手袋落とし

 私たちの仕事は道路に手袋を落とすことだ。毎月エリアが指定され、ノルマの個数を捌いていく。段ボール箱いっぱいに手袋の片方が自宅に送られてくると、私たちは箱を開けて、無造作に入れられた片方だけの手袋をリビングの床に並べていく。並べられた手袋は左手も右手もどちらもあって、最初のうちはどれも同じに見えたのだが、やはりメーカーによって形は異なる。A社の手袋は指先の幅が短かったり、B社とC社では人差し指と薬指の長さの比率が異なっていたり、D社は素材にこだわり、E社はデザインにこだわっている。しかし私たちがそれぞれのメーカーを見比べたところで何の価値も生まれない。そもそも私たちの仕事は手袋を道路に落とすことであって、手袋の品質を見極めるものではないし、手袋は片方でしか届けられないのだから、結局私たちの比較は不十分である。手袋は両手がそろって初めて価値を生み出す。

 そう思うと、片方だけで集められた手袋たちはどこか不安げで、隣に並ぶ同業者との距離感を図りかねているように見えた。おたくはどこからいらっしゃったんですか、ああ昔行ったことありますよ、〇〇が名産ですよね、そうなんですか、それは大変ですね。……ねえ、大変ですよねえ……。

きれいに並べられたものだから、両端にいる小指と親指は気を使う。その場をつなぐだけの空虚で湿った会話が手袋間で囁くように繰り広げられる。会話の内容は小指と親指が独自に決めているのか、はたまた中指や薬指が指令を出しているのか。それとも指それぞれに意思なんかなくて、手袋単体として意思を持っているのか、それとも両手がそろって初めて意思を持つから今は機能していないのか。

 そんなことを考えながら仕事をしていくと、すぐに段ボール箱の手袋はきれいに並べられる。そしてそれらをまた自分なりに整理し直す。いくら手袋を落とすだけとはいえ、どんな仕事にもこだわりというものがある。たとえばあのエリアにはこのメーカーの手袋を落とそうだとか、黒色の手袋とその他の色の手袋、もしくは男性用と女性用、ユニセックスの比率などを細かく調整していく。

 整理し終わると、それらをまたきれいにボストンバックに入れて、出勤日を待つ。出勤日は朝早く、いつもは寝ている時間だから身体を起こすのに苦

労する。

ボストンバックは大きいが中身は手袋だから、とても軽い。電車に揺られエリアに向かう。交通費は支給してくれる。自宅から近いエリアを指定されることが多いが、時には電車で一時間近く離れたエリアに向かうこともある。乗ったことのない沿線の電車から見える住宅の屋根は朝の弱々しい光に照らされている。足元から熱風が吹いて、冷えた身体を癒す。電車内は早朝だから空いているのか、もともと空いている沿線なのか定かではない。人が少ないと自分が乗る電車を間違えたのではないかと不安になる。メールで送られてきた地図を確認してみると、三つ先の駅で間違いはなかった。

 駅前のパン屋の店内で、白い格好をした男性がオーブンからパンを出しているのを横目に見ながら、東口へと向かう。帰りは西口でランチをして帰ることにする。駅前は早朝とはいえ人通りがあるから、ここではまだ手袋を落とすことはできない。

 大きな道路を歩道橋で渡る。そこで、今日初めて自分が誰の視界にも入っていない状態になった。足元でトラックが過ぎ去ったのを確認して、私は右手に持ったボストンバックのジッパーを素早く開けて、一番上の左端の手袋をその場に落とした。前方と後方を二度ずつ確認して、早足でその場を去る。一つの場所で一つしか手袋を落とすことができないのがもどかしい。

 歩道橋を降りて、当分使われていないであろう自動販売機が脇にある細い道を進む。大きな道路からの車の音が聞こえなくなった距離まできて、辺りを確認して手袋を落とす。そしてまた次の道へと曲がる。同じ道にも一つしか手袋を落としてはいけない。毎回送られてくるメールにも必ず書いてある。出勤日の三日前に送られてくるメールには、指定のエリアと今回捌く手袋の個数、そして手袋を落とすときのルールが記されている。最後に、「検討をお祈りしております」と一行空けてねぎらいの言葉が書かれているが、このメールの送信者が一体どういう人物なのかが分かるものではないし、きっと自動で送信されるものだから、そこに人の感情はのせられていない。

 歩いては落とし、前後を確認して早足で去る。スネとふくらはぎを交互に膨らませる。黒いスニーカーはそれらの運動をサポートする。一番最初の出勤日には、仕事とはいえ外出するのだからおしゃれをしていこうと、念入りに化粧をして、靴もコツコツと乾いた足音が鳴るハイヒールを履いて行ったが、それもすぐにやめた。マスクをすれば化粧をする必要はないし、長時間歩くのだからスニーカーが一番いい。スニーカー代も支給してくれたのだから、悪い会社ではないのかもしれない。

 今日のノルマを達成したのは十四時を少し過ぎた頃だった。まずまずのタイム。慣れない頃は夕方になってもノルマを達成することができずに持ち帰ることも多かったが、慣れると達成感もある。人通りが多い場所とそうでない場所を肌の感覚が覚え始めたのはこの仕事を始めてから二ヶ月ほど経った頃で、次第に足腰もある程度強くなって、体重も三キロ落ちていた。

