第五章「ラバウル伽藍空戦録」②
ガダルカナルは、緑の地獄であった。
密林は外から見れば生命豊かに見えるが、人間が食べることができる草木なく、獣なく、安全な水なく、熱病のみが蔓延する場所である。
物資を輸送する手段は駆逐艦をもってする他なく、兵員の数に対して運べる弾薬も食糧もあまりに不足していた。
山野は険しく、砲や重機関銃を人間が分解して運ぶ他にない。
島に投入された兵士たちがまず見るのは痩せて倒れそうになった友軍の姿で、彼らに米を分けてやった増援の兵たちも、すぐに飢えに直面することになる。
そうした兵士たちを眼下に見下ろしながら、神谷たちは、ただ上空の敵機を一瞬の間追い払うことしかできない。
その間隙を縫って、駆逐艦隊が物資を運び入れて、一時の休息を得るのである。
が、それだけだ。
陸上には陸軍に配備された伽藍人形隊も投入されているはずだったが、飛行場を奪還できたという報告は聞かない。
当時の神谷は知らぬことであったが、飛行能力をもたぬそれらの伽藍人形隊は半ばが密林の峻厳な地形で擱座し放棄され、残りの半分も飛行場に夜間突入するも、待ち受けていた米軍のレーダーを生かした濃密な砲火によって迎撃され、破壊されたのである。
そればかりではない――
米軍は無敵と呼ばれた零戦への対抗策を身につけつつあった。
零戦の得意とする格闘戦には決して取り合わず、複数機で一撃離脱を繰り返し、これを仕留める。
真国のやりたい戦いは決してやらせない。職人芸のようなものを発揮させることはしない。
これを可能にしているのは、米軍の徹底的なマニュアル主義と、優秀な通信機である。
伽藍人形に乗せられているものを除けば、真国の通信機は質が低い。
したがって、通信機は戦場に突入する前の交信に使うのがせいぜいで、あとはハンドサインや黒板などを使った連絡が主となる。
通信機に頼るな、以心伝心で戦え、そもそも味方に頼らず単騎での一騎討ちを行うことこそ空の武士の誉れとせよ――。
それは神谷が叩き込まれたものでもあった。
だが、そのような時代は終わったのだ。
米軍機はレーダーで神谷たちを捕らえ、通信機で互いの意志を伝え合いながら、コンビネーションで零戦を落とす。
神谷が伽藍人形で食い下がろうとしても、囮になる機体が必死に伽藍人形から逃げ回り、残りの数機が対伽藍人形用と思われる大型機関砲のつるべ打ちを浴びせかけてくる。
撃墜されたりはしない。被弾することもほとんどない。
だがほとんど、だ。
その攻撃を避けている間、神谷は友軍を救えない。
その間に、何人かが死ぬ。
神谷も何機もの米軍機を落とす。
だがその落とした米軍機は、次の戦いでは補充されている。
そしてまた、神谷たちはラバウルから出撃して、三十余分の絶望的な戦いを続けるのである。
*
「真国の大義、ですか」
従兵は困った顔をした。
いやそれほど困ってもいないのだろうか。
首をかしげて、分厚いメガネを何度か動かしてみせる。
「まあ少尉殿の前ですが、あまり考えたこともありません」
「そうか。いや、いい。別に私は憲兵ではないからな」
神谷のほうも、そんなことを話題に出したことを少し恥じていた。
彼自身は強く真国を意識し、異国の地にあっても目覚めれば帝都に遥拝する男である。
が、それは内なる思いや願いから出てくるもので、そうしない現地民や兵を殴打するようなやり方は、好まなかった。
妻を殴打する夫は細君を愛しているのかもしれぬが、外から見ればそれは無様であろうし、配偶者が真に殴ったものを愛するかどうかは、無謀な賭けであろう、と思う。
殴りつけたものが真なる愛を持ち、殴られたものがその殴打から愛を見いだすことはない、と神谷は思わぬ。
そういう関係性は確かにある。
だが、それを期待するのは、安易に過ぎよう。
「考えているのは芋のことです」
「芋?」
