第五章「ラバウル伽藍空戦録」④

 飛行場から上がってきた迎撃の艦上戦闘機と零戦隊の戦いは、苛烈だった。

 対空砲撃の曳光弾がオレンジ色の死神の線を引けば、その火線の中に飛び込んでいく真国の陸攻(いわゆる爆撃機)隊は炎を吹きながら爆弾の雨を降らせるのである。

 そこに、神谷の伽藍人形が切り込んでいく。

 頭上・後方はすべて、零戦隊に託す。

 すべての方向を警戒し、あらゆる敵を倒すことはできない。信じるのは、味方である。

 味方がもし全員死ねば、自分も死ぬのである。

 その覚悟をしての、吶喊である。

 巨大な刀で米国の戦闘機を両断すれば、操縦士が母の名を叫んで肉塊になるのがわかる。

 言葉は聞こえぬ。

 口の動きと表情で、それが母を意味する言葉であろう、というのがなぜか、わかるのである。

 兵士が死ぬ時に名を呼ぶのは、母か、妻の名であるのだから――。

(すまん!)

 その謝罪は、心からのものだ。

 苦しまず、成仏をしてくれ、と祈るのみである。

 敵の尊厳を祈るのは、死を作業とすることが己の尊厳を損なうのではないかと恐れるからである。

 流星のように、撃墜された陸攻が神谷の側を落下していく。

 その中にいる兵士たちが、炎の中で伽藍人形に敬礼をするのが見えた。

 祈りである。

 人の形をした、あるいは神仏の姿をした鋼鉄の巨人が、真国に勝利をもたらし、彼らの家族を守れよ、と祈るのだ。

 が、そのような祈りは、虚空に吸い込まれるものにすぎない。

 それがわかるのは、燃え落ちる陸攻を砕くようにして突撃して来た影が、横合いから神谷に体当たりをしてきた、その衝撃による。

「ぐっ!」

 舌を噛み切らぬよう耐えながら、猛烈な横合いからのGに耐える。

 艦砲射撃を受け止めた時ですら、これほどの衝撃はなかった。

 力場そのものが機能していないとしか考えられぬ。

 それが意味するところはひとつだったが、その答えを確認するより先にやるべきことは、眼前に迫る地面との接触を回避することだった。

 目の前にせまるのは、米軍飛行場の舗装された滑走路である。

 伽藍人形を空中で半回転させ、その足で大地を蹴り、衝撃を殺す。

 駐機状態で破壊されていた米爆撃機に機体の背が叩き付けられた。

 ついで、上方から銃撃が来る。

 聞き慣れたブローニング50口径機関銃の風切り音だ。

 が、グラマンの〈ヘルキャット〉型戦闘機のエンジン音はしない。

 前に再度跳躍しながら、銃撃の来た方向に向かい、伽藍人形の左腕を伸ばす。装備された零戦譲りの20ミリ機関砲が、火線を吐き出す。

 火線が交錯する。

 致命打にならないのはわかっている。

 あくまでも牽制だ。

 奇襲を許したことは飛行機乗りとして恥じなければならないが、伽藍人形は零戦ではないのだから、地上にたたき落とされて、頭上を押さえられたとしてもやりようはある。

 米軍の格納庫を盾にして機銃の火線をかわしながら、神谷は妻と見たロシア・バレエのプリマドンナがするように、伽藍人形のつま先を立ててクルクルと機体をターンさせる。

 航空機のように一直線に飛ぶ必要がないのが、伽藍人形の最大の強みだ。それは、手があり、足がある人を模したことによって獲得された柔軟性の産物なのだ。

「!」

 火線の先に、影が見えた。

 人型である。

 身長は、神谷の機体より一回り大きく、“首”と“頭部”が存在する初期型に近いフォルムをしている。

「やはり、伽藍人形か!」

 まさか、とは思わぬ。

 もとより、鹵獲されるか解析された敵性伽藍人形が登場することは想定のうちにあった。

「ありえない、というのは危機管理の中で一番口にしてはならんことだ。ミスはあるし、アクシデントはある。あってほしくないことは、ありえないことではない。言霊とやらを信じて、不都合な事態を言葉にしないのはやめろ。そのアホさ加減がプロジェクト自体にバッファを作れず、破綻を招くんだ」

