第9話:ミスター・ストイック

 僕は別にスポーツ観戦が趣味とか、格闘技マニアだとかそういうわけじゃない。

 ごく普通の高校生だ。

 そんな一般人の耳にも、最近は日本人アスリートの活躍がよく入ってくる。

 野球、サッカー、テニスにゴルフにモータースポーツ……暗いニュースが多い日本にとって、彼らの活躍はみんなに希望と勇気を与えてくれる。


 その中でもボクシングの春巻葦人はるまき・あしと選手と言えば、日本人なら誰もが知っているスーパースターだ。

 スーパーバンタム級の四団体統一王者!

 階級を越えた世界一のボクサーを決めるパウンド・フォー・パウンドで堂々の第一位!!

 その必殺技であるスプリングトルネードは、喰らった相手が錐もみ状にダウンするほどの威力を誇る!!!


 しかもそんな絶対王者でありながら奢ることなく、ひたすら研鑽を積み、試合ごとに確実にパワーアップしてみせるボクシングの求道者。

 甘いルックスから女性からも高い人気を誇るも、毎日毎時間ボクシングに集中する性格の為に浮いた話はひとつもない。

 さらには拳を万が一にも痛めるのを恐れ、ファンとの握手すら拒否する完璧主義者。

 そんな性格からついたあだ名は、ミスター・ストイック!!!

 生まれもっての才能と、最大限の努力と、徹底した自己管理が高いレベルで融合したまさに日本ボクシング界の至宝だ。

 

 その偉大なるチャンピオンが今、僕の目の前にいる。

 しかもあんず先輩のお兄さんとして。

 前からそう言えば同じ苗字だなとは思ってはいたけど、まさかあんず先輩があの春巻選手の妹だとは思ってもいなかった。

 凄い! 凄いぞ!! サインとか貰えるだろうか。

 いや、それどころか妹の後輩としてプライベートで可愛がってもらえたり、ゆくゆくは義理の弟として試合に招待してもらえるかも!

 

「あ、あの、春巻葦人選手、ですよね?」


 今もなおあんず先輩へのお小言に余念がないお兄さんへ恐る恐る声をかける。

 ちなみにあんず先輩はお兄さんの言葉なんか耳にタコとばかりにぶーたれていた。

 

「あ、ファンの人? 悪いけど今はプライベートなんだ。サインなら申し訳ないけれど」

「やっぱり! すごい! あんず先輩のお兄さんがあの春巻選手だったなんて!!」


 感極まって思わず大声になってしまった僕に、お兄さんがぎょっとした表情を浮かべてこちらに顔を向ける。

 しまった。帽子で顔を隠しているのにこんな大声でその名を口にしたら、人が集まってきて大騒ぎになるかも!


「おい!」 

「す、すみません。声が大きすぎました!」

「違う。そうじゃない。今、なんて言った?」

「え? いや、春巻選手って……」

「だからそうじゃねぇって。今、あんず先輩って言ったか、お前?」


 ジロリと睨んでくるボクシング界の至宝。その鋭い視線はテレビで見る試合の時そのもので、ぶるりっと全身が震え上がる。

 ひィィィィィィ! こ、こわい! おしっこ漏れそう!!

 それでも僕は膀胱にぎゅっと力を入れながら、懸命にコクコクと頷いた。

 

「あんず先輩……俺の可愛い妹を下の名前で呼ぶとは、お前、何者だ?」

「おにいちゃん、何言っているの? あんずのことを先輩って呼んでいるんだから、高梨君はあんずの可愛い後輩に決まってるよー」


 僕がビビるあまりに声が出ないでいると、横からあんず先輩が助け舟を出してくれた。

 

「可愛い後輩だって!? あんず、ダメだ! 男の子と仲良くなるなんて、お兄ちゃん許さないぞ!!」

「えー!? だって高梨君、いい子なんだよ。あんずにいつもお父さん手作りのパンをくれるし」

「こら! 知らない人から食べ物を貰っちゃダメだって、お兄ちゃんいつも言っているだろ!」

「知らない人じゃないよ。同じ部活で後輩の高梨君だよ」


 お兄さんの視線が僕からあんず先輩へと移り、おかげで蛇に睨まれた蛙状態から何とか開放される僕。

 怖かった。でも凄かった!なんて圧力なんだよ、さすがは偉大なるチャンピオン。明日学校に行ったら友達に自慢しよう!!

 

 って、そんな友達いないけどな!

 よし、セルフボケツッコミが出来るぐらいにまで余裕が出てきたぞ。

 

「同じ部活……そうか、貴様、妹を狙って入部したな?」


 お兄さんの矛先が再び僕に向けられた。

 くっ。怖い。でも逃げちゃダメだ。大丈夫、相手は有名なボクシング王者。下手に一般人へ手を出して資格剥奪なんてへまをするような人じゃない……はず!

