最終章「八月六日」①
ひどく、暑い日だった。
帝都の夏は、抜けるような青空で、入道雲だけが大きな顔をしていた。
誰も彼もが疲れていた。
確かに、勝っている。
戦争には勝ち続けているのである。
が、そのために社会が支払っている犠牲は、あまりにも大きい。
すでに農村では生産に携わるべき成年男性、そして農作業に欠かせない牛馬が払底しつつあり、食糧生産は折からの気象不順もあって混乱の一途を辿っていた。大陸との制海権こそ譲らないでいたから飢餓は深刻とはなっていなかったが、いずれ戦争経済そのものが維持できなくなることは明白だった。
それは、神谷の家の朝食の貧しさを見ても分かる。
配給に頼っていればこういう食事にもなろうか、という、顔の映りそうな味噌汁を見ながら、そう考える他ない。
無論、英雄である神谷が指を少し振れば、高級軍人用の闇ルートからはいくらでも高級食材が運ばれていることはわかっている。
が、そういうことをするつもりにはなれなかった。
欲しがりません勝つまでは、と唱えている側がそれを実践できなければ、愛国の情などはまるで空しいものではないか。
ただ、小さな目刺しを形のよい絵皿に盛り付けて少しでも豊かそうに見せてくれる妻が、愛おしかった。
“大佐”が神谷の屋敷を訪ねてきたのは、そんな朝である。
「ジャマをするよ」
大きな西瓜を下げて現われたその姿は、実質的な戦争指導者が国家の英雄を訪ねるというよりは、まるで夏休みに悪童が級友を訪ねるような風情だった。
*
「新型爆弾?」
「ああ」
薄い乳酸菌飲料をひどく旨そうに飲んで、“大佐”はそう言った。
「それは酸素魚雷のようなものですか」
「そんなものなら、君を尋ねたりはせんよ」
“大佐”は苦笑し、マドラーでグラスをかき回した。白い乳酸菌飲料が、雲のように回転する。
「原子核分裂爆弾だ」
その名前には聞き覚えがあった。
米国のなんとかいう博士が数十年前に開発した特殊相対性理論なるものを使うと、ある種の放射性物質から巨大なエネルギーが引き出せる、というのは、科学雑誌や空想小説でしばしば取り上げられている題材だったからである。
「雑誌で名前を見たことがあります。殺人光線や超音波兵器のようなものかと……」
「ま、理論的に可能だ、というのは現実的だ、ということとは違うからな。無論、伽藍人形よりはよほど現実的だがね」
「それを言われると一言もありませんが……帝都や紐育(ニューヨーク)を吹き飛ばせる爆弾、と言われても現実味は感じません」
「そうだろうな。新兵器というのは――いや、有事というのはいつもそんなものだ。目の前に立ち現れるまで、日常の風景の中に埋没してしまう」
神谷にもそれはわかる。
十五年に渡るこの戦争もそうだ。
もう戦時でなかった日々のことを思い出すことはできないし、気が付けば疎開で家が取り壊されるのも、配給の行列が長くなるのも、日常になってしまっている。
むしろ、この戦争が終わること、戦争の形が変わることのほうがよほど想像できないものだ。
きっと戦争が始まった時もそうだったのだろう。
「米国は、原子爆弾を完成させた」
「……信じたくはありません」
「貴様だからいうがな」
空になった乳酸菌飲料のコップに水を注ぐと、“大佐”は一気に飲み干した。どこか、自分が口にする言葉の空々しさに厭気がさしている風でもあった。
「こちらでも和光にある登戸の分室で研究を進めさせている」
神谷はぞっとした。
真国と米国がそれらの開発に成功すれば、互いの同盟国であるドイツやソ連にも遠からず同様の兵器が配備されるだろう。
戦いは伽藍人形や飛行機のものではなく、もの言わぬ巨大な殺戮兵器によ
って決着するようになるのだ――決着を行なう人間が地表に生き残っていればだが。
「それは真国の名誉を穢すものではありませんか」
「伽藍人形の操縦士にはそう言う権利がある――だがな、抑止力という考え方もある。相手が銃を持っている時にこちらは刀しかないのでは交渉にはならん。お互いが銃を持っていて、始めて対等になれる。維新で我が国が近代的な軍備を整えたのは何のためだ? 鹿鳴館を建て、文明国のような顔をしているのは? 平和は、力の誇示でしか成立せんさ」