 常々“大佐”はそう言っていた。

 あってはならないことは、あるかもしれないことであり、対策を練った上でムダに終われば、自分たちが上手くやったと喜べばよいのである。

 だから神谷は、上空百メートルを擦過して機銃攻撃をかける伽藍人形の姿を見て驚きはしても、すぐにメンタルを切り替えることができた。

(見覚えのない機影だ……! 鹵獲機ではなく、複製されたものと見た)

 伽藍人形を跳躍させ、高度を取る。

 敵機の銃撃が来た。

 が、神谷には追いつかない。

 対伽藍人形戦は手慰みに亡くなった龍造寺たちとなんどか訓練をした程度だが、もとより、真国全軍を見ても、神谷の機体制御についていける操縦士はおらず、その三次元把握能力には卓越したものがある。

 だから、敵機の姿を観察する余裕もあった。機体のガン・カメラで撮影もする。それは、次の戦いに備えて情報を収集するためである。

(背中についているランドセルのようなものは、ロケット・ブースターの類いか? 飛行機能を解析できていないと見た)

 無理もない。

 愛国心だけで飛翔している、という伽藍人形の理屈は、神谷にも飲み込めぬもので、ほとんどの訓練生たちがそれを信じ切れず、飛ぶことができないのである。不格好な翼やロケットを取り付けることで、飛翔できると信じようとしているのだろう。

「が! そのようなものに頼らねば機体を信じられぬのは、甘いと断じる!」

 20ミリを撃ち尽くす。

 敵機は機体をスライドさせてこれをかわしたが、それは上昇させるための神谷の撒き餌である。

 地表近くで頭を押さえられたら、火線を縫って上昇反転し、優位を取るのが空戦の基本だ。

 が、伽藍人形は戦闘機そのものではない。

 上昇をかける敵機に、神谷は巨大な刀を手に斬りかかることを選んだ。

「イーェヤァァァァ!」

 裂帛の気合が、大気を震わす。

 両断するつもりだったが、敵の伽藍人形の動きは神谷の読みより速かった。背部の装甲板と増槽を切り飛ばし、爆炎が上がったが、飛行能力を奪うには至らなかった。

(よい操縦士だ!)

 好敵と巡り会った喜びで、血液が沸騰する。

 こればかりは妻とすら共有出来ぬ、戦士の喜びである。

 自分の鍛え上げた技倆を十全に発揮できるといううれしさと、生死の境界にある緊張とが、魂を燃焼させるのである。

 斬撃こそかわされたが、神谷は敵機を離さなかった。

 敵機も抜刀した。日本刀型ではなく、無骨な西洋剣型だ。

 超低空で、さらに切り結ぶ。

(できる!)

 手練れ、である。

 打ち込み、防御、戦闘機動、いずれを取っても、神谷と遜色ない。

 神谷が引けば押し、神谷が押せば引く。舞うように、踊るように、滑るように飛行場を飛びながら、切りつけ、切り払う。

 斜め下から切り上げるように刀を振る。

 受けられた。

 火花が宙に舞う。

 切り返して、上段を狙ってくるだろう。

 その誘いに乗ったように見せて、籠手を切る。

 それを受けられるだろうから、そうしたら手首を返して突く。

 そうなれば――。

 が、思考のループは実際には言葉にならぬ一瞬のもので、後になってこのようなことを考えていた、とわかるものに過ぎない。

 実際には、考えるより先に手足が操縦桿を動かし、伽藍人形を駆動させているのである。

 が、同時に研ぎ澄まされた精神の中で、無数の読みが繰り返されているのもまた、事実なのだ。

 それが達人の戦闘というものである。

「イヤァーッ!」

 刀を突き出した。

 この突きは、まだかわされたことがない。

 伽藍人形の運動性と慣性制御を生かして、雷鳴のように飛ぶ必殺の突きである。

 が、そこに驕りがあった。

 敵伽藍人形は左腕を敢えて突き出して、盾のようにし、突きをかわすのでも受けるのでもなく、

(吸い込んだ――!)

