第14話 喧嘩はお仕舞い

 暗くなった天井。背中に伝わるふかふかの感触。

 ベッドサイドのテーブルに置いてある小さな灯りは、暗い室内を温かいオレンジ色の光で柔く飾り付けていた。


 寝起きの頭じゃ思考が上手くまとまらずに、只々ぼうっと天井を見つめ続ける。

 2,3回瞬きを繰り返した頃ぐらいにガタと木が床を擦る音がして、そちらにゆっくりと目を向ける。と、もう見慣れた無表情のアシビがいた。


 そのぼんやりとした私をアシビは冷たい目で一瞥してさっさと部屋を出ていく。それに何を思うこともなく声もかけずにただ見送った。


 窓の外は厚手のカーテンで遮られていて見えないが、多分もう日が落ちているのだろう。

 ベッドサイドのオレンジ色の目に優しい小さな灯りでは届かない天井の四隅には黒い生き物のような影が住み着いていた。


 その影を見ていると変な感覚がする。

 なんだろう……身体がムズムズするというか、こう……伸びをしたくなるような、あくびをしたいような、くしゃみが出る前のような変な感覚で。

 そして胸の奥と室内の四隅の小さな影が繋がっているような、変な感覚。


「え」


 そのムズムズとする感覚が不快で、身体を伸ばすように、あくびをするように、くしゃみを出そうとするように軽い気持ちで息を吐いた。ら、私が見つめていた左上の四隅の影の1つが天井から落ちてきた。


 ベッドサイドのテーブル近く、アシビが先程音を立てた椅子の近くにボトンっと音を立てて真っ黒い液体のような影が落ちてきて、まるで意思を持っているかのようにその場で小さくフルフルと動いている。


「あ、え?」


 なにこれ。動物? え? とフルフル動く影を見ながら混乱して、頭の中で会話を繰り返して、ふと気づく。そういえばこの影を操ってテレサを殺そうとしたんだった。


「あー……」


 それを思い出したら途端に全て走馬灯のように頭のように流れてくる。

 自分の影が沸騰したお湯のように煮え立って、伸びて、他者を攻撃したこと。

 自分の影のみならず騎士のような恰好をした2人の影も操れたこと。

 アシビに吹き飛ばされたこと。

 そして。


「何、これ……気持ち悪……」


 胸に何かがいる感覚。と言ったら御幣を生みそうだけど……自分の身体の一部が変化したような。酷い不快感。

 自分は自分なのだけれど、何かが変わってしまったような、取り返しのつかないことをしてしまった後のような。本当に本当に気持ちが悪い。


 自分なのだけれど、明らかに変わっている。見た目も身長も体重も何もかも多分何も変わらないのだけれど、とにかく違う。

 あの時から、テレサに言い様のない程の鈍く黒い憎しみが心にできてから。まるでその時から心の内側に黒いペンキで塗りたくられた様な。


 何も違わないのだけれど、圧倒的に変わってしまった感覚。

 気持ちが悪い。この自分の今の状況を表す適切な言葉が見つからない分もどかしくて不快感が増す。


 昔、離人症と言う症状をテレビの特集で見たのだけれど、もしかしたらそんな感覚に近いのかもしれない。


「気持ち悪い」


 天井を見る。

 気持ち悪い。

 心臓が位置する場所に、服越しに爪を立てる。

 力を込めて爪を下ろす。爪の動きに合わせて痛みが追従する。

 でも不快感が拭えない。嫌だ。気持ち悪い。


 この感覚が凄く気持ち悪い。心の奥にヘドロがこびり付いているような。今すぐ拭い去りたいのに、拭っても拭っても取れない。今もこんなに爪を立ててるのに、力を込めてるのに少しも取れない。取れてくれない。


「気持ち悪い……!」


 不快感が取れない。イライラする。気持ちが悪い。

 何も考えていないのに、何もしていないのに怒りが黒い場所から込み上げてくる。


 不自然に湧き上がる怒りに耐え切れず上体を起こした所で、部屋のドアが静かにノックされた。


「……」

「入りますよ」


 その声を聞いた途端、ドアが開いてその女の姿が見えた途端、心の内の黒いモノが決壊して一気に溢れ出た。


「エリ。落ち着いてください」

「……テレサ様。一度この女の骨を折りましょうか。その方が心置きなく、ごゆっくり話すことができると思いますが」

「アシビも。落ち着いてください」


 ドアを後ろ手で閉めたテレサに理性を失って飛び掛かったのは私で、先程地面に落ちてきた影や、テレサとアシビと自分の足元にある小さい影がテレサに向かって槍の先のように鋭く伸びた影を向かわせていた。

