第32話:いつだって一番大事に想ってる!
身体が重い。
腕は勿論のこと、足も、息をする口すらも動かすのが辛い。
なのに肺が酸素を求めてヒリヒリと痛かった。
やってしまった。
完全にオーバーヒートだ。
お兄さんの顔面を僕のパンチが掠める。避けきれなくてガードさせる。
そんな状況に夢中になって、僕はただひたすらに拳を打ち込んだ。
その結果が、このざまだ。
「高梨君、大丈夫ぅ?」
リングから降りたお兄さんと入れ違う形で登ってきたあんず先輩が、大の字になって寝っ転がる僕を心配そうに覗き込んでくる。
「へ、平気ですよ……」
「ウソ! 全然平気そうじゃないよぅ」
ああ、頑張って絞り出したから元気をあっさり見破られてしまった。
まぁ、さすがのあんず先輩でも分かるよね。今の僕、まるで踏みつぶされたカエルみたいだもん。
「お水、飲める?」
「は、はい、なんとか……」
「身体起こすの、手伝うよぉ」
あんず先輩に手伝ってもらって、なんとか上体を起こすことが出来た。
喉を通る水が身体中に澄み渡るように美味い。けど、飲み終わった後はもう一度マットに寝転がらせてもらった。
マズいな、これ。三十分後にちゃんと体力回復するだろうか。
「高梨君、あんずに出来ること、何かある?」
「そうですね。じゃあ僕のスマホを取ってきてもらえます?」
手渡されたスマホを操作して再びあんず先輩に返すと、あとはもう回復に専念することにしよう。
「ちょっとお兄ちゃん、どうして高梨君にイジワルするのっ!?」
と思っていたのに、あんず先輩がリング下のお兄さんに抗議し始めてしまった。
「イジワルなんかしてないぞ、俺は」
「してるよっ! 高梨君、疲れちゃってクタクタじゃない!」
「それは自分の体力も考えず、闇雲に手を出したそいつが悪い」
「そんな言い方ないよ! こんなに頑張ってるんだよ?」
「頑張ったから何だって言うんだ?」
「頑張ってるんだから一発ぐらい殴られてもいいじゃん!」
「あんず!」
感情的なあんず先輩の訴えに対して冷静な受け答えをしていたお兄さんが、突然語気を強めて先輩の名前を呼んだ。
「それは出来ない。これは男と男の戦いだ。手を抜くなんて出来ない」
「そんな……いつもみたいな試合とは違うんだよ、お兄ちゃん」
「いや、一緒だ。俺たちはみんな自分の未来を賭けてリングに登る。そしてそいつもお前との未来を賭けてリングに登ってきた。だったら俺も全力で立ち向かうのが礼儀だ」
「だけど高梨君はボクシングなんてやったことないんだよ?」
「それを承知であいつはリングに上がったんだ。関係ない」
大の字に寝そべったまま二人のやり取りを聞いていた僕は、さすがはミスター・ストイックだなと舌を巻いた。
重度なエロシスコンではあるけれども、ボクシングに向き合う態度は真剣そのもの。甘えなんか一切許さない。
実はリングの上で結構褒められたりしたものだから、もしかしたら顔に一発当てれなくても「よく頑張った。感動した。あんずとの交際を認めてやる」と言ってもらえるんじゃないかなと淡い期待を抱いていた。
だけど二人のやり取りを聞く限り、それはない。
きっとお兄さんはただ僕に全力を出させる為、わざとその気にさせたんだ。
それがリングで戦う者の礼儀であると僕に知らしめるために。
「もう、お兄ちゃんの頑固者っ! お兄ちゃんなんか嫌いっ!」
「悪いがあんず、お兄ちゃんはあんずに嫌われてもボクシングへの態度を変えることはしない!」
相変わらず兄妹喧嘩は続いていた。
本当は仲が良い兄弟なのに、なんとも心苦しい。しかもその喧嘩の理由が僕なんだからなおさらだ。
「……あんず先輩、喧嘩はやめてくださいよ」
相変わらず身体は疲労困憊で、こうして上半身を起こすのさえ辛いけれど懸命に堪えた。
「お兄さんは本気で僕と戦ってくれているだけです。お兄さんに非は何もありません」
「だけど、高梨君がこんなに頑張っているのに!」
「頑張ったから認めてあげるなんて、そんな甘い世界じゃないんですよ。お兄さんにとってボクシングっていうのは」
まぁ、僕もさっきまでちょっと期待していたけれどね。
「それぐらい真剣にやってくれているんです。むしろ感謝してます」
「高梨君……でも、それじゃあ」
「大丈夫です」
泣きそうな表情を浮かべるあんず先輩に、僕は出来るだけ強がって笑ってみせた。
「僕だって真剣にやってるんですよ。いくらお兄さんでも僕とあんず先輩の交際を認めざるをえないぐらいに」
そう、ただお兄さんの恩情に期待するだけじゃない。
僕だって自分の手であんず先輩を手に入れる為、真剣にやってるんだ!
