猿・犬・人間(下)

 猿について、道中詳細な情報を女性から聞いた。涙も引いて、落ち着きを取り戻したようだった。猿は女性とともに、ワンルームのマンションの三階に住んでいるという。猿は女性と知り合う前は、野生の猿として転々としていたらしい。女性は、猿のことをとても慕っているようだった。

「猿は、私を一人の人間として、あるいは別種の生物として接してくれます。それは私も同じです。考えれば不思議なことです。私たちはなぜ同じ種類の生物同士でかたまって生活を送っているのでしょうか。もちろん、家畜やペットなど、そうした多種との関係性はありますが、人間はどの場面においても、ピラミッドの頂点に属しているような振る舞いをします。そして自分よりも上に位置する存在がいるのだとすれば、それは自分とは異なる人間です。人間同士の醜い争いとは、人間同士のピラミッドの頂点の獲得を目指すものではないでしょうか。私にはそれが息苦しかったのです。ですから私は、その頂点の部分に別の生物を置くことで、精神的平穏を得ることにしました。その対象が猿です。猿は人間と近しい生物ではありますが、やはり決定的に、それは生物的本能かもしれませんが、接し方が異なります。私たちはこの星に生まれた生物同士として関係を持つことに成功しましたし、その主従関係においても、精神的なものではなく、淡白な形式上のものとして処理することが出来ていました。だからこそ、私たちは上手くやってこれていたのです……」

 女性はとても残念そうにしていた。そして、私と犬を交互に見て、「貴方様は、どうして犬と一緒に暮らしているのですか?」と私に訊ねた。

「あなたのように、大層な理由などありません」私は答えた。「ただペットショップでこの犬を見て、値段と比較し、私の人生をより楽しく、豊かにしてもらえるのではないかと思っただけです。あなたのいうピラミッドの頂点うんぬんについて考えたことはないですし、むしろ私は怖いと思いますけどね。もし私の上に人間以外の生物がいたと想像したら」

「そうですね。だから見極めないといけません。どの人間が、あるいは生物が、物体、思想、神、概念が私よりも超越した存在としてあるべきなのか、救いを授けてくれるものなのか、精神的安定をもたらしてくれるものなのか。私にとっては、それが猿だっただけにすぎません。私は何も特殊なことをしているわけではありません。皆が平等に誰かに救いを求めていますし、そこに差や優劣はないと思います。貴方様には本当に申し訳ないことをしたと思っています。私は見落としていたのです。世界が私と猿だけでは形成出来ないということに。他者との介入を前提としていなかったことによって、いま、私は猿との関係を維持できるのかどうか不安に思っていますし、貴方様に迷惑をかけています。この恩は必ず返します。その時はもちろん、猿とは関係なく、私自身の個人的なものとして……」

 かれこれ三十分ほど歩くと、ようやく女性と猿が住んでいるマンションにたどり着いた。隣町といっても、そこまで遠い場所にはなかった。犬も大人しくついてきていた。散歩だと思っているのだろうか。普段通らない道だったためか、いつもよりもキョロキョロと道を注意深く眺めているようにも見えた。

「猿はとても温厚な方ですから、安心してください」

 中に入ると、左手に小さめの冷蔵庫とキッチンが並んでいた。冷蔵庫の上のボウルにはリンゴが二つとカップ焼きそばが入っていた。キッチンは綺麗にしてあり、比較的新しい赤いヤカンがコンロにおいてあった。

 そして視線をすぐ前にやると、そこに猿がいた。部屋の中央に置かれたちゃぶ台のそばで、壁沿いに設置されたテレビを見ていた。女性が、「ただいま戻りました」と言うと、猿はこちらを向いた。青黒い目が女性に視線をやった後、私の方を向いて、そして、すぐ後ろにいる犬を見た。