「まあ夕飯には芋が出るはずだと。米だけでは足りませんから、芋がどれだけ出るかということを考えますね。なるべくでかい芋がいい」
従兵は身振り手振りで芋の大きさについて説明した。
本当に毎日芋のことを考えているのであろう。絵描きだけあって、芋についての気合の入った描写は、あたかも男の手の中に本当に芋があるかのように思わせた。
「その芋をたらふく食うことを考えています。たまに故郷のことも考えますが、まあそれも本土に戻ったらあれを食いたい、これを食いたい……そういうことでありますな」
「気持ちはわかる」
それは本音である。
国を愛しているが、国のことだけ考えているわけではない。
妻のことを考えることもあれば、よく冷えたあんみつのことを思うこともある。
兵士というのはそういうものだ。
伽藍人形でラバウルからガダルカナルまで飛び続ける十時間の間、意識をはっきりとさせ愛国の念を絶やさぬというのは、これはこれで集中力を必要とする。
(やがて、俺は愛国心を失うのではないか――)
それが、怖い。
伽藍人形はガランドウの機械である。
それを動かしているのは、神谷の気力である。
石油も、鉄鉱石も、近代戦を戦うための資源を海の外に求めねばならぬ真国が唯一確保できるエネルギー、それが愛国心である。
それが尽きたらどうするか。
尽きぬ、と心に言い聞かせているのは事実だ。
だが言い聞かせねばならぬこと事態が、危機であろう。
だから、普通の兵というものが何を考えているのか、問うてみたくなったのだ。
ガダルカナルの空の下で、飢え、病み、敵の姿を見ることすらなく死んでいく兵士たちの気持ちに――。
「まあ芋以外のことも考えます」
「絵のことか」
神谷は一度、彼に肖像を書いてもらったことがあった。手紙に添えて妻に送ろうと思ったのだ。なかなかに似ていたが、あまりにトボけた顔だったので、どうも妻に送るつもりにはなれず、結局自分で持っていた。
「そんなことは考えません」
「ほう」
「パパイヤです。自分は南方はパパイヤとバナナには不自由しない、どこの木にもなっている、と言われて転属になりましたが、いや、騙されました。最後にパパイヤにお目にかかったのはいつになるか」
そこで神谷は吹き出すのを押さえられなかった。
何日ぶりかの笑いだった。
従兵も笑っていた。
「いや、それはわかる。実は私も同じ話を聞かされていた」
「少尉殿もでありますか」
「妻にそういう手紙を書いてしまったほどだ。いや確かにパパイヤには恵まれんな。今度探してきてくれ。ふたりで食おう。街まで行けばどこかにはあるだろう」
「いいですな」
従兵はさらに笑って、少し真面目な顔をした。
「まあ、少尉殿だから話しますが、自分はお国のことになりますと、まずはお国を持ち出されてビンタを喰らうものだと思っております。学校でも、軍隊でもそうでした」
そうだろうな、と神谷は思う。
少しでも集団から外れた人間、同じように考えられない人間には、愛国心が足りぬと平手打ちが飛ぶのが、真国というものである。
それに不思議を覚えたことはない。
が、大陸に出て、南方に出て、真国以外の人の暮らしを見るようにもなれば、それを当然と思ってよいのか、という気持ちは芽生えるようになったし、神谷自身は殴らぬことを心がけてもいた。
「ですが、パパイヤを食わせてくれる少尉殿のような人を産み出した真国というものは、人並に好きなつもりでいます」
「それでよいと思うよ」
心からそう思った。
本当は人のまごころというものはそれだけで、故郷や家族を想うそれだけでよいはずだし、戦争などはしなくてよいはずなのだ。
が、狭い列島の資源と交易だけで、一億の民を食わせて行くことができないのもまた、真国の偽らざる現実であったから、軍靴はいつも弱者を踏みにじっていくのである。
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