 のである。

 刀によって粉砕される左腕をあえて肩から振り上げることで、刀を持った神谷の伽藍人形を流す。

 その隙に、蹴りが来た。

 神谷の斬撃を浴びながら、機体を宙返りさせて、右脚で神谷機の腰を蹴ったのである。

 古流柔術か琉球唐手の技に似ていた。

 刀を持った武士の斬撃を腕を犠牲にして受け、倒れ込みながら足で投げ、そのまま組打ちに入って首を取る技法である。

 妻の生まれた国にも、似たような武術があると聞かされたことがあった。

 浮気をしたら、それを使うしかないかもしれない、と冗談で言われたことがある。

 無論、覚悟がなければ出来る技ではない。

 半歩の見切りを誤れば、死に体で相手の突きをモロに受けるからだ。

 が、伽藍人形乗りに覚悟がないはずもない。

 機体が猛烈に揺れる。

 空と大地が視界の中で回転する。

 座席が背中を撃つ。

 血反吐を吐くのは生きている証だ。

 密林の大地に叩き付けられた、とわかる。

 立ちあがろうとして、異変に気付く。

 飛翔機能が死んでいる。

 愛国心を力場に変える回路のどこかを、衝撃で破壊されたのだ。真国軍全体を見回しても、扱える人間が十人とはいない精密回路である。無理もない。

 それでも機体を立たせる。

 空の上から、米国の伽藍人形が降下してくる。

 ランドセルが、火を噴いていた。

 あちらのロケット・ブースターも限界であるらしい。

 ブースターを助走した敵が、大地を激しく揺らして着陸し、構える。

 こちらは腰椎をやられ、相手は左腕を断たれた。

 戦意の炎はどうだ。

 カメラアイが燃えているように輝いている。

 つまり、互いの魂はいささかも傷ついていないということだ。

 すなわち、伽藍人形のいくさにおいては、互いに何らの損傷を受けておらぬ、ということになる。

 左正眼に構える。

 鼻孔を熱帯のムッとした大気と、ガソリンと草の匂い、そして人の焼ける異臭が満たす。

 戦場の匂いだ。

 不快だが、苦痛ではない。

 ここが生きる場所で、死ぬ場所だ。

 大地を蹴る。

 先の先を取る覚悟で、真っ正面から切って落とす。

 相手が早ければ、それを感じることなく死ぬだけだ。

 それでいい。

 振り下ろした刃を、刃の感触が受け止める。

 真国の最新技術が産み出した鋼鉄の刃を、米国の鍛え上げられた鋼が真っ向から防いで見せた。

 伽藍人形の力も、速度も、そして操縦者の技倆も互角である。

 神谷はその事実に、感嘆した。

「素晴らしい! 好敵とは、このようなものか!」

 そう、叫んだ。

 答えを求めてのことではない。

 ただ、戦いの高揚がそう叫ばしめただけのことである。

 が、それがもたらしたものは、意外な結果であった。

「貴様は、戦いを楽しんでいるのか」

 確かに、その声がしたのである。

 真国の言葉である。

 聞き違えようはずもない。

「何!?」

 思わず、そう問い返したのも無理はない。

「貴様のような輩が、侵略の片棒を担ぐのは許せんと、そう言っている!」

 相手が答えたのもまた無理からぬことだ。

 なぜ言葉が聞こえるのか。何故言葉が通じるのか。伽藍人形が物理法則を無視するものであれば、そのようなこともあろう、というのは、人間のこざかしい知恵がもたらすものだ。

 だから、相手も会話が通じる、という事実を咀嚼するより先に答えてしまったのであろう。

 それはよしとしよう。

 が、目の前の事実はなんだ!?

 それは何を意味しているのか!?

「真国人か!? 真国の人間なら、何故祖国に刃を向けるか!」

「違うッ!」

 米国の伽藍人形が、剣を払った。

 神谷が飛び退き、密林に隠れる。銃撃が木々を粉砕する。

「オレは米国人だ! 星条旗に忠誠を誓っている!」

「!? 移民か! 渡米をして、国への忠義を捨てたというのか!」

「祖国は合衆国だ! サンフランシスコで産まれ、サンフランシスコで育った!」

 米国機の腰部に装備されたロケット砲から火線が吐き出された。伽藍人形の力場で強化されたその火力を浴びて、装甲が無事である保証はない。転がって回避する。

 が、神谷は会話をやめようとは思わなかった。

 論理的な理由は、ない。

 そのようなものであろう。

 人は、相手を個体と認識してしまった相手を殺すのは難しい、ということであるのかもしれない。

「戦いを強要されているのか!?」

「違うッ!」

 血を吐くような叫びであった。

「オレは志願して貴様ら真国と戦っている! 民主主義のために戦っている!」

 その言葉の意味は、神谷にはにわかに理解しがたいものだった。

 真国の血を受けて、何故祖国に刃を向けることができるのか? 日本人ととは、真国という国家と不可分のものではないのか? たとえ移民したとしても、真国魂は不滅ではないのか?