「ふん。随分と威勢がいいな。その様子なら三十分後と言わず、今すぐにでも最終ラウンドをやれそうじゃないか!」
お兄さんがニヤリと笑い、両手でグローブをバンバンと打ち合わせて声をかけてくる。
「あ、それなんですけど、もうやめていいですか?」
「なに!?」
「さすがに身体がクタクタで、とてもじゃないですけど三十分では体力が戻りそうにないです。そもそもど素人の僕が世界チャンピオンのお兄さんにパンチを当てるなんて、万が一にもありえないじゃないですか」
「だから棄権するって言うのかっ! 貴様、そんな奴に俺があんずとの交際を認めると――」
「お兄さん、ひとつ思い出してください。この勝負の前、勝利とは別にあんず先輩との交際を認めるもうひとつの条件がありましたよね?」
「なんだと!?」
「僕があんず先輩を幸せに出来る男だと分かったら、交際を認めてやるとお兄さんは言いましたよね?」
「あ? ああ、確かにそんなことを言ったが……しかし、お前のどこにそんな甲斐性がある!? 心配させるばかりで、何も出来ないお前にあんずを幸せになんか――」
「お兄さん、実は僕たち、お兄さんが日本に帰ってくる前にこんな話をしてたんです。北海道の味噌ラーメンを食べたいねって」
「いきなり何の話だ、それは?」
「そしてこの練馬にも北海道の本場札幌味噌ラーメンを出すお店があるのって知ってます?」
「おい、だから今はラーメンの話なんて――」
「そのラーメンの出前をさっき注文しました。もうすぐ味噌ラーメンが食べれますよ、先輩」
「わーい、味噌ラーメン! みっそラーメンッ!」
泣きそうだったあんず先輩の表情が一瞬にして満面の笑みに変わった。
「くっ! お前、まさか味噌ラーメンごときであんずを幸せにしたと言いたいわけじゃないだろうなっ!?」
一方、お兄さんはじろりと僕を睨み上げてくる。めっちゃ怖い。
「……だとしたら、どうします?」
「殺す! 今から殺してやるから、そこで待っていやがれ!」
「いいいいいいいいっ!? いや、ちょっと待ってください! 味噌ラーメンだけなわけないじゃないですか!」
「なに?」
「……餃子も頼んでます」
「やっぱり殺す!」
「うわああ、ごめんなさいごめんなさい、冗談です! いいですか、リングで僕たちが戦っていた時のあんず先輩のことをよく思い出してください! 1ラウンドが始まる時はピザ、2ラウンドの時は海鮮丼を食べていたでしょ!」
「……そういえば、そうだったな」
「どちらも僕がデリバリーを頼みました。あんず先輩が僕たちの試合中にお腹を減らさないように!」
「なっ!?」
「確かに僕は強くもないし、頭もよくないし、お兄さんからしてみれば取るに足りない男かもしれません。ですけどあんず先輩のことならいつだって誰よりも一番大切に考えています!! そう、お兄さんよりも!!!」
リングローブに手をかけたお兄さんの動きが止まる。
と、同時に外から「ご注文のラーメンと餃子、届けにきましたー」と声がした。
喜び勇んでリングから飛び降りて受け取りにいくあんず先輩。
その姿はとても幸せそうで。
僕はそんなあんず先輩を見るのがとても大好きなんだって改めて思った。
おまけ
「え、マジで3ラウンド目ないの?」
「頑張って書いたけどつまらなかったのでボツにした」
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