第15話 ムアサドと無効化

 ムアサドは唸り声を上げることも、歯を鳴らすこともしない。ただ頭を低くして、コトカらを値踏みするように静かに構えている。それなのに、その威圧感は凄まじい。


 向かって左にリネアが、右にアイノが位置をとる。コトカは二人よりも少し下がって正面から対峙し、三方から囲んだ。


 最初に動いたのはアイノだ。

 火属性の魔法使いであるアイノは、右手の杖をムアサドに突き出し、火球を撃った。人の頭くらいの火球を連続で撃ち出す。


「この野良犬野郎っ」

 アイノが叫び、気を吐く。


 距離は約三十メートル。火球で致命傷を与えるには十分な間合いだ。だが、ムアサドは微動だにしない。火球がムアサドに触れた途端、霧散するのだ。アイノが躍起になって撃ち込んだが、何度やっても結果は同じだった。


 コトカは目を見張る。これがアルクの言う無効化効果か。魔獣がこれほどの防御力を持っていることに、今更ながら驚いた。

「では、これならどうかな」

 コトカはユニコーンの魔筆と巻紙を腰から抜く。リネアに目配せすると、巻紙をムアサドに投げ、魔筆を一閃して呪文を書いた。巻紙がほどけ、ムアサドに蛇のように絡みつく。拘束の魔法だ。


 アイノの火球は魔力の産物だ。

 一方、コトカの拘束の魔法は、巻紙を魔力で強化して縛り上げるもので、魔法と物理攻撃の組み合わせと言える。


 コトカが抑えつけたところに、間髪を入れずリネアが飛び込み長刀で突く。しかし、攻撃の瞬間、ムアサドが強烈な怒気を発した。

 リネアの長刀が気圧されて突きが届かない。空気が震え、拘束していた巻紙が破れて散り散りになった。


 ごう、とムアサドが吠えた。

 巨躯が跳躍し、宙に舞う。リネアが斬り上げたが、間に合わなかった。ムアサドはリネアとコトカの頭上を飛び越えた。


 後方ではヴィルホが結界を張っている。ドーム状の安全地帯をつくる対魔法・対物理攻撃の障壁だ。ウルマス館長、オリヴァー、衛兵一人、そして、アルクが中にいる。


 ムアサドは結界に襲いかかった。

 前足が障壁に達すると、障壁が粉々に砕ける。ガラス板が割れるみたいに。結界の魔法が無効化で解除されたのだ。


 オリヴァーが声を上げた。

「うわっ。どうするんだよ、これ」


 ムアサドの突撃は、そこで止まった。巨躯が空中で停止している。コトカが背後から呪文で拘束したのだ。

 巻紙ではなく、文字そのもので縛り付けている。空中に文字が書けるコトカならではの妙技だ。巻紙ほどの力はないが、即時性が高い。


 その間にヴィルホらが後方に下がり、再び結界を張った。


 コトカはムアサドを懸命に拘束する。拘束する端から次々と文字が消える。消える文字を補うため、さらに文字を書きたす。


 その時だった。

 コトカの魔筆が白煙を噴き出し、突如爆発した。


「あ痛っ」

 コトカがうめいた。

 魔筆がバラバラに砕け、床に転がる。


 アルクが指摘していた過負荷のせいだ。軸に負担がかかり過ぎたのだ。

 コトカはアルクの忠告を忘れた訳ではない。ずっと気になっていた。それでも、強敵を前に、壊れるギリギリまで使わざるを得ないと判断したのだ。


  ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎


 リネアが正面に回り込み、飛び上がるとムアサドの顔面に斬りつけた。ムアサドは歯で受け止めたが、手応えはあった。


 ムアサドが着地する。

 そこに、アイノが炎をまとわせた槍を突いた。衛兵が持っていた槍だ。

 槍はムアサドをかすめた。

「魔法がダメでも、こいつなら少しは効くだろ」


 リネアとアイノが前に出る。ムアサドは立坑のそばまで飛びすさって距離をとった。


「コトカ、大丈夫か」

 アルクが結界から声をかける。

「うん平気。ごめんね、アルク。忠告をもらっていたのに」

 コトカは予備の魔筆を腰から抜く。


 コトカが再び拘束の魔法を放ち、そこにリネアが剣で、アイノが槍で、攻撃を仕掛ける。だが、ムアサドを捉えきれず、有効打が決まらない。


 予備の筆は、珍しい羽毛の魔筆だった。スパルナという鳥の魔獣の羽毛でつくられている。


 スパルナは、別名を金翅鳥こんじちょうという。古来から王族の守り神として尊ばれてきた、金色の羽と尾を持つ、美しく稀少な鳥だ。


 スパルナの魔筆はやはりタイヴァス家の伝来品で、市場には出回っていない。これ一本で屋敷が建つほどの高額で貴重な品だ。羽毛が風属性の魔力を帯びており、使い方次第で強化など様々な効果を付与できる。


 とはいえ、基本は魔導書を書くための繊細な魔筆であり、力勝負には向かない。しかも小筆なので出力が小さく、拘束の魔法もユニコーンの魔筆より数段劣っている。


 コトカたちは明らかに攻めあぐねている。このままでは魔力を削られるだけだ。


 結界にいる一同はもどかしい思いで戦況を見つめていた。


 ヴィルホが思わずつぶやく。

「ムアサドの無効化を抑えられる手立てがあればいいのだが」

 オリヴァーが皮肉っぽい口調で言った。

「あの魔獣は規格外すぎる。物理攻撃しか手はないんじゃないかねぇ」


 アルクは先ほどから迷っていた。戦いが始まった当初から、アルクには考えがあったが、言い出せずにいたのだ。


 意を決して、アルクが声をかける。

「コトカ、他の魔筆は持っていないの?」


「無いんだよね、それが」

 コトカはそう答えながら、リネアの冷たい視線を感じていた。

 もはや頼りはスパルナの魔筆だけだ。装備一式を屋敷に忘れてきた自分の責任なのだが。


「コトカ、ちょっとだけこっちに来て」

 アルクがコトカを呼ぶ。

 切羽詰まった声だ。コトカは「アイノ殿、リネア、しばらく二人でお願い!」と叫び、結界に駆け寄った。


「てめぇ、無茶言うんじゃねぇ!」

 アイノが悪態をついているが、少しなら大丈夫だろう。


  ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎


 コトカはアルクが微妙な表情を浮かべていることに気付く。屋敷の牧羊犬が粗相をした時の顔を思い浮かべながら、コトカはたずねた。

「どうしたの、アルク?」


「これが最善かどうかわからない。禁じ手だけど、試す価値はあると思う」

 アルクはそう言うと、肩に下げた工具入れから何かを取り出した。


「アルク、どういうこと?」

「これだ。俺がつくった魔筆だよ」

「えっ、魔筆を持ってきていたの!」

「あぁ、持っていた。使ってほしい」


 アルクは黙っていたが、魔筆や魔筆をつくる道具を一式、持参していた。これらはいつも肌身離さず持ち歩いている。


 一級写本師であるコトカに見せるのは恥ずかしく、不安もあったが、そんなことを言っている状況ではなかった。


 アルクの手が緊張で震えている。

 コトカも何だか緊張して、喉がカラカラになってきた。魔筆を差し出すアルクの右手を、コトカは両手で包み込んだ。


 それにしても、禁じ手とは何だろう——。

 コトカはアルクの魔筆に目を落とす。そこには、コトカが見たこともないような魔筆があった。

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