 答えは、すぐにわかった。

 憎悪とともに、敵機の刃が振り下ろされてきたからだ。

 今度は、神谷が受ける形になる。

「貴様は……真国魂を失ったというのか!」

「違うと言っている!」

 剣がさらに押し込まれた。

「民族の誇りを捨ててはいない! だが、忠誠は星条旗にあるということだ! 敵性国民として収容所にいる家族を、合衆国市民として認めさせるには、こうするしかないということだ!」

 それは血の叫びであった。

 後に神谷が知ることだが、米国は開戦と同時に、真国系の移民を強制収容所に入れ、人権を無視した非人道的な扱いをする。ドイツやイタリア系の移民たちも差別を受けたが、このようなものではなかった。

 それ故に、真国系移民たちは志願して兵となった。そのほとんどは裏切りを恐れて欧州戦線に派兵され、激烈な死闘を繰り広げたが、その中に伽藍人形――米軍用語ではガランドールを動かせる兵がいたことが、運命を変えたのである。

「そのような国に――なぜ忠義を尽くすか!」

 跳ね返し、切り返す。

 火花が散る。

「ならば貴様は、国がおまえに良くしてくれたから愛国心を持つというのか!? 国が貧しくなれば、国を愛さぬというのか!?」

「違うッ! 真国で産まれた以上、政道のありように関わらず、鄕土を、同胞を愛する! それだけだ!」

「ならばわかろう! 産まれ育った祖国で生きたいと願うことが、自由と民主主義を愛することの何が悪い! 真国が、父や母に、何をしてくれたというんだ! 荒れ野に放り出す以外の何をしたというんだ! 本土でぬくぬくと過ごした貴様らに、何がわかるか! 移民の暮らしの、何がわかるか!」

