魔筆師アルクと厄災の書
やなか
プロローグ アルクとコトカ
それは絶叫というよりも、獣の咆哮だった。人であることを捨てた、人ならざりしもの。その断末魔の唸りが、轟音とともに
土煙と埃がもうもうと舞う。
「今度こそ、仕留めたか?」
アルクは確認のため立坑へと近づく。
「アルク、気をつけて」
コトカがささやいた。
コトカは戦いを重ねたせいで、その可憐な顔も、琥珀色の髪も、血と汗と泥にまみれている。彼女のケープは土煙で汚れ、裾のストライプ模様がもはや視認できない。
それはアルクも同様だ。さっき石の床に叩きつけられた時に顔面と胸を強打した。右眼は腫れて開かないし、おそらく肋骨も折れた。それでも両手は必死でかばった。両手は彼の商売道具、いや、彼の大切な武器だからだ。
そのアルクの手をコトカがそっと握った。
アルクはコトカの手を握り返すと、そろそろと首をのばして立坑をのぞきこむ。
アルクがスンと鼻を鳴らす。彼の研ぎ澄まされた嗅覚は、立坑の最下層で蠢く敵——人ならざりしものの気配をかぎとった。
「たぶん、まだ生きている」
アルクがそう告げると、コトカも答えた。
「そうね。かすかにだけど。瘴気が立坑に集まっているわ」
大図書館の地下には、階段室と空気孔を兼ねた巨大な立坑がある。それが地下一階から地下四階までの吹き抜けになっていた。
コトカとアルクは、立坑に敵を誘い込み、
「これでも倒せないのか」
思わず嘆息をもらしたアルクに、コトカが声をかけた。
「アルク、ここからだよ。たたみかけよう」
コトカの声は、まだ諦めていない。
「よし」
アルクは弱気になりかけた自分を戒める。
(俺はコトカのために、自分が出来ることをやるだけだ)
そして、たすき掛けにした工具入れから、
アルクが魔筆を渡す。魔筆の使い手である目の前の少女に。
コトカが右手で受け取り、声を上げた。
「アルク、これって、もしかして」
それはコトカが持っていた
「コトカ、穂を別の軸に付け替えたんだけど、どうかな?」
コトカはそばに落ちていた羊皮紙を拾い上げると、魔筆をサラサラと走らせる。穂先から魔力がほとばしり、閃光が走った。
「うんうん、いい感じ。すっごく手になじむ」
アルクはひそかに穂にも手を加えていた。コトカには言っていないが、別の「毛」をブレンドしている。その効果はこのあと明らかになるだろう。
コトカの国宝級の筆を改変するのは気が引けたが、敵を倒すために最適解を選んだ。
コトカが言う。少しはにかみながら。
「アルクと一緒なら、どんな敵にも負けない気がするよ」
俺もだよ、とアルクは思う。
アルクはなぜ、こんなにも魔筆にこだわってきたのか。
祖父の背中を追いかけ、魔筆の美しさに魅せられて、ここまできた。だが、それだけじゃない。
アルクは、コトカを支えるうちに、自分の中に芽生えた新しい感情に気づいていた。
魔筆を介し、使い手とつながる喜びに——。
立坑の下から、咆哮が響いた。
あいつだ。あの厄介な敵が、再び動き出した。
アルクとコトカの最後の戦いが火蓋を切ろうとしていた。
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