「では相手が銃を二丁持っていれば」
「二丁持つさ。血を吐きながら続ける哀しいマラソンだよ――みんな好きだろ、そういうマラソン」
「………………」
「この国は開国以来ずっとそれを続けて来たんだ」
「そんなマラソンは列強が勝手に始めたものではないのですか」
「だがマラソンをやめた国がどうなるかは歴史が教えるところだ――俺たち自身がマラソンの敗者に何をしてきたかを思い起こせば、今さらこのレースから降りられるものでもないだろうさ」
神谷は一息吸い込んで、少しだけ妻の祖国のことを考えた。
今はもう地図の上に存在しない国のことを。
「それで、その原子爆弾を米国が開発した――そういうことですか」
「そうだ。欧州戦線に投入するかこちらに投入するか紛糾したあげく、こちらに投入するということになった」
「――では、やはりドイツは落ちますか」
「ああ。あちらは連戦連勝と言っているが、奴さんの戦争経済は占領地からの収奪を前提とした自転車操業だからな……後方を支えられないまま、米ソの物量にすり潰されるのは時間の問題だ。明日、明後日にもベルリンが射程内に入るな――」
「――――!」
神谷は息を呑んだ。
いかに伽藍人形ありといえ、米英が――いやもしかしたら中立を保っているソ連が参戦すれば、真国の物量はそれに抗し得ないだろう。
「まあだが――国内の出血に耐えられなくなっているのはあちらさんも同じだ」
「――米国にも戦争を終わらせたがっている勢力がいる?」
「そういうことだ。そいつらはこちらに情報を売ってでも、戦線の拡大を止めたがっている。ガダルカナルと同じ泥沼をフィリピンや硫黄島でやるつもりはないということだ」
それを売国、と呼ぶべきかどうか、神谷には判断のつかぬことだった。
わかっていることは、戦場となっている土地に住まう人々、その戦場で戦う兵士の命や尊厳などは、後方に住まう者たちにとって、取引可能なチップにすぎないということだ。
「では、それの投下を阻止するのが今度の任務ということに?」
「そう思ってくれていい。ただ、付帯条件がひとつある」
「なんなりとおっしゃってください。そのような兵器を使用させないためなら」
「いや……」
“大佐”は皮肉っぽくかぶりを振った。
「必ず使用させてくれ。それが絶対条件だ」
「――おっしゃることの意味がわかりませんが」
神谷は当惑し、怒りを抑え込むのに苦労した。
この名を明かさぬ“大佐”への信頼なかりせば、とうてい冷静に聞くことができる言葉ではなかっただろう。
「まあ聞け。おまえにしか出来んことだ――そして、この戦争を真国の勝利に終わらせることができる最後の手段でもある――」
*
その日、神谷を見送ったのはいつもの整備兵たちと、“大佐”だけではなかった。
彼の妻も、伽藍人形を見上げていた。
決死の特務ということで、“大佐”が気を利かせたのだという。
質素なもんぺを着て、伽藍人形を見上げる愛妻は、美しかった。容姿のことではない――無論神谷には妻以上に美しい女など考えられもしないのだが――その気高さ、凜とした空気が、美しいのである。
「伽藍人形というものを初めて見ましたが、愛らしいものなのですね」
「……その観点はなかったな」
「寸詰まりで、どこか子供のおもちゃのように見えます」
耐熱の特殊塗装を施した伽藍人形は死に装束のような純白だったが、言われてみれば寸詰まりのその体型は、ぬいぐるみや五月人形のようにも思えた。
「ふふ――子供にも、こんなものを買ってあげたいですね」
「え」
我ながら、間の抜けた声を出したものだ、と神谷は思った。
戦場なら、死んでいただろう。
妻は、微笑んでうなずいた。
「お帰りをお待ちしております――ふたりで」
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