉に、呼応する声が背後から聞こえてきた。

「おそらく正解だ。慧眼けいがんだね、君は」

 振り返ると、ウルマス館長が立っていた。


 ウルマスは長身だ。口ひげと顎ひげをたたえた風貌は、賢者の胸像のようだとアルクは思った。

 低音のよく通る声で、ウルマスが述べた。

「今から何百年も昔。タリアの前身の古代都市が誕生したとき、ここは街の中心ではなく、外れだった。君の言う通り、街を追いやられた人たちが使っていたようだ。中世に街区が広がっていく過程で、為政者がここを接収したのだろうね」


 コトカがウルマスにたずねる。

「では、もとは異教徒の施設なのですね。女神ノルンをまつった教会ではなくて」


 ノルンとは、この世界で広く信仰されている創世神の名だ。翼持つ女神の姿で表され、ノルンをかたどった「Y字」のシンボルはあちこちで見られる。カレフ王国の国旗は青地に黒のY字、コトカの母国ヴィーク王国の国旗は赤字に青のY字だ。


 ウルマスが答えた。

「そうだね。女神ノルンの教会ではない。おそらく少数の部族が信仰していた伝統的な宗教の施設であり、生活の場でもあったのだろう。君らが話していた砂漠の民のようなね」


 コトカはさらにたずねた。

「ウルマス館長、あなたは館長に就く前は、学者だったのですよね」

「うむ。大学でカレフ王国の中世史を研究していた」

「あなたならご存知かもしれない。厄災の書のことを。調伏の魔導書だと聞いていますが。わたしは詳細を何も知らないのです」


 ウルマスは眼を閉じて、天を仰いだ。

「ひとことで答えることは難しいな。厄災の書とは、まさに、ここが書庫になる以前から存在していたものだからな」

「先ほどの説明にならえば、異教徒の教会や墓所だった時代からここに在ったのですね」

「その通り」

「教えてください。厄災の書とは、いったい何なのですか」


 するとウルマスは、片手を差し出した。最初は手の甲を上に。続いて手首をまわすと、手の平を上に向けた。


 コトカとアルクはその仕草を黙って見つめる。ウルマスが言葉を続けた。

「表と裏、光と影、地上と地下、善と悪、現世うつしよ常世とこよ——。対立する概念を、合わせ鏡のようにつなぐ魔導書。それが厄災の書だと言われている」


 コトカとアルクは思わず顔を見合わせた。ウルマスの言葉が何を意味するのか、よくわからなかったからだ。


「調伏ということは、何らかの災いを封じ込めているのでしょうか。だとしたら、それはどんな災いなのですか」

 なおも質問するコトカに、ウルマスはにこやかに微笑んだ。そして、こう答えた。

「現世のすべての悪だ。そう言い伝えられている」


 ウルマスはそこまで話すと、その場を離れた。


 コトカは釈然としなかった。

 ウルマスは物腰が丁寧で落ち着きがあり、好人物に思える。だが、彼の本質はやはり学者なのだろう。知識や考えの深さにこちらと差があり過ぎて、理解が追いつかない。コトカはそんな印象を持った。


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「ちょっと来てくれ」

 ムアサドの死体を検分していたヴィルホがコトカとアルクを呼んだ。


 二人は連れ立ってヴィルホのもとに向かった。


 ムアサドの死体からは黒い血が床に広がり、重油のような臭気が立ち込めている。

 ヴィルホとアイノはムアサドのそばにしゃがみ込み、死体を腑分けしていた。あまり正視したくない状況だ。


「襲われた人たちは、胃の中には入っていなかった」

 ヴィルホが立ち上がると、そう言った。


「それは妙だな。納得し難い」

 アルクが反射的に答える。


 アイノがアルクに舌打ちをした。

「お前は、衛兵が食われていた方がよかったって言いたいのか?」

「うん、その方が納得できる」

「おい、納得って何だよ」


「ちょっと、どならないで」

 コトカがアルクの横から口をはさんだ。

「ちっ、一級写本師。お前はこいつの保護者か?」

 共闘はしても、アイノの当たりの強さは変わらないようだ。


「みんな、落ち着こう」

 ヴィルホが嘆息を漏らしながら取りなす。そして、アルクに「なぜ君は納得がいかないんだ?」と尋ねた。


 アルクが口を開く。

「別に深い意味はない。腹を空かせていないなら、なぜ襲ってきたのか。そう疑問に思っただけだ」

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