「おかえりなさい。どうでしたか」猿の声は、とても平坦で、低く落ち着いたものだった。

「その件に関して、少しお話したいことがありまして」靴を脱ぎ、ちゃぶ台を挟んで猿と向かい合わせになった。犬は玄関に座っていた。横にあるテレビはミュート音にされ、昼のワイドショーで、何かしらの事件にコメンテーターがコメントをしていた。

「まず、あそこの犬が、今回盗む予定だった犬です。そしてこの方が、その飼い主様です。なぜ飼い主様がここにいらっしゃるかと申しますと……私が犬を盗むことに、失敗したからです。私が犬を抱えて逃げようとしているところを、飼い主様に見つかってしまったのです」

 女性は、とても緊張している用だった。言葉を途切れ途切れに、その情報を詰めることに精一杯の様子だった。猿はそれを黙って聞いていた。その目が一体どのような感情を宿しているのか、私にはわからなかった。

「飼い主様は、私のしたことを許してくださりました。また、私の……私たちの事情も理解してくださり、こうしてこちらまで足を運んでくださいました」ここで女性が私の方を向いたので、私は猿に軽くお辞儀をした。すると、猿が口を開いた。

「それはそれは、ご足労頂きまして誠に申し訳ありません。そして何より、あなたの犬を盗もうとしたこと、なんとお詫びしたらよいのやら……」

 猿は丁寧な言葉遣いをしたが、猿の言葉と感情がどうもうまくつながらなかった。私が気にしすぎていたのかもしれないが、私はこの時、猿に些かの不満を抱いた。

「私がここまで来たのはですね……こちらの方に言われたからなんですよ」私が言うと、横の女性の、膝に置いていた両手の拳がぎゅっと縮んだ。

「あなたがたの関係性の話は、先ほど聞きましてね。この方は、私の犬を盗むことに失敗したことを、ひどく不安に思っているようですよ。あなたがたの関係に何か良からぬ亀裂が生じてしまうのではないかと。ですから私がここまで来て達成したいことは、あなたがこの方の失敗を許してくれるのかどうか、それを確かめることなんです」

「……なるほど……」猿はそう言うと、リモコンを手に取り、ミュート音にしていたテレビを消した。そして大きく息を吐くと、言った。

「安心してください。私がこちらのお嬢さんに何かするつもりはありません。そもそも私にそのようなことは出来ませんし、そのような関係性でもありませんから。ねえ、そうですよね?」

 女性は話を振られ、一瞬停止したが、小さく小刻みにうなづいた。

「ですから、あなたの目的は達成されました」と猿は言った。簡素な言葉だった。必要のない言葉をあえて排除しているかのような、それは会話というよりも、単なる言葉の羅列だった。

「……それともう一つ」私は続けて言った。ここで終わるわけにもいかなかった。「なぜあなたはこちらのお嬢さんに私の犬を盗ませるような命令をしたのでしょうか。犬の飼い主としては、やはりあなたに聞いておかなければなりません」女性は不安そうに私の顔を見ていた。しかし、気にしないことにした。

「そうですね……まず、前提の話からしましょうか」猿は話し出した。「私は、こちらのお嬢さんに頼まれて、この関係に従事しています。私も特にやることがなかったからです。人間のおかげで、食料の確保には困らなくなりましたから。もちろん、それは私が猿という、比較的人間の生活に馴染みやすい生物だったからであり、他の種は何かと苦労しているようですが……。まあそうした状況で、お嬢さんからの申し出を、断る理由も特にありませんでした。むしろ、刺激的でした。私は成人してから一匹で生きてきましたから、誰かと共同で生活するのはとても楽しかったですし、彼女も私の命令に満足しているようなので、私たちの関係は、他種交流としては健康的なものであると言えるでしょう」

猿はここで口角をあげて微笑みの表情を作った。それは私の隣にいる女性に向けたものだった。私は生まれて初めて人間以外の生物の表情が変わった瞬間を目撃した。それは本能的に、理屈ではなく、恐ろしいと感じるものだった。女性は猿の表情の変化になれているのか、猿に微笑み返していた。緊張からか、まだぎこちのないものだった。

