団地

 マンションの目の前にあった団地が解体作業をはじめた。数ヶ月前から解体の準備は続いていて、いざ本格的に始まってみると、工事中に鳴り響くコンクリートが砕ける音と、物体がもう二度と戻ることのない状態になる振動が少女の部屋にも窓越しに伝わった。母親は工事の音がうるさいから文句でも言いに行こうか、とリビングでテレビの音を普段よりも五ほど上げながら言ったが、結局行くことはなく、昼のワイドショーを見続けた。

 少女の部屋はちょうど団地側にあり、窓を覗けば団地の様子を眺めることができた。一号棟から六号棟まで一列に並び、敷地面積は約一万平方メートル。総個数は約二百戸。築五十年。インターネットで調べたその様々な単位の数字が一般的に大きいのか小さいのか定かではなかったが、窓越しに見える景色が日に日に広くなっていく光景は壮観だった。濃いグレーの、それが汚れなのか元々の色なのかわからない淀んだコンクリートの塊が、黄色いヘルメットをかぶった人間たちによって破壊されていく過程。少女は朝起きるとすぐに窓際にキャスター付きの椅子を滑らせて、それらを一日中眺めた。キャンプファイヤーの炎を永遠と眺められるように、コンクリートが破壊されていく様子も永遠と眺めることができた。それでも解体作業は午後の五時までに終わってしまうから、夜は誰もいない壊れかけの建物を見て過ごした。

 窓からは五号棟と六号棟が見える。解体前は、棟の間の中庭で小学生たちが走り回っている様子を眺めることができたが、解体中は、休憩時間に工事の作業員たちが煙草を吸ったり、コンビニのおにぎりを食べたりする場所になっていた。一つしかないベンチは年長者が使い、それ以外の者たちは地べたに座っていた。

 少女は作業員の顔を全員覚えて、彼らが昼食時にいつも食べているコンビニのおにぎりや飲んだことのないジュースのパッケージを注意深く観察した。それらを暗記しておき、少女は夕方になるとそれらを購入するために家を出た。コンビニに行くときにはお気に入りのリュックサックを背負って、散歩にいってくる、とリビングにいる母親に声をかけた。どこに行くの? と母親はあわてて玄関まで飛んできて、分かりやすい心配顔をした。ちょっと歩きたい気分なの、と少女がこれもわかりやすい神妙な顔をすると、母親は目元にシワをよせ、わかった、気をつけてね、少女を見送った。

 コンビニで商品を購入して、そのまま帰るのもばつが悪く、本当に少しだけ散歩をした。目的は散歩ではないが、でも実際に散歩をしているのだから罪悪感のようなものは感じなくていい。

 上から見る団地の景色と地上から見る団地の景色は、想像していたよりも同じだった。違っていたのは、上からは中庭が見えるが、地上からだと柵があるから見えないし行けないことだけだった。団地の周りの薄暗い道をぐるりと一周すると、コンビニでは見つけられなかった派手なパッケージのジュースを道沿いの自動販売機で発見し、少女は思わず二本買ってしまった。自分のお小遣いをこんな風に使うことに奇妙な感覚を覚えたが、他に使い道もなかったから特に問題はなかった。買った商品はリュックサックに入れ、母には見られないように帰宅し、それらを冷蔵庫ではなく自室のクローゼットに隠しておいた。次の日になると、彼らが昼食をとっている様子を上から覗きながら、少女も彼らと同じものを食べた。もちろん、母が用意してくれた昼ごはんも後でちゃんと食べた。

 定番のツナマヨおにぎり、焼きそばパンやメロンパン、その他菓子類。全部を購入するのは無理だったため、少女は気になったものを毎回二つほどにしぼって購入することにした。そうでないとお腹がいっぱいで太ってしまうし、何よりお小遣いもそこまで多くはない。

 おにぎりの具は日によって異なる。作業員がどの具を食べているのかまではわからなかったが、チャーハンおにぎりやオムライスおにぎりといった遠目でも違いがわかるおにぎりの時は、次の日にそれを購入した。そしてその日に同じものを食べている人がいると、同じタイミングでそれを口にして、同じタイミングで飲み物を口に含んだ。飲み物はお茶の時もあれば炭酸飲料、甘いジュースの時もあり、おにぎりにはお茶が一番合うと、このときに理解した。甘いジュースを一気に飲む作業員には、「それ、そんなに美味しくなくない? それよりもこの前食べた新作のチャーハンおにぎり、なんで今日は食べてないの? あれ、リピートしたくなる味でしょ」と小声で話しかけるふうにして、親近感を演出した。もちろん彼らは少女が上から覗いていることなど知らないから、少女は安心して声に出すことができる。

 作業員の中には若い男性もいて、彼が他の中年作業員とは違ってサラダを食べているところに、少女は好感を持った。次の日にはさっそく少女もサラダを購入し、店員にもらったプラスチックのフォークで食べた。シャリっという音が思いの外大きく部屋に響いて、心臓が普段よりも多く全身に血を供給した。彼はいつもミネラルウォーターとサラダとカロリーメイトという組合せで、中年作業員によくいじられていたが、彼は金髪の長い髪の毛の隙間から覗く大きな瞳を細めて笑うだけだった。少女も数日間は彼と同じ組合せで食べていたが、数日経つと彼は姿を現さなくなった。少女はまたおにぎりやパンを食べるようになった。

 解体作業は順調に進んでいった。団地に隠れていた、奥にある建物が姿を見せるようになって、時間の経過が可視化できた。作業員がせっせと瓦礫を移動させている姿は、健気な働き蟻を連想させた。だから夜は動画サイトで蟻の巣で働き蟻がせっせと土を巣から出している映像を見つけ出し、ただそれをジッと眺めて、夜寝るまでの暇つぶしをした。巣の近くに故意に置かれたショートケーキの欠片を小さな体で巣まで運ぶ働き蟻の姿は、見ていて飽きなかった。私も窓からケーキを落とせば彼らが運んで行ってくれるのだろうか、と少女は想像したが、結論に行き着く前に眠りについた。

