猿・犬・人間(上)
「気を悪くしないでほしいのです。あなたが怒ることも、私は理解しております。それ故に私もどうすればいいのかわからないのです。だから、どうか気を悪くしないでほしいのです」と、目の前に立つ女性が言った。
私は一度ため息を吐いてから、「そうは言ってもね、あなたが私の庭から犬を盗もうとしたから悪いのですよ」と言った。女性はシクシクと泣くばかりで、私もどうすればいいのか分からなかった。「私も、何故そのような事をしたのか、その理由を聞いて、納得した上であなたを許すか許さないかを決めようとしているのです」そうでなければ、私はこの女性を法律のもとで裁かなければならない。そうなってしまえば、私は尚のこと気分が悪い。
「先ほども言いましたが」女性は語り出した。「私もこのような事をしたかったわけではありません。つまり私が貴方様の犬を盗もうとしたことは、私の意思とは、直接的にあまり関係のないことなのです」
「では、何が関係しているのでしょう」
「……猿です」
「猿?」
「ええ、隣町で私と一緒に住んでいる猿に、貴方様の犬を盗んでこいと命令されたのです。それに従うことで私は生きているのです。本当にごめんなさい」女性は深々と頭を下げた。私はどうすればいいのか、さらに分からなくなった。
「……どうして隣町の猿が私の犬を盗むのでしょう?」私は、頭に思い浮かんだ疑問を彼女に投げかけた。沈黙するよりも、何かしら彼女に話させた方がいい気がした。
「詳しいことはよくわかりません。しかし、貴方様の犬に危害を与えるだとか、人質にとって貴方様からお金を要求しようだとか、そうしたことではないことだけは確かです。私は猿に命令されたわけですが、猿は決して悪い猿ではないのです。ただ立場上、私に命令を下さなければならなかっただけなのです」
犬を見ると、犬は庭で横になりながらも、顔をこちらに向けていた。私が先日ペットショップで買った犬だ。ひとめぼれして買ったのだが、特に高価な犬でもなければ、世間一般的には、そこまで可愛い姿かたちをしているわけでもないだろう。現に、その犬は、ペットショップで何年も売れ残っていたらしく、歳もそれなりにとっていた。
「たとえば、あなたが私の犬を盗むことに成功したとして、あなたはそれで何か報酬が得られたりしたのでしょうか?」
「報酬……そうですね。確かに、貴方様の犬を盗み、猿のもとに連れて行った場合、私は食料と、幾ばくかの金銭がもらえます。しかしそれは報酬というよりも、生存の権利の延長と言ったほうが適切かもしれません」
私は呆れかえってしまった。「権利の延長など、そんな馬鹿な話はないでしょう」私は言った。「そもそも猿とあなたの関係性がよくわからない。あなたはなぜそんな状況にあるのに、猿のもとにいるのです?」
女性はここでしばらく沈黙した。言葉を選んでいるようだった。それは、質問の内容に悩んでいるというよりも、確定している事柄について、どのような言葉で、どのような道筋で説明したものか悩んでいるようだった。そして、話し出した。
「まず第一に、私は、自分の意志で猿のもとにいることだけは言っておかなければなりません。猿に脅されているだとか、非人道的な扱いを受けているだとか、そうしたことはありません」
私はここで口を挟んだ。「そんなことはないでしょう。なぜならあなたは今、他人の犬を盗まされている。それを非人道的と言わずして何というのですか」
「確かに、それはそうかもしれません。矛盾していると感じられるのも至極もっともなことでしょう。しかし、私にとってそれは些細なことなのです。私の生き方という意味においてですが……」
横にいる犬が欠伸をした。まだ朝日が庭全体を満たしていた。私の庭で、手ぶらで立って話している目の前の女性が、急に不憫に思われた。私は女性を縁側に座らせて、続きを急かした。
「私は人間社会に生きているのがとても窮屈に感じていました。人間が築き上げてきた道徳や社会構造に自分というピースがどうやってもかみ合わないことを突き付けられていたのです。そのピースがぴったりとかみ合っていないがために鳴る不愉快な騒音に慣れていくことでしか生きていけないと諦めていました。しかしその時、猿と出会ったのです。猿は、とても暇そうでした。だから私は猿に、私のためにある役割を担うようにお願いしました。私の行動を逐一決定し、それに従う私に、生きるための目的を設定してほしいと。猿はすぐに承知してくれました。猿も、何かしらの仕事を与えられることを望んでいたようでした。私たちは利害が一致したのです。猿の下す命令は、人間には馴染みのないものばかりで、とても新鮮でした。木のてっぺんに上り、鳥の動向を一日中見張ったり、生物の死骸をゴミ袋一杯に詰め、それを燃やしたり、色々なことを命令してくれました。そしてそれを完遂すれば、私は生きていられるのです。生きていることに、その理由と意味を、分かりやすく示してくれたのです。そこに人間社会を円滑に回すためのシステムなどは関与していません。私にとって猿の命令に生きる生活は心地が良かった。私は、私にぴったりと合った構造様式の一部になれたことに喜びを得ました。もう騒音に悩むこともなくなった、そう思っていたのですが……やはり人間社会というのは身近にあるため、その不具合に苦労しているといった状況です。だから今回のことも、私にはどうすればいいのか……まだわかっていないのです……」
女性は俯き、またシクシクと涙を流し始めた。私も何か言おうとしたが、幾分私も出会ったことのない事例だったため、口から言葉を出すのに苦労した。それに、この目の前の女性が、関わっていてはこちらが浪費するだけの存在であると、なんとなくだが認識し始めていた。
「……事情は分かりました。特に、あなたが苦しんでいることが十分に伝わりました。ですから、もう大丈夫です。あなたが私の犬を盗もうとしたことも、許します。ですから、その猿のところに戻って結構ですよ」
「ですが……」女性は泣きながらも言った。「私は猿にこの事情を話さなければなりません。その時、猿がどのようなふるまいをするのかわからないのです。私はこれまで、猿の命令にはすべて答えることに成功していました。しかし今回、私は失敗したのです。もちろん、貴方様を責めるつもりなどありません。これがこちらの問題であることも重々承知しております。しかし、私には猿が必要なのです。私一人でその関係の維持を続けることが出来るのか、それが不安でなりません。主従関係も曖昧になっています。ですからどうか、貴方様もついてきてはくれないでしょうか。できれば犬も連れて……」
「いや、それはさすがに」私は、目の前の女性に、抑えようとしていた些かの怒りと呆れを表した。「私がそこまでする理由はないでしょう。いまあなたがおっしゃったように、それはそちらの問題です。人間社会から離れて暮らしているのであれば、人間社会に生きている私に何か協力を得ようとするのは都合が良すぎる。それだけは、勘弁願いたい」
しかしここで女性は食い下がった。「どうかお願いいたします。それに、私が犬を盗むことが出来なかったことに対して、猿が貴方様に何か良からぬことをしないとも限りません。それは貴方様にとっても都合が悪いことではないでしょうか。もちろん、私も全力で貴方様に危害が加わらないように善処するつもりではありますが、いかんせん猿の思考ですから、私に止められるのかどうか、その保証はできません」
犬がこちらに寄ってきた。女性は私に無断でその犬を撫でた。犬は口から舌を出したり、尻尾を振ったりする仕草はせずに、ただ黙って、何の意思表示もせずに女性に撫でられていた。女性は犬を撫でながら、ジッと私の顔を見た。滴る涙が頬に線を作っていた。
(下)へ続く
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