第10話 コトカと才能
「あなたは苦労なんて、何ひとつしたことがないのでしょうね。他人の悩みや思いなんて、きっと理解できないんだわ」
ある日、親友だと思っていた女性に、コトカはそんな風に言われた事がある。
その女性とはそれまで、喧嘩や言い争いをしたことがなかった。心が通じあっていると思っていた。コトカは、相手が何に対して怒っているのか、残念ながらよく分からなかった。
その時、どんな顔をして、どんな返事をしたか、全く覚えていない。「確かに、わたしは恵まれている。だからどうだっていうのか」。——たぶん、そんな風に心を落ち着かせたのだろう。いつもと同じように。
コトカはヴィーク王国の有力貴族の長女として生まれ、子供のころから何でも器用にこなした。学業も、武芸も、貴族のたしなみも。
ことに魔力の扱いは優れていた。
タイヴァス家は王宮の写本師を代々務める家柄だ。幼少期から学んでいるコトカの魔筆の技は抜群に冴えていた。
天才、鬼才、非凡な才能——。
周囲からそんな風に誉めそやされる度に、コトカは言いようのない苛立ちを感じた。
「才能、才能って言うけど、才能って何? 才能もわたしの一部分で、切り離せないものなのに」
才能を褒められても、嬉しくない——。そんな言葉には共感が得られないことを、いまのコトカは知っている。恵まれた者の傲慢と受け取られるだけだ。同じ写本師だった母が生きていたら、彼女にならわかってもらえたかもしれないが。
コトカという名は、遠い国の言葉で、
タイヴァスという苗字の語源は「空」だ。
すなわち、空の鷲。
コトカは自分の名前を気に入っている。
長い海岸線と濃緑の針葉樹林。
ヴィーク王国の上空を、悠々と飛ぶ大きな翼が目に浮かぶ。
だが、コトカはときどき思うのだ。
現実は、そうではない。
いろいろな物事に縛られているし、屈託も多い。根っこのところで、人に理解されず、薄靄がかかった気持ちを持て余している。
まるで、籠の中の鳥だ。
もちろん、口には出さない。
リネアが聞いたら驚き呆れるだろう。「いつも好き勝手やっているお嬢さまの言葉とは思えませんね」と。
その通りだ。だからコトカは、まず身体を動かすのだ。見る前に行動するのだ。
立ち止まって、動けなくならないように。
✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎
「お嬢さま——」
コトカの耳元でリネアがささやいた。
コトカは我に返る。
「リネア、どうしたの」
「いえ。お嬢さまがぼんやりとして、何かにとらわれていた様子だったので」
「大丈夫。ちょっと考えごとをしていただけよ」
地下一階ホールでは、一度は消えたランプが魔法使いの手によって再び灯され、薄明かりを取り戻していた。
問題は、地上への出入り口だ。
鉄の扉がぴったりと閉ざされている。
三人の魔法使い、それからコトカやリネアもいろいろ試したが、全く動かなかった。
ウルマス館長から「書庫から地上の倉庫へ抜ける通用口がある」と聞き、そちらも確認したが、同じように閉ざされていた。
ヴィルホはウルマスに迫った。
「ウルマス殿、ほかに扉はないのですか」
「ありません。後は通風口がいくつかありますが、人が通れる大きさではありません。そもそも、このホールの扉は閉じこめられる造りではないのですが」
コトカが言う。
「これは物理的な力ではなく、魔力によるものかもしれません」
ヴィルホが嘆息を漏らす。
「何とかして外と連絡を取る手段はないのか」
衛兵らを動員して大声を出させたが、地上に声が届いている気がしない。
コトカはヴィルホに言った。
「ヴィルホ殿、ここは王宮にも近い。これだけの人数が閉じ込められたのだから。異変に気づく者も出てくるでしょう」
「そうですね。我々からの定時連絡がなければ、王宮も何かあったと思うはずです」
それにしても。
これが、魔力によるものだとしたら、何と大掛かりな力だろう。結界なのか、封印なのか、その枠組みは分からないが。相当な魔力が注ぎ込まれている。
王宮が異変に気づいたとしても、我々が中から開けられないものを、外から容易に開けられるとは思えない。事態はかなり深刻なのではないか。
ヴィルホがコトカに問いかける。
「コトカ殿、厄災の書の消失と、この異変とは、関連性があるのでしょうか」
「何とも言えません。でも、可能性はありますね」
そう答えた後で、コトカは考える。
ホールの台座付近で腰に手をあてて。
これだけの魔力を個人が扱えるのか。魔法使いや準魔法使いにできるのだろうか。
台座を眺めているうちに、コトカはふと思いつく。「もしかすると、わたしたちはみんな、勘違いをしているのではないだろうか」と。
厄災の書についてだ。
そもそも、消失したという前提が間違っていたとしたら、どうだろう。
消失などしていないのかもしれない。
いま我々が置かれている、この状況が、厄災の書によるものだとしたら——。
コトカはその思いつきに、戦慄を感じた
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