第1話 魔筆師と工具師
アルク・アールトの日課は、深夜に数時間かけて獣毛と向き合うことだ。獣毛を慎重に選り分け、熱で伸ばし、クシでけずる。ただの獣毛ではない。魔獣の獣毛だ。
日課は六歳のとき、祖父の指導で始まった。
「いいか、アルク。五感を研ぎ澄ませろよ。獣毛の特性を引き出すには、魔獣が生きていた頃の姿を思い浮かべて、毛先から魔獣の声を聴くんだ」
祖父のそんな言葉をアルクは血肉にした。アルクが十三歳の時に祖父は亡くなったが、十六歳になったいまも自分の意思で日課を続けている。
仕事から帰って簡素な夕食を済ませた後、住居兼用の工房にオイルランプを灯す。獣毛を切る小刀や、熱を加える炭火の扱いも、今では手慣れたものだ。
アルクは職人街で大人に囲まれて育ったせいか、年齢の割に落ち着いていた。一歩下がって、灰色の巻毛の下から周囲を冷ややかに眺める癖がある。初対面の相手にはとっつきにくい印象を与えがちだ。
そんな彼が、獣毛を手にすると、子供に戻ったように無心になった。
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この日、アルクは、イッカクウサギの毛を前に笑みを浮かべていた。
(ようやく手に入れた。めったに出回らない上物だ)
職人ギルドに出入りする卸商に頼みこんで調達したものだ。
三センチ四方の皮に銀色の滑らかな毛がついている。手のひら大の小片だが、これだけで銀貨二十枚もした。アルクにとっては一月分の稼ぎで、安い買い物ではない。
魔獣と普通の獣の違いは「魔力」にある。魔力を宿したり、魔力に反応したりできるのが魔獣の特徴だ。
イッカクウサギは、外見は野ウサギに似ていて、額に長いツノが生えている。警戒心が強く、外敵が近づくと魔力による衝撃波を発して威嚇する。
卸商は「狩られて数日しかたってないんだぜ。倉庫で眠っていたやつじゃない。新鮮そのものだ」と言って太鼓判を押した。
イッカクウサギの毛皮は独特の光沢があり、貴族が着るコートや襟巻きの素材として珍重されている。通常は丸ごと高値で売買されるため、アルクには手が出ない。そこで捕獲時に破損した小片を探してもらったのだ。
(うん、間違いなくイッカクウサギの尾のそばの毛だ。毛足は長いし、傷もない。あの卸商、いけすかないヘラヘラした奴だったけど、仕事は確かだ)
毛にはまだ生前の魔力が残っていた。アルクの掌の上で毛先が光を放ち、かすかに明滅する。その銀色の光がオイルランプの光と混ざり合う様は、アルクの目には何とも美しく、妖艶に映った。
アルクはこれから数週間かけて、この毛で
(小筆にするとして、二本くらいできるかな。毛質は硬めだな。他の獣毛は混ぜず、イッカクウサギの毛だけで仕上げよう……)
魔筆づくりは誰かから注文を受けた仕事ではない。アルクにとっては日常の一部であり、そして修行だった。
アルクの職業は、職人ギルドの名簿には「工具師」と記されている。ノミやカンナなどの大工道具をつくるのが主な仕事だ。
だが、いつかは、魔筆をつくる
魔獣の毛でつくられた魔筆は、ただの筆とは違う。魔力を持つ者が使うことで、書いた字に様々な効果を付与できる。一種の魔道具だ。魔導書のほか、呪符や護符などを書くのに使われる。
魔筆は一般人に使いこなせる代物ではない。使い手は魔法使いや準魔法使いに限られる。だから魔筆はとても特殊な製品で、需要も限られていた。
(俺自身が使いこなせればいいのだけど)
アルクはしばしば、そう思うのだった。
彼には魔法使いの資質は、残念ながらない。魔法使いは近寄り難い雲の上の存在だった。
世の中に出回っている魔筆は、高名な魔筆師の手による銘品か、代々受け継がれてきた伝来品が多い。中には美術的価値のあるものや、貴重すぎて値段がつかない骨董もある。
場末の工房の、名もなき工具師がつくった魔筆など、誰が買ってくれるというのか。だから、アルクに魔筆師は名乗れない。アルクはこれまでに何本もの魔筆をつくっているが、人に売ったことはなかった。
それでも、アルクは夢みている。
いつか、自分の銘が入った魔筆を誰かが使ってくれるかもしれない。魔筆師を名乗れる日がくるかもしれない。
そして、竜の髭のような稀少素材を使って、世界一の魔筆をつくるのだ——。
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アルクの夢想は、扉の音で中断した。
誰かが工房の玄関扉を激しく叩いている。
「おい。アルク、もう寝たか?」
声には聞き覚えがある。
職人ギルドで地区の取りまとめをしているエミルじいさんだ。
「やれやれ」
アルクは腰を上げ、かんぬきを外した。扉を開けるとエミルじいさんの赤ら顔があった。
「おぉ、すまねえな。急な仕事の依頼なんだ」
エミルじいさんは口先だけは、すまなそうに言った。
「何だよ、こんな時間に」
アルクの喋り方もついぞんざいになる。
せっかく獣毛に没頭していたのに。普段世話になっているエミルじいさんでなければ、寝たふりをするところだ。
「アルク、明日、朝から空いてないか。現場に工具師を出してほしいって言われたんだ」
「まぁ、空いてなくもないけど。どこの現場?」
「王立の大図書館だ」
「あぁ、あそこか」
思い当たった。
大図書館は中世から建っている。
アルクが住むカレフ王国の首都タリアのシンボルとも言える、巨大で荘厳な建物だ。
数年前から大規模な改修工事が進行中で、ギルドの工具師がたびたび召集されていた。
ああいう古くて貴重な建物の場合、構造や調度品の解体などに、その場で現場に合った工具をつくる必要があるのだ。アルクも前に参加したことがあった。
「急きょ腕のいい職人を手配してほしいって、王宮からギルドに依頼が来たんだ」
アルクは「ふぅ」とため息をつく。明日からイッカクウサギの魔筆づくりに本腰を入れるつもりだったが、仕方ない。
「いいよ。行くよ」
「おぉ、助かる」。エミルじいさんは安堵した様子で「給金は上乗せしてもらうよう手配しておくからな」と言った。
「あぁ、よろしく頼む」
仕事があるだけでも万々歳だ。
アルクのような若い職人になかなか仕事は回ってこない。アルクの手先の器用さと、仕事を選ばない姿勢が評価され、何とか食い扶持を稼げている。
「じゃあ、明日は朝八時に大図書館の入り口に行ってくれ。遅れるなよ」
「わかってるって」
アルクは扉をしめた。
とりあえず、イッカクウサギの毛は小箱に戻して棚の奥にしまった。そして、明日に向けて、仕事道具を準備した。
いまはとにかく目先の仕事だ。
だが、このとき、アルクの人生は、新たな方向へと舵を切っていたのだ。
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