 スマホの地図を開き、駅へと向かう。先ほど通った歩道橋には朝落とした手袋が同じ場所に落ちている。そのまま通り過ぎ、駅の西口に着いて遅めのランチを済ませた。雰囲気のいいオムライス屋さんで、店員さんに「大盛りで」と小声で頼むことにも、もう慣れた。


 その日はペアでの出勤だった。駅で待ち合わせると、五十代くらいの女性が現れた。厚手のジャンパーに藍色のニット帽。手袋は年季の入った自前のリュックに入れていた。お互いに挨拶をして、一緒に歩いていく。名前は落合さんといった。

「私、ベテランなのよ。この仕事をもう二十年くらいやってるの」落合さんはホットレモンのペットボトルを両手に持って言った。

 月に一度ペアの日が設定されていて、互いの仕事ぶりを観察する。特に先輩後輩というものはないが、年齢が離れていると自然とそうなってしまう。

「すごいですね」と私は簡素な相槌を打った。普段人と話さないと、どう会話をすればいいのか忘れてしまう。これもまたペアの日が設定されている理由の一つなのだろう。コミュケーション能力とやらはどんな仕事にも必要らしい。でも、すごいと思ったのは本当だ。

「まあこんな仕事を二十年やってたって何の価値にもならないけどね」と落合さんは白い息を吐きながら言った。私は何も言わなかった。

 私たちは交互に手袋を落とすことにして、淡々と道を歩いていった。落合さんはリュックを身体の前に背負っていて、落とすときも態勢を変えずに、まるで王族がパレードで庶民に手を振るかのように手袋を落としていった。私はいちいち腰をかがめて手袋を落としていたから、それは腰を痛めるからやめた方がいいわよ、と落合さんに指摘された。でもそれだとなんとなく手袋に対して乱暴すぎるような気がして、と私が言うと、手袋に気を使ったって給料はあがらないわよ、と言われた。たしかにその通りで、試しに落合さんのように手袋を落としてみると、腰は痛くならないし、格段に楽になった。落合さんは、その調子、と褒めてくれた。

 しばらく一緒に仕事をして、それからは二手に分かれることにした。アドバイスありがとうございます、とお礼を言うと、じゃあ後でね、と落合さんは角を曲がって行ってしまった。

 一人になって、早速落合さんのやり方を続けて真似してみた。誰もいない狭い道の脇に観客を見立てて、そこに手袋を落としていく。観客は歓声を上げて涙を流す者までいる。道路の右側に落としたら、今度は左側。観客は女性が多い。若い者ほどリアクションは大きく、高い声を上げて叫ぶ。

 そうなってくるとこのボストンバックは見栄えが悪い。学生時代から使っている物だから、所々ほつれている。最近は買い物をしていなかったから、少し奮発してみてもいいかもしれない。でも手袋が大量に入るくらいの容量でなおかつおしゃれなバックを探すのは骨が折れそうだ。考えながら手袋を落としていく。前後の確認だけは怠らないように注意する。

 手袋が残り三分の一ほどになって、太陽が真上に登ったくらいの時刻に、ふと遠くに視線を向けると、落合さんが歩いていた。前後を確認している。その動きは遠くから眺めるとよく分かるが、やはり不自然ではある。二十年やっているとはいっても、自分を客観視したことはないのだろう。私はもっと不自然なのだろうなと思いつつ、落合さんの方に私は歩いていく。

 落合さんが手袋を落とした。そして素早くその場を去ろうとして、こちらに視線をやったところで私に気がついて、手を振った。

 その時、横から誰かが落合さんに話しかけた。私は息を飲んだ。

「あの、これ、落としましたよ」

 話しかけたのは女性だった。目の前の家から出てきた主婦だった。玄関を開けた瞬間に落合さんが手袋を落としたのが見えたのだろう。玄関のドアが閉まる音がくっきりと耳に届いた。

「あ、えーと……」

 差し出された手袋を受け取ってしまった落合さんに、その主婦はにっこりと笑って自宅へと戻って行った。落合さんは手に持った手袋に視線を向けて、やがて恐る恐るといった様子でこちらを向いた。

 私は怖くなって、落合さんとは目を合わせずに回れ右をした。

「ちょっと待って!」と後ろで落合さんが叫んだ。振り返ると、落合さんの後方からスーツ姿の男が二人走ってくるのが見えた。二人は落合さんの肩を叩き、腕を掴んで落合さんの口にハンカチを添えた。ガラガラの声で叫んでいた落合さんは次第に大人しくなった。目からは涙が流れ、顔はぐちゃぐちゃに濡れていた。二人は落合さんを黒塗りの車へと押し込んで、車は去っていった。

 気がつくと、私は走って駅まで向かっていた。あの場から一刻も早く立ち去りたかった。メールの文面では、上手に危機感を持つことが出来ていなかったが、実際に目の当たりにしてようやく、自分の心臓はぎゅっと誰かに握られているのだと理解できた。

そのまま帰宅して、ボストンバックは玄関に放り投げた。手袋はまだ残っていたから、鈍くバックが壁に擦れる音が鳴った。

 次の日にメールが届いた。ノルマが達成されていないため後日再出勤するように記載されていた。そしてまた次の日になると手袋が入ったリュックが届いた。落合さんのものだった。リュックは自由に使っていいと、リュックを受け取った瞬間にメールが届いた。

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