 

「い、いや、入部はその、あんず先輩に誘われて……」

「と言いながら目が泳いでいるぞ! やはりあんずのおっぱいが目当てだな、貴様!」

「いえ、決してそういうわけでは!」


 ミスターストイックの口から「おっぱい」なんて言葉が飛び出てくるのは、ちょっとした衝撃だった。

 まぁでも確かに、あんず先輩のおっぱいはめっちゃ魅力的だ。思わずその単語が出てくるのも仕方がない。


 だけど僕があんず先輩に魅力を感じたのは決してそれだけじゃないんだ。

 ちょっと食いしん坊でポンコツだけど素直な性格にも惹かれたというか、放っておけないというか……。

 ああ、色々と思うところはあるんだけど、お兄さんの圧が強すぎて上手く口に出せないィィィ。

 

「おにいちゃん! 高梨君の前でおっぱいとか言わないでよー! あんず、恥ずかしいよー」

「あんず! お前、こいつに騙されているぞ!」

「そんなことないよぉ。それにおっぱい好きなのはおにいちゃんも一緒だよー。あんずと一緒にお風呂に入るたびに『これが一キロの脂肪です』とか冗談を言って、あんずのおっぱいを持ち上げるくせにー」


 ……は? 今なんと?

 

「あ、あ、あんず、それこそ言っちゃ――」

「そもそもおにいちゃんがあんずのおっぱいを揉みまくるから、こんなに大きくなっちゃったんだからね!」

「あ、あ、あわわ……」


 お兄さんが慌てふためきながら周囲をきょろきょろと見渡している。

 すげぇ。こんなキョドってるチャンピオン、初めて見た。試合中のピンチでもこれほど動揺している姿は見たことないぞ。

 

「……えっと、あんず先輩、ちなみに聞きますけど。……水着ですよね?」

「ん? もちろん裸だよ?」

「すっぽんぽん!? え、すっぽんぽんでおっぱい持ち上げられたり、揉まれたりしてるの!?」

「うん。あれ、高梨君ってお風呂に入る時、水着を着るの?」

「いや、着ませんけど。でも、ええええ!?」


 いやいやいや、ミスター・ストイック。兄妹とはいえ、なんてことをしてるんですか!?

 

「……おい、少年。ちょっとこっちへこい」

「え?」

「いいから早く!」


 周りを警戒し、どうやら話を聞かれてはいないようだと判断したお兄さんが、僕の手を掴んで強引に近くの建物と建物の間の狭い路地へと押し込んできた。

 

「さっきあんずが言ったこと、絶対に誰にもしゃべるなよ」

「ああ、はい、分かってます。しゃべりません。てか、ミスター・ストイック、まさかとは思いますがあんず先輩のせいで他の女性に興味が持てないとかそういうことは……」

「何を言うんだ! そんなの当たり前だろッ!」

「す、すみません! そうですよね、さすがにそれは」

「あんず以上の女の子なんてこの世に存在しないッ!!」


 あ、やべ。マジのシスコンだ、この人。

 

「いいか、もしマスコミにでもバラしたらその時は……」

「分かってます。分かってますって。その代わり、僕があんず先輩と部活動するのを認めてください」

「くっ! 貴様、この俺と取引するつもりか!」

「取引じゃなくてお願いです。僕、学校ではあんず先輩以外友達がいないんですっ! 僕から友達を取り上げないでくださいっ!」


 まぁ、正確には羽後先輩もいるけどな。でもあれは友達というかライバルだし。

 あと、あんず先輩とは友達以上の関係になりたいという大いなる野望があるんだけど……それは勿論黙っておこう。

 うん、僕、ウソついてないよ!

 

「何だお前、ぼっちなのか?」

「恥ずかしながら」

「苛められているのか?」

「直接的に何かされているわけではないですけど、周りに誰も近づいてこないという意味ではまぁ」

「苛められているのなら、うちのジムに来いよ。鍛えてやるぞ」

「あ、いえ。結構です」


 ただでさえ最近は変な噂のせいで誰も近寄らないのに、さらにジム通いなんか始めたらそれこそ何を言われるやら。

 

「そうか。まぁ、事情は分かった。仕方ない。あんずとの部活を認めてやろう」

「本当ですかっ!?」

「ただし、変なことはするなよ!? もし何かしたらその時は俺のスプリングトルネードが」

「しませんしません! てか、スプリングトルネードって一見カッコいい名前ですけど、単純に名字を英語にしただけですよね?」

「う、うるさい! マスコミが勝手にそう呼び始めたんだよ! 俺だって本当はダセェと思ってるよ」


 だったら自分で言わなきゃいいのに。


 とにもかくにもあんず先輩のお兄さんが現役のボクシング世界チャンピオンだったのには驚いたけれど、なんとか僕たちの関係を認めさせることに成功した。

 まぁ、あんず先輩に下手なことはできなくなったけれど、問題ない。僕はこう見えてヘタレなんだ。そんなすぐにあんず先輩とあんなことやこんなことまでやっちゃう大胆さなんて、これっぽっちも持ち合わせちゃいない。

 

 もっとも男子たるもの、三日会わざれば刮目して見よとの故事もある。

 僕だっていつまでもこのままでいるつもりはない。

 いつかはこのチャンピオンとあんず先輩を賭けて戦う日がくることだろう……。

 

 でも、それはまぁさておいて。

 

「あ、あの、今更何ですけどファンなんですよ。握手してもらえませんか?」


 戦うその日までは休戦という意味合いも込めてと思いつつ、僕は右手を差し出した。

 

 

 

 

 

 おまけ

 

「ファンなら知っているだろう? 俺は握手はしない主義だ」

「それって拳を万が一にも痛めるわけにはいかないからだって聞いてますけど、本当のところはあんず先輩のおっぱいの余韻を他人に邪魔されたくないからじゃないんですか?」

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