第12話 アルクと魔獣

「いったい何があった?」

 ヴィルホが床にしゃがみ、血だまりを検分する。ついさっきまで、衛兵が確かにここに立っていたのだ。


 近くにいた別の衛兵にヴィルホが問いただしたが、青ざめた顔でかぶりを振るだけだ。「わかりません。気がついたら隣にいたはずの彼が消えていたんです」と。


 血痕を追って書庫に入っていたベンヤミンとアイノが戻ってきた。

「血痕は書庫に入ってすぐに消えた。奥に進むなら、態勢を整えた方が良いでしょう」


 ヴィルホは首をかしげる。

 何者かが書庫から襲いかかり、衛兵を連れて立ち去った——。状況をまとめると、そうなるのだろうか。


「魔獣だ」

 つぶやいたのは、アルクだった。


「魔獣? ここは大図書館の地下だぞ」

 ヴィルホが問い直す。図書館の中で魔獣に襲われるとはどういうことなのか。


黒犬ムアサドだと思う」

 そう答えるアルクの口ぶりは断定に近い。


 ムアサドとは、砂漠に住む魔獣だ。ヘルハウンドとも呼ばれ、体長は三メートルから五メートルにもなる。


 コトカがアルクにたずねる。

「アルク、襲われたところを見たの?」

「いや、見ていない。においだ」


 コトカは鼻をきかせた。

「言われてみると、かすかに油のようなにおいがするね」

「重油香だよ。これはムアサドの臭腺から出る分泌物に特有のにおいだ。たぶん間違いない」

 アルクの説明は明快だ。


 ヴィルホは「ふうむ」と唸った。

 タリアの城壁の南には砂漠が広がり、ムアサドも生息していると聞く。突拍子もない話ではないとヴィルホは思った。

 ムアサドは口が大きく、獲物を丸のみにするという。食らいつかれたら、衛兵はひとたまりもなかったろう。

 

 だが、ムアサドは人里に現れることがほとんどない珍しい魔獣だ。なぜこんな所にいるのか。


 ヴィルホがウルマスにたずねた。

「大図書館の地下は魔獣の住処になっているのか?」

「まさか」

 ウルマスは首を振った。


 コトカが言葉を挟む。

「ウルマス館長、書庫のどこかが城外とつながっているのではないですか」

「そんなはずはありませんが。もしもそうなら、一大事ですな……」

 ヴィルホも言った。

「抜け穴でもなければ、図書館の中で魔獣に襲われるなど、考えられない」


 ヴィルホは一同に命じた。

「わたしとアイノが書庫に探索に入ろう。ウルマス館長にも案内をしてもらう。衛兵も二人、ついてきてくれ」


 残りはホールに待機し、書庫の出入り口からなるべく離れたところに集まる。ベンヤミンが念のため結界を張って防御することになった。


 アイノがアルクの首元をぐいとつかむ。

「こいつも連れて行こう。半信半疑だけどな。本当に鼻がきくなら、斥候代わりになる」

 そのアイノの手をコトカが払った。

「アルクを連れていくなら、わたしも行くわ」

「くっ」

 にらみ合うコトカとアイノの間で、アルクは首をすくめた。


 コトカが行くなら当然リネアも従う。

 さらに、職人の一人が手を挙げた。「俺も行きましょう。衛兵か魔獣かの亡骸を運ぶこともあるでしょう」と不穏なことを言う。ホールでアルクの隣に座っていた、長髪を束ねた男だった。


 当初の想定よりも大人数になったが、ヴィルホは歓迎した。得体のしれない相手だ。頭数は多いにこしたことはない。

 五分後に書庫に入ることになった。


  ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎


 各自が準備をしているとき、アルクはコトカに声をかけた。


「あのさ、コトカ」

「アルク、どうしたの?」

「なんか、ごめん。君まで書庫に入ることになってしまって」

「ううん、構わないよ。いずれは調べる必要があったから」

「でも、本当にムアサドだったら、危険だ。獰猛な魔獣なんだ。コトカはホールに残った方がいいかもしれない」


 コトカはアルクの言葉に目を見開いた。そして、「えへへ」と照れたように笑った。

 アルクは「何か変なことを言っただろうか」といぶかしむ。


「わたし、そんな風に人から心配されたの、久しぶりかも。何だか嬉しい。でも大丈夫よ。ここにいる人の中で、わたしが一番強いから」

 コトカは、サラリとそう言った。


 アルクは「そうだった」と改めて気づく。可憐な容姿に惑わされてしまうが、コトカは魔法使いを上回る実力の持ち主だ。


 そして、コトカには、分かっていた。

 ここで一番弱いのがアルクだということを。あえてアルク本人の前では口に出さないが、コトカは「アルクのことはわたしが必ず守る」と心に決めた。


 ふと、コトカは思う。


「アルク。ムアサドのこと、よく気づいたわね。わたしは思いもよらなかったわ。ムアサドなんて話には聞くけど、実物は見たことがないし」

「あぁ。ムアサドは、俺の祖父じいさんがたまに毛を使っていたから。俺も祖父さんと一緒に何度か皮を剥いだことがある」

「アルクのお祖父さまって、何をしている人なの?」


 アルクは少し迷ったが、正直に答えた。

「魔筆師だ。三年前に亡くなったけど」


 コトカは息をのむ。

 あぁ、そうか——。

 点と点がつながった。アルクへの様々な疑問や興味が、箱の中にぴたりと収まったような気がした。


「アルク、だからそんなに魔筆に詳しかったのね。納得したわ」

「俺なんて、全然たいしたことないよ」

 アルクは赤い顔をして、そっぽをむいた。

「ううん、たいしたことあるよ」


 そして、コトカはアルクに聞いてみた。

 とても大事な質問のように思えて、何だか動悸を感じながら。


「アルク、あなたは、魔筆をつくれる?」


 アルクはその質問の答えを言いよどむ。

 そして、しばらくして、こう言った。


「つくれない」


「つくれないのね」

 コトカの期待で膨らみかけていた心がしぼむ。


「いや、思うようには、つくれない」

「と、いうと」

「うん、祖父さんがつくっていたようには、コトカが持っている筆のようには、とてもつくれないけど。でも」

「うん」

「数えきれないくらい、つくったよ。いままでに、魔筆を、何百本も」









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