 でもやっぱりそれら全てはアシビの魔法のようなもので止められていて、テレサは無傷で立っている。

 憎たらしい。

 私がテレサを傷つけようとして伸ばした手もアシビに手首を掴まれて動かせなくなった。

 憎たらしい。

 私のことをことごとく邪魔するアシビが、邪魔で邪魔で仕方がない。

 

「邪魔」

「口の利き方に気を付けたほうがいいですよ」


 テレサに向かっていた影がアシビの元へと向かっていく。

 掴まれた片手をアシビの手から解こうとしても動かない。引っ張っても押しても離れない。


「馬鹿力すぎるでしょ。離して」


 どうやらアシビが風らしきものを身にまとっていることは分かった。

 私の感情のままにアシビに向かっていく律儀な影達は、アシビの身体に触れる直前に呆気なく寸断されて地面にボトボトと落ちていて、その影を切り落とした場所に目を凝らすと凝縮された風のようなものが渦巻いている。

 

 もしアシビが風を操れるのだとしたら私の操れる影達は見た所、紙のように耐久性がないらしいのでアシビとの相性は最悪だろう。

 面と向かいつつ盛大に舌打ちをした。

 そしたらばと拘束されていないもう1本の腕で私の右手首を掴んで離さないアシビの手を掴み指を1本でも右手首から離そうとするけれど、やっぱり石のように動かない。


 馬鹿力サイコパスバイオレンスクレイジー駄メイドめ。まさかこれほど力が強いとは思わなかった。

 

「本当に力がないんですね。大丈夫ですかと心配になるほどです。よくこれまで生きてこられましたね」

「うるさい馬鹿力女。何食べたらこんなゴリラみたいな力になるのよ。頭おかしいんじゃないの?」

「おや、まさか部屋に入ってすぐ攻撃してくる頭のおかしい異世界人に頭がおかしいなんて言われるとは夢にも思いませんでした。頭の方、大丈夫ですか?」

「うっさい。あんたに構ってるやるほど馬鹿じゃないの。さっさと手退けて、ついでにこの部屋からも出てってくれる?」

「あぁ、鳥頭とは言えこんなにすぐ忘れられると笑ってしまいますね。ここは私の部屋でもあるのです。あなたが出て行けという権利は一切ありませんよ」

「認めてないから。あんたは廊下ででも寝てればいいんじゃない? 馬鹿みたいに力あるんだし、廊下で寝起きしても大丈夫でしょ?」

「もう……2人とも……」


 私の影とアシビの風が攻防するその奥でテレサが珍しく苦笑を浮かべていた。

 それを見た私の心象に影響されたのか、アシビに向かおうとしていた影が急速に方向転換しその顔に迫るけれど、テレサを守るアシビの風が何て事もなく斬り伏せる。


「アシビ、貴女まで興奮してどうするの」

「テレサ様。はっきり言っておきますが、私はこの女がとても嫌いなんです」

「わぁ奇遇。私もあんたのこと大っ嫌い」

「まぁ嬉しい。両想いですね私たち。では記念に骨でも折ってさしあげましょうか?」

「アシビ……」

「あんたの骨ならいくらでも貰ってあげるけど?」

「エリも……もう。仕方ありませんね」


 呆れたようにテレサがそう呟いた瞬間、ふわりと部屋の空気が一新した。

 

 まるで太陽に明るく照らされた色とりどりに咲く花畑の、その空間の雰囲気を切り取ってこの部屋の中に移植してきたようで、照明も何も変わっていないのに部屋中が明るくなったように感じられて。

 それから胸に巣くう怒りを伴う嫌悪感が、小さく小さく。何かの力に握りつぶされるように圧縮されていく。


 今まで何故こんなにも周りにイライラしていたのか分からなくなって、心が軽くなっていって、それと同時に影が元気を無くしたように動きが鈍くなっていき、ついには普通の何の変哲もない影のようにピクリとも動かなくなった。


 テレサは1人優雅に微笑んでいる。


「はい。もう喧嘩はお仕舞いにしましょう?」


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