第9話 魔導書と異変
コトカが台座をもう一度調べていると、王宮の役人マティアスが近づいてきた。
「コトカ殿、状況はいかがですか」
「お手上げですねぇ。厄災の書がなぜ消えて、どこへ行ったのか、さっぱりわかりません」
マティアスは銀縁の眼鏡の奥からコトカを静かに見つめる。コトカは先ほど考えた計画をマティアスに説明した。第一に代わりの魔導書を探す。第二に新たな魔導書をつくる——。
「なるほど。ご検討いただき有難うございます。しかし、そこまでの対処が本当に必要なのでしょうか」
「え」とコトカは思わず聞き返した。
マティアスは続けて言う。
「確かに、厄災の書は中世以前から、ずっとここに安置されていると伝えられています。だが、どれほど効果があるのか、意味があるのか、いまや誰も断言できません」
「では、マティアス殿はどうすればいいとお考えですか」
「なるべく手をかけないやり方を検討しましょう。降伏の魔導書の必要性について。魔獣や疫病に悩まされていた中世とは、時代が違う」
「このまま放置していいとでも?」
「あるいは。それも選択肢でしょうね」
マティアスは魔法使いではない。魔力や瘴気を感じる力がないので、周囲の変調は実感していない。「気付かないというのは幸せだ」とコトカは思った。
「マティアス殿、現にいま大図書館の周辺で、瘴気の濃度が高まっています。厄災の書が消えた影響ではないですか」
「そういう報告は聞いていますが、因果関係は分かりません。厄災の書とは別の理由かもしれないでしょう」
これでは話にならない。
もっとも、そういうコトカだって、厄災の書について、ちゃんと知っている訳ではない。何しろ実物を見たことがないのだ。
コトカは、マティアスの言葉をひとまず心にとめた。いずれにせよ、ウルマス館長とサナ司書から、詳しい話を聞かねばならない。
魔導書とは魔力を持つ書物の総称で、グリモワールとも呼ばれる。
この世界には、さまざまな種類の魔導書がある。最も一般的なのが、呪文や魔法陣が記されたもので、魔法を発動する鍵として使われる。
また、魔導書それ自体が魔道具として機能するものもある。攻撃、防御、防疫、転移などの多彩な用途に使われる。そのほか、魔物や魔獣を封じ込めた魔導書も存在する。そして稀にだが、意思を持つ魔導書もあるという。
それでは、厄災の書とは、いったいどういう類いの魔導書なのか——。
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アルクは地下一階ホールに展示されていた稀少本を見ていた。ここは、こんな機会でもなければ、彼のような平民が訪れることがない区域だ。
ここには魔導書はなかった。残念ながら魔筆の筆致は見られない。その代わり、仔牛皮紙に描かれた中世宗教画の写本などを眺め、無聊を慰めた。
突然、書庫の出入り口から誰かが出てくる。近くに立っていたアルクに、その人物がぶつかってきた。
司書のサナだ。
前を向いていなかったのか、激しい衝突でもなかったのに、サナは足をふらつかせて倒れた。
アルクは助け起こして声をかける。
「大丈夫ですか」
サナはアルクをぼんやりと見つめた。鼻筋が通った気品のある顔立ちだが、青白く、頰がげっそりとこけている。
サナは身を起こすと、何も言わずにそのまま立ち去った。身にまとった深緑色のケープの裾に白い二本線が入っている。
(あれが、この大図書館の二級写本師か。道理で——)
道理で、かすかに獣毛の匂いがする、とアルクは思った。それにしても、サナは疲れ切っている。まるで手負いの獣のように。
ウルマス館長もようやくホールに戻ってきた。
ウルマスのもとに、待ち構えていたヴィルホ、マティアス、そして、コトカが集まる。
ウルマスは「残念ながら、よい報告はありません」と厳しい表情を浮かべた。
代わりの魔導書は見つかっていない。
「手元にある魔導書のリストは、すべてを網羅している訳ではないのです。その数は膨大で、厳重に封印や箱詰めがされている。ひとつひとつ確認するとかなり時間がかかります」
ウルマスはもとは大学の研究者だったが、一年前に館長に就任したばかりだそうだ。「館内を把握しきれておらず申し訳ない」と話した。
それを受けて、ヴィルホが「探すなら我々みんなで手分けしたほうがいいだろう」と述べた。
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状況が変わったのは、その直後だ。
アルクは思わず天井を見上げた。
(何だか妙に騒がしいな。上の方でバタバタと窓が閉まるような音がする)
アルクの気のせいではなかった。周囲の職人らも、いぶかしげに頭上を眺めている。
その時、鉄の扉がガチャリと音をたてた。
地下一階ホールと地上を結ぶ巨大な開き扉が閉まったのだ。誰も触っていないのに、ひとりでに。
アルクは、コトカが「あ、マズい!」と声をあげるのを聞いた。
次の瞬間には、ホールを照らしていたランプの灯が全て消えた。突然の暗闇に、衛兵と職人らがざわめく。悲鳴をあげたり、互いにぶつかったりする者もいた。
ベンヤミンとアイノが扉に駆け寄る。鍵がかかった訳ではない。扉の鍵はホール側からも開けられる構造だ。だが、二人がかりで押したり引いたりしても、扉はびくともしなかった。
まもなく一同は思い知らされる。
この場にいた人は全員、地下に閉じ込められていた。
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