「犬を盗むように命令したのは、私が刺激を求めたからです。彼女との関係を、より発展させ、充実したものにしたかった。……いえ、彼女との関係以外にも、私個人の欲もありました」猿は玄関にいる犬の方に視線をやった。犬も、猿を見ていた。

「犬は長い歴史において、人間と共に生きてきた生物です。人間が犬に食べ物を供給し、犬は狩猟犬や牧畜犬としてその役割を果たしてきました。そして現代ではその役割は必要なくなり、犬はペットとして、人間を癒すことで人間のそばで生活しています。私は、ペットとして生きる犬が、それ以外の生活を送っている姿を見てみたかった。私はこちらのお嬢さんをきっかけに生活スタイルを変えてから、とても充実した日々を過ごしています。ですからそれを、私以外の生物にも当てはめてみたくなったのです。ペットや家畜という、主従関係をもとにした他種生物の交流のかたちを、私は否定しているわけではありません。しかし、それ以外の方法を模索することもまた、この星に生きる生物として為すべきことの一つなのではないかと、そのようなことをたまたま思いついたのです。そしてそのときちょうど彼女に何か命令をしなければなりませんでした。私はああなたの犬を盗むよう、彼女に命令しました。あなたの犬を選んだのも、たまたまです。私が犬を連れて散歩をしているのを見たことがあったから、命令の対象として選んだのです」

 そのとき、犬が吠えた。私は驚き振り返った。犬が何かを話したのだ。明らかに、それは言葉としての鳴き声だった。私にはもちろん、犬が吠えた理由もその意味もわからなかった。猿は理解したのだろうか。しかし猿の表情からは何も捉えられなかった。それは野生の猿となんら変わらないものだった。それ以降犬が吠えることはなかったし、猿も犬が吠えたことに対して、何の発言もしなかった。この部屋での目的は、すでに達成されたのだ。

 猿は、私がこの部屋を後にするときに、玄関先でこう言った。

「あなたにはご迷惑をおかけしました。私もまだ、この生活の適切な過ごし方に慣れていなかったようです。またいつかお詫びの品を持ってまいります。あなたの犬には、今後一切、私たちの方からは何もしませんので、ご安心ください。私たちは、これからも色々と模索しながら、なるべく誰にも迷惑をかけないようにしながら、この生活を継続していこうと思います」

 帰り道、女性が私を自宅まで見送った。私は遠慮したのだが、女性がどうしてもとついてきたのだ。女性はまず私に感謝と謝罪の言葉を述べた。これからもなんとか猿との関係は継続できそうです、と。

「何より、猿もこの関係に満足しているということを口にしてくれたのが、私にとっての救いでした。貴方様が来てくれたことによって、猿がこの生活をさらによりよくしようという心意気があることがわかりました。やはり私と猿の一対一の状態では、なかなかそのようなことを話すきっかけがなかったのです。なにぶん初めてのことだらけですから。しかし、これからは話し合いを通して、双方が納得いく状態を目指していきます。どうもありがとうございました」

 女性と別れ、犬を庭に入れると、犬はしばらくソワソワと庭を歩き回っていた。餌の容器が空だったため、私は餌を入れてやった。しかし私が庭にいるときには、それを口にしようとしなかった。私が家に入り、テレビを見て時間をつぶし、もう一度庭を見て見ると、餌は少しだけ減っていた。

 後日、猿が菓子折りを持ってやってきた。女性はいなかった。猿曰く、女性は今日も与えられた命令の実行に集中しているのだという。そして今回の件をもとに、誰にも迷惑をかけないかたちでの生活を見つけたと猿は言った。ありがとうございます、と猿は頭を下げた。私は何を感謝されたのか、わからなかった。

猿の帰り際、庭にいる犬と猿が数秒間目を合わせたが、特に何もなく猿は帰っていった。犬は今も、私と共に生活をしている。菓子折りはそのままゴミ箱に捨てた。


(完)

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