上空のネズミ

 上空にネズミが見えた。同僚がロッカーに入れたままにしていた双眼鏡をとってきて覗くと、積乱雲の黒く濃い部位と白くまだ純粋な綿飴のような部位の隙間、薄いグレーの毛並みとチリチリと爆弾の導火線のような尻尾を識別することができた。ネズミの毛は湿ってへたって、同じ方向に向いていることまで確認することができた。

 私たちはネズミに対して不潔な感想を持つことが多いが、きっと雲の中であれば、そんなことはない。都市から排出された排気ガスを身近で吸い込んで生きている私たちの方が、遥か彼方上空にいるネズミよりもよほど不潔に違いない。

 ネズミが雲の中に引っ込んでしまった。私たちは目を凝らしたり双眼鏡を覗いたりしてネズミの行方を探るのだが、いかんせん上空の積乱雲は遠い。そしてネズミは小さい。遠いと小さいが組み合わさると人間の力では到底到達し難い存在になってしまう。私たちの周りには、ある程度の大きさのものが、ある程度の距離にあるだけである。そのバランスが人間の世界を広げたり狭めたり、豊かにしたり貧しくしたりしている。

「あ、あそこ」と同僚が指を差した。私たちは同僚の横に立ち、同僚の人差し指が指す方向をなぞって見る。が、そこには積乱雲があるだけだった。細かいネズミの場所を断定するには及ばない。あと数百メートル同僚の人差し指が長ければよかったのだが、同僚の人差し指はせいぜい七センチほどである。中指は七・五センチ。薬指は人差し指よりも少し長い。作業中に傷つけた痕が手の甲にまだ残っている。

 しかしすぐに、私たちもネズミを見つけることができた。ネズミが積乱雲のあちらこちらから顔を出したからだ。ネズミは一匹ではなかった。積乱雲の上の方にも下の方にも、真ん中くらいのところにもネズミはいた。しかし比率で言うと、上の方にいるネズミは少数で、大半のネズミは下の方に溜まっている。注意深く見てみると、上の方のネズミはどこか誇らしげで、グレーの毛の色はより白に近い色だった。あまり動くこともなく、優雅に上空の青空を眺めている。一方、下の方にいるネズミはせかせかと動き回り、隣同士でぶつかり合っては何やらチューチュー言っている。実際には会社の屋上に吹く風によってネズミの鳴き声は聞こえないが、私たちにはそう見えた。ネズミの色も濃いグレーで、私たちが着ている作業服の色と同じだった。積乱雲全体を俯瞰して眺めると、下の方に原液が溜まったタピオカミルクティーを連想させた。ストローでかき回したら、きっと雲全体が薄くグレーに引き伸ばされていくだろう。

 私たちはもうしばらくネズミたちを観察した。特に下の方にいるネズミは上の方にいるネズミよりも距離が近く、動きも活発ため、私たちを飽きさせなかった。

 喧嘩をしている夫婦のようなネズミ、走り回ってあちこちにぶつかっては迷惑そうに周りから見られるネズミ、複数のネズミに囲まれて縮こまっているネズミ、少し離れたところで毛繕いをしてから、仲間の輪に入るネズミ。私たちはそれぞれ確認できたネズミを共有し合った。中には雲の上の方を目指すネズミもいて、短い足を素早く回転させる様子を応援している同僚もいたが、そのネズミが途中で足を滑らせて、最初にいたところよりも下の方に落ちてしまったのを見て、本気で悔しがっている姿に、私たちは声をかけることができなかった。

 その後私たちは一際大きなネズミを見つけた。通常のネズミの三倍ほどの大きさで、周りのネズミを徐々に従えていく様子がよく目立った。そのネズミを囲む輪が次第に大きくなり、一つのシミになって、肉眼でもそれははっきりと分かった。そのシミがある程度の大きさになると、大きなネズミはシミの先頭まで移動して、皆に何かを語り始めたようだった。集まったネズミたちは大きなネズミの方向に耳を傾けている。私たちも耳を傾けようとしたが、聞こえてくるのは風の音だけで、腕時計を見ると休み時間がもうすぐ終わりそうだった。