 哭いていた。

 太刀筋が哭いていた。

 開国以来、真国は大陸へ、南北アメリカへ、東南アジアへ、移民を送り出してきた。

 増えすぎた人口は、真国の生産力で食べさせることも、働かせることもできなかったからだ。

 楽園がある、土地がある、仕事があるとたぶらかされた人々は、諸外国の荒野に放り出され、奴隷のような労働に従事することになったのだ。

 そうしなければ、真国はこぞって餓死をした、というのはたやすい。

 が、それは強者の論理だ。切り捨てたものの理屈だ。

 国が人を捨てる理由になろうか。

 民が民を忘れる理由になろうか。

 なるはずがない。

 なってよいはずがない。

 この世には、そういうものが確かにある。

 だが。

 激突する刀を、じりじりと神谷は押していく。

「だからこそだ! そのような悲劇を止めるために、我々は王道楽土をこの大東亜に築かねばならん! それが真国の旗を仰ぐということだ!」

「侵略者の作った都合のいい物語を真に受けた男の言うことか!」

「故郷の恩義を忘れて何をほざくか! 父祖の魂に恥じる心はないのか!」

 ふたりは、いつのまにか海岸にいた。

 周囲には、真国と米国の兵たちの屍が無数に広がっている。

 それを踏みにじりながら、両機は対峙する。

 互いに譲れぬものを賭けて。

「私の名は神谷新八郎。貴様の名は」

 そう問うて、神谷はもう一言継いだ。

「名は私の心に留めておく。ただ、敵手の名を知りたいだけだ」

 そう告げたのは、国に残った彼の一族に報復するつもりだ、と思われたくはないからだ。非国民の烙印を押されて、哀しい目にあうのではないか、と考えさせたくはないからだ。

 離反者を斬ることにためらいはない。が、士道には、士道の在り方があろう。

「クニチカ・タケイ。新八郎とやら、あんたのことは忘れない――久しぶりに人間として扱ってもらった」

「そうか」

「それに対しては、礼を言う。だからこそ――人間として殺し合おう」

「そうだな」

「そうだ」

 人として尊重すればこそ、怒ることも、憎むこともできる。

 刃を向けて、その生命を絶とうとすることもできる。

 そこには敬意があった。

 静かな尊敬の念があった。

 ここに至るまで、互いに積み重ねた信念と技倆への想いがあった。

 互いに退けぬ。

 決して退けぬ。

 退かせようとも思わぬ。

 まして退こうとは思わぬ。

 二機の伽藍人形が走る。

 丁寧に、心を込めて、芸術的な正確さで、ふたつのカラクリが、刃を繰り出す。

 ふたつの影が交錯し、ひとつの影が海に落ちる。

 奇妙なことに、この戦いには真国・米国のいずれの兵も介入していない。

 伽藍人形同士の戦闘に介入するような余力はなかったという説もあれば、そのようなことをすべきではないと考えた、と真顔で唱える者もいる。

 真実はわからぬ。

 わかったことは、神谷新八郎だけがそこに立っていた、ということである。

 後の事は、映画や小説が伝える通りだ。

 陸軍部隊が飛行場を制圧するまでの三十二時間の間、神谷新八郎は激烈な戦闘を続け、ガダルカナルの勝利に貢献したのである。


 *


 後の事実は、散文的である。

 真国艦隊は、〈エンタープライズ〉を防衛していた新型戦艦〈ワシントン〉〈サウスダコタ〉を撃沈せしめ、正規空母〈ホーネット〉を大破炎上させたものの、またも因縁の〈エンタープライズ〉を取り逃がしている。

 陸軍はガダルカナル島を制圧し、飛行場の要塞化にとりかかった。

 隠蔽された複数の飛行場を持つガダルカナルの飛行隊は、陸軍のガダルカナル、海軍のラバウルと、南洋最強の飛行隊の根拠地として数々の伝説を残す。

 が――。

 ガダルカナルを足がかりにしてフィジー、引いてはオーストラリア攻略を果たすことはかなわなかった。

 米軍はガダルカナル奪回を目指して幾度となく攻略作戦を繰り返し、そのたびにアイアンボトム・サウンドは赤く染まった。

 真国は果てしのない消耗戦に引きずりこまれ、南洋で確保した物資のほとんどをガダルカナルにつぎ込み、無数の兵たちが密林でのゲリラ戦の中、飢えと病で死んでいった。

 戦いは二年あまりに及び、誰もがガダルカナル撤退を唱えようとしたが、そうしてしまえば何のための流血だったかと責められるのを恐れ、ひたすらに流血を続けることとなったのである。

 後に勝つべきではなかった勝利、無意味な勝利と呼ばれた第一次ガダルカナル攻略作戦の顛末がこれである。


 *


 ラバウルに帰還した神谷は、あの従兵が死んだことを知った。

 敵の攻撃ではない。

 伽藍人形用の弾薬庫に運ばれるロケット弾に、誰かのタバコの火が引火して、その爆発に巻き込まれたのである。

 骨も残らなかった。

 戦場の死とはいつも無意味で、脈略なく、伏線もなく、ひどくあっけない。

 物語のようにはならない。

 ただ死んで、骨になって、やがて忘れられるのである。


 神谷はパパイヤを従兵の墓に供えてやった。

 早くも腐りかかっていたパパイヤの樹液の匂いを嗅ぎつけて、蝶が飛んでくると、パパイヤにしがみつくようにしてその汁を啜った。

 それはまるで、あの食べることばかり言う従兵の魂のようであった。

 軍人の魂は千鳥ヶ淵に飛んで安らぐと考えられていたが、まああの男の魂はこの地に留まって、パパイヤやバナナのことばかり考えているほうが、あるいは良いのかもしれぬ。

 神谷は、彼が生きて真国に帰って、絵描きになったらどんな傑作をものしただろうかと考え、すぐに想像するのをやめた。

 この南洋で死んだすべての兵たちにはその可能性が存在し、兵たちの後ろには無数の家族が存在するのだから、そのすべてを想像し、想うことは魂をすり減らして、やがて死者に引き込まれるとわかってしまうからである。

 それでも神谷は終生、彼に描いてもらった自画像を手放すことはしなかった。

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