 解体作業は季節が一つ過ぎる程度で完了してしまった。一万平方メートルという数字が目の前に広がっているのを見て、一万という数字の大きさに息を飲んだ。

 何もない更地の周りには、少女が住んでいるマンションの他に商店街、細い川、教会やファストフード店などが点在していて、少女は確かにこの街に住んでいるのだと実感した。学校がマンションを挟んで反対側に位置していることだけは何よりの救いだった。

 作業員はもう中庭に現れない。中庭にあったベンチも撤去され、煙草の吸殻も綺麗に掃除されていた。

少女はその日も夕方になってから家を出た。その頃には、母親も整った造花のような笑顔で少女を見送っていた。一度だけ母親が少女のあとをつけてきたことがあったが、その時はコンビニには寄らずに団地の周りを歩いて帰った。その後、母親は何もしなくなった。

 少女はコンビニで一番のお気に入りセットを購入した。緑茶とチャーハンおにぎりとあんことマーガリンのコッペパン。コンビニ袋を腕にかけて、両手はポケットに突っ込んだ。  

 今日は初めて、あの中庭で食べようと、少女は心に誓っていた。解体期間中には思いもしなかったが、彼らがいなくなってはじめて、彼らがいた場所に行きたいとムズムズと太股が痙攣するような衝動にかられた。

中庭に一番近い柵の前で、辺りを見回してから、まずはコンビニ袋を中に放り投げ、それから柵をよじ登った。久しぶりに自分の体が重力に従っていることを思い出す。柵に登る時の跡が掌に赤黒くついて、ミミズの死骸のように見えた。

 中庭があった場所に移動する。土は湿っぽく、少女の綺麗なスニーカーにくっついた。広い空間に冷たい風が吹いて、前髪が横に流れる。

 後ろを振り向くと、少女の住むマンションが建っている。少女の部屋がある場所は下から見ると意外と近く見えた。夕方の暗さのせいかもしれないが、もしかしたら彼らは自分の存在に気がついていたのかもしれない。しかしもう彼らは現れることはないから、そんなことを気にしていても仕方がない。そしてもし自分の存在に気がついていたのならば、それはそれでよかったような気もする。

 中庭の位置関係をマンションとの距離を測りながら理解していく。ここら辺は顎髭を生え散らかした作業員がいつも煙草を吸っていた場所。ここは、上から見るとつむじの大きさが目立つ作業員が座ってスマートフォンをいじっていた場所。そしてここは、あの金髪の男性がサラダを食べていた場所。少女はその場に立って、大きく息を鼻から吸い込んだ。腐敗した粘土のような臭いがした。

 少女はチャーハンおにぎりを取り出して、ビニールをめくって、一口食べた。油でコーティングされた冷えた米粒は、自室で食べるよりも味が薄く感じた。冷たい風がチャーハンと一緒に口の中に侵入するため、味覚を麻痺させるのかもしれない。残りのチャーハンも一気に口に含もうとすると、十粒ほどの米の塊が地面にこぼれ落ちた。少女は緑茶で口に含んだ分の米粒を胃に追いやりながら、地面にこぼれた米粒をつま先でつっついた。一瞬つま先に引っ付いてしまった米粒を、少女は慌てて足首のスナップをきかせて払いのける。斜め前に落ちた米粒。あの塊もいずれ働き蟻が見つけ出し、巣に持ち帰るのかもしれない。少女はくすりと笑って、もう一口緑茶を飲んだ。

 空を見上げると、マンションの奥に夕日が沈んでいく途中だった。夕日の向かう先には学校がある。マンションが影になって少女と団地の跡地に覆いかぶさる。日陰になった瞬間に淡い暖かさも消え、ズボンとスニーカーの隙間から鰯の大群のように冷気がなだれ込む。先ほど飲んだ緑茶の冷たさが胃の表面に直接届き、内側と外側から少女の輪郭をはっきりと映していった。

 腕にかかったコンビニ袋がバタバタと耳に障る音を立てる。中にはまだあんことマーガリンのコッペパンが入っている。

 もう一度、こぼれた米粒が落ちた方向に目をやったが、なぜか見つけることが出来なかった。風が吹いて飛ばされてしまったのか、土が覆いかぶさってしまったのか、あるいは、蟻の巣に運ばれていったのか。

 少女は、あんことマーガリンのコッペパンのパッケージを眺めた。胃の奥からチャーハンの臭いがして、大きなゲップも後からやってきた。

 しばらくそこに立ち止まって停止していた。が、やがて顔を上げて、柵の方に歩きはじめた。コッペパンは自分の部屋で食べることにした。働き蟻たちには悪いが、後は自分たちで何とかしてほしい。

 少女は柵を登る途中で、自室を見上げた。暖かい部屋の中で、コッペパンのあんことマーガリンの甘い舌触りを楽しむことを想像する。

しばらくは、窓の外を眺めるか、画面に映る働き蟻を見ながらコンビニの商品を食べることになる。少女は深いため息を吐いた。

が、ふとそこで、団地が無くなったということは、この敷地に、新しい建物を作るための作業員が近いうちにやってくるのではないかと思い付く。そうなれば、また退屈せずに過ごすことが出来るかもしれない。ならばそれまでの我慢だ。未来は明るい。

 少女は勢いよく柵を飛び降りた。着地の衝撃が足裏から順番に伝わる。前髪がふわりと浮いて、そして何事もなかったかのように、また少女の額に幕を下ろした。

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