 大きなネズミが何かを語り終えると、さっきまで静かに聴いていたネズミたちの毛先は垂直に立って、ブルブルと震えた。ネズミの体積が毛の分だけ膨れる。その震えはそのシミ全体に広がって、最後に一斉に鳴いたネズミたちの声は私たちにもはっきりと聴こえた。私たちはお互いに目を合わせた。振動するネズミのシミは、直後に勢いよく積乱雲の上へと目指し始めた。その勢いは凄まじく、経路を確認しながらも着実に移動して、まもなく雲の中腹まで届いた。その間にもシミの大きさはどんどん膨れ上がる。もはやそれはシミなんかではなく、一つの確立したデザインとなった。曲線は滑らかで、ネズミによって異なる濃淡のグレーは歪でありながら随所でグラデーションを見せた。真っ白いTシャツについたソースだって大きく堂々としていればそれはデザインとなる。ネズミの群れの中には、さきほど上を目指して滑り落ちたネズミもいる。今度は一匹ではなく、一緒の方向へと進む者たちがいる。さきほどまでは各々が別の方向に進み、ぶつかり合っていた同士が、組織の中では同じ方向を向くことができる。

 がんばれ、がんばれ、と私たちはいつのまにか手に力を込めて彼らに声援を送っていた。目を大きく開いて、口から出る唾なんか気にせずにお腹から声を出していた。風の方向が変わって、私たちから彼らに向かって吹きはじめた。私たちの声援が彼らに届きやすくなる。男性作業員は拳を握りしめて、女性作業員は両手をメガホンがわりにして、がんばれ、いける、その調子、と少ない語彙を駆使して応援した。私たちの声が届いたのか、双眼鏡を覗くと、ネズミたちはキリリと身構えた誇り高い勇者の表情をしていた。彼らは上を向いて、先頭を進む大きなネズミを信じて進んだ。私たちも全員上を向いていた。

 彼らは、上の方にいるネズミの場所に到達しようとしていた。よし、もうすぐだ、と私たちも心を燃え上がらせる。

 あ、と声を出したのは、私たちの一番端にいた女性作業員だった。一瞬彼女の顔を見て、私たちはまた雲に視線を向ける。

 雲に切れ目が入っていた。上の方にいる白いネズミたちがカジカジと自身の歯で雲をちぎっている。少ない彼らは等間隔に並んで効率よく雲に切れ目を入れ、雲を上と下で分断させようとしている。

 先頭を進んでいた大きなネズミはいち早くそれに気がついた。一匹だけスピードを上げて上を目指す。まずい、はやく、と私たちも焦り始める。手の汗が傷口の周りから噴き出す。大きなネズミの小さな足は大股だが素早く回転している。

 雲は端から分断されていく。切れ目が大きくなるごとに重力の力を利用して分断のスピードは加速する。白いネズミたちは自分の仕事が終わると順番に中央に向かっていき、分断を加速させる。

 大きなネズミが白いネズミのいるところまで到達した。大きなネズミが口を開き、その鋭い牙を見せた。私たちは両手を前で合わせた。

 白いネズミたちは大きなネズミの前に集結し、1枚の盾のように強固に凝縮した。後ろ足を大きなネズミの前に出して彼らも一斉に牙を見せた。

 彼らは衝突した。白いネズミの盾に大きなネズミが食い込んだ。しかし、白いネズミはその反動を利用して大きくしなり、大きなネズミを弾き飛ばしてしまった。

 大きなネズミは真っ逆さまに落ちていく。ああ、と私たちは唖然と口を開けた。大きなネズミは、従えていたネズミたちの集団にぶつかった。瞬間、雲は完全に分断し、濃いグレーのネズミの塊は、勢いを失い、やがて重力に従って滑り落ちた。

 彼らは背を向けて、進んできた道を一直線になぞり、呆気なく雲の底まで落ちた。底で重なり合ったネズミたちに雲が耐えきれなくなったのか、雲の底は破れ、ネズミたちは空中へと放り出された。背を向けたネズミたちが大空を舞いながら地上へと落ちてくる。

 私たちは屋上からその光景をただ眺めた。ビル群に降り注ぐネズミたち。私たちは、その場で力を失い、立ち尽くし、涙を流すしかなかった。上空の白いネズミは、また散り散りに移動し、元いた場所に戻っていった。

 腕時計は、もう休み時間を十分以上も過ぎた時刻を指している。もう作業に戻らなくてはいけない。

 握りしめていた拳から力を抜くと、傷口の痛みが思い出したかのように鋭く染みた。

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