第18話 善意とエゴを隔てるもの

「お待たせしました」


 カナタが2人分のカップを持って戻ってきた。


「何か私にしてほしいことはありますか?」


 恐らくは深刻な顔をしているであろう俺を気遣ってくれる。


「あ、大丈夫です」


 俺は笑顔で答えたつもりだが、うまく笑えている自信はなかった。


「顔色が悪そうに見えるから、しばらくここで休んだ方がいいと思います。本当はベッドでもあればよかったんですけど、ここにはなくて」


 申し訳なそうにするカナタ。しかし、もちろんカナタは何も悪くないし、むしろこんな俺を気遣ってくれることに後ろめたさを感じた。


「そんな、大丈夫です。本当にちょっと驚いただけで」


 俺がそう答えると、カナタは困ったような笑顔を浮かべた。


「無理をする必要はないんですよ。辛かったら辛いって言っていいんです」


 そう言われた瞬間、不覚にも泣きそうになってしまい、慌てて両目を手で覆って下を向いた。この人なら分かってくれるのではないか、俺の話を聞いて何か良いアドバイスをくれるのではないか。そんな期待から口を開きかけた、その時だった。


「性暴力に遭ったら誰だってそうなります」


 それは本当に予期していなかった言葉だった。




「え?」


 思わず顔をあげてしまう。そこには痛ましいものをみるようなカナタの顔があった。


「実は私も同じような目に遭ったことがあるんです。だから気持ちは痛いほどよくわかります」


 カナタの声は確かにこの耳に届いているのに、それを受け入れたくないという気持ちが俺を支配して、意味を理解することを拒絶している。この感情をなんと表現すればいいのだろう。戸惑い、焦り、不安、絶望。そういった感情がごちゃ混ぜになって、内面は大荒れなのに、外側はむしろ冷えきって落ち着きを取り戻しているかのようだった。


「同じような目?」


 そう問いかける俺の視界にはカナタの胸に輝く虹色のワッペンが映っていた。あの時は頼もしく見えたのに、今は何だか空々しい。


「えぇ。ちょっと状況は違うけど、こっちにその気はないのにしつこくつきまとわれて、拒絶したらストーカーのようになってしまって。すごく怖かったし恐ろしかった」


 ふぅっと息を吐くカナタの目に、俺はどのように映っているのだろう。


「それは大変でしたね」


 俺は無感情に会話を続ける。


「そうですね。だからこそ、ああいう場面を見ると放っておけなくて。実は私、ここでボランティアをはじめてまだ日は浅いのですが、男性でも被害に遭うってところを目の当たりにしましたから、性暴力根絶の運動をしていかなきゃなと改めて思いました」


 鼻息を荒くするカナタの話をぼんやりと聞きながら、この人もまた無知な人の一人なのだろうなと思った。


「あ、つい私の話をしてしまいました。今はユウさんのケアが優先なのに」


 そう言って謝罪するカナタの様子を見ていると、この人の行動原理自体はまごうことなき善意なのだと思った。だけど、前にミライが言っていたように、善意とエゴは紙一重だ。


「あの、一つ聞いてもいいですか」


 静かにそう尋ねると、なんでも聞いてくれと言わんばかりに目を輝かせるカナタ。


「もちろんです」


 その答えを受けて、俺は質問を投げかける。


「あなたはどうしてここのボランティアを始めたんですか」


 すると、カナタはにっこりと気持ちの良い笑顔で答えた。


「そうですね。きっかけは自分が性暴力に遭ったことで、それでフェミニズムに興味を持ったんです。そしてその過程でLGBTのことも知って。もちろん言葉自体は知っていましたけど、改めて本なんかを読んでいくうちに、こんなに可哀相な人たちがつらい目に遭っていると思ったら、何かしなくてはと思ったんです」


 カナタは曇りなき眼でそう言い切った。


「すいません、もう一ついいでしょうか」


 俺が追加でそう尋ねると、カナタはくすぐったそうな笑顔を浮かべる。


「ふふ、何個でもいいですよ」


 そう答えるカナタに、俺は淡々と質問を続けた。


「LGBTQ+の人たちを気持ち悪いと思ったことはありますか」


 すると、一瞬固まったカナタは、しかしすぐに笑顔に戻って答えてくれた。


「いいえ。だって私たちは同じ人間じゃないですか」


 善意とエゴを隔てるもの。それは、知識と経験と視界に相手を入れているかどうか。その発言を聞いて、俺はそんな風に思った。




 とても会場に戻る気は起きなくて、俺はそっと裏口から外へ出る。カナタにはまたいつでも来てくれと言われたが、もう二度と足を運ぶことはないだろうと思った。


 駅へと向かう道の途中、小さな公園が目に入る。すると、吸い寄せられるように公園のベンチへと足が向かった。流れるようにベンチにたどり着き、そこに腰掛けたその瞬間、全身の力が抜けて動けなくなった。




 しばらくぼーっと公園の遊具で遊ぶ子供たちを見ていると、スマホが鳴っていることに気づいた。


「はい、もしもし」


 俺は何も考えずに電話を受ける。


「ユウ、お前今どこにいるんだよ」


 すると、焦ったようなコウの声がした。そこで初めてコウに何も連絡せずに会場を出てしまったことに気づく。


「あ、悪い。連絡するの忘れてた」


「……お前、大丈夫か?」


 コウは怪訝そうに尋ねてくる。いつもの俺だったらこんな時、余計な心配をかけまいと、大丈夫だと答えるだろう。


「……大丈夫じゃないって言ったらどうする」


 しかし俺は気づくとそう言っていた。これじゃあまるで恋人を困らせて気を引こうとする面倒な女みたいだな、と思うと同時に、そんな風に思うのはまたも偏見の表われじゃないか、と哀しくなった。


「今どこにいる」


 コウは淡々とそう聞いてくる。この場所を伝えたら、コウは駆けつけてくれるだろうか。でも、正直今は誰にも会いたくなかった。


「ごめん、レポート終わってないの思い出してさ。家に向かってるとこ。電車来たから切るわ」


 一方的にそう告げて、俺はスマホの電源を落とした。




 そこから家に帰るまでの記憶は曖昧だ。ふわふわとしていてぼんやりとしていた。帰宅してからも何もする気になれなくて、とりあえず点けたTVの画面をぼーっと眺めて過ごす。嵐が過ぎ去るのを巣穴で震えて待つウサギはこんな感じだろうか。


 ピンポーン。

 どれくらい時間が経ったのか。玄関からチャイムの音がする。しかし出るのも面倒で、居留守をしようと無視をする。


 ピンポンピンポンピンポンピンポン。

 するとかなり激しく鳴らされるチャイム。あまりのしつこさに怒りのまま玄関へと向かう。


「はい、どちら様ですか」


 不機嫌を隠しもせずに少し乱暴にドアを開ける。


「こんばんは。愛しのミライちゃんです」


 するとそこにはミライが立っていた。

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