第二章

 共通歴1942年12月……

 浅草六区は、戦地から遠く離れ、駘蕩たる雰囲気すらあった。

 国電の浅草駅から、浅草寺へと連なる大通りの両脇は活動写真の小屋や寄席が溢れかえっている街である。

 年の瀬ともなれば、正月に備えた買い物を終えた人々が一息いれようと娯楽をもとめてごった返しており、寒風以上に人いきれで暑さすら感じる。

 無論、そこかしこに神谷のような軍人の姿はあり、街角に立つ憲兵の姿も増えた。

 が、最前線の悲愴な空気からすれば、極楽、といってよいだろう。

 誰も彼もが、笑顔である。

 無理からぬことだ。

 真国は、海に、山に、連勝を続けていた。

 黒船来航以来、列強の圧迫に対して常に鬱積した思いを抱えていた日本の人々は、この勝利に熱狂をした。

 伽藍人形の力ばかりではない。

 この日のために訓練を続けていた空母機動部隊、最新鋭の空挺降下部隊、数々の特殊工作隊、そして大陸から引き抜かれた陸軍の精鋭たちが、米英に向かい襲い掛かったのである。

「開戦の下命あれば、一年はまず暴れてご覧にいれる」

 連合艦隊司令長官は、対米開戦の勝算を問われてそう答えたという。

 その言葉に虚偽はなかった、ということであろう。

(おそらくは……伽藍人形がなくても、ここまではやれたはずだ)

 そう神谷が考えるのは、謙遜ではない。

 どれだけ伽藍人形が強力であっても、所詮、単騎の戦闘力である。ひとつひとつの基地を占領し、後方の補給線を繋ぎ、巨大な軍艦を動かしてみせるのは、組織、軍隊のやることだ。

 勝ち続けているというのは、近代国家としての真国が、米英に対して成し遂げたことである。神谷の働きは、局地戦の勝利に過ぎない。

 この日があるを信じて鍛え続けて来た、真国という総体の成し遂げたことであろう。

(が……)

 それが意味する未来は、明るいものではない。

 我に備えあらば、敵にもまた備えあり。

 国力の総体が戦う、ということであるならば、人口と資源に優れた米英のほうが日本より有利であることは、自明である。

(そうなったとき、一年暴れたのちに訪れるものが明らかになったとき、自分は果たして戦いうるか……)

 そう考えてしまうのは、愛国心とは別の問題である。国を愛していればこそ、畏れ、考えねばならぬことである。

(否)

 六区に集う人々の笑顔を見よ。

 この人々を、紅蓮の業火に焼かせぬために、自分は立ったのだ。

(戦いうるか、ではない。戦わねばならぬのだ……)

「あなた」

 側にいる妻が、神谷の袖を引いた。

「ん」

「そんな怖い顔をしていては、回りの人が怖がります」

「私は、そんなに怖い顔をしていたか」

「はい」

 神谷の表情があまりにも生真面目すぎたのだろう。妻は、まだ幼さの残る顔で、ころころと笑って見せた。

「そうか。すまん、気をつける」

「いいえ、よいのです。ただ、せっかくお正月だけでも、お戻りになれたのですから」

「ああ」

 神谷の言葉が手短なのは、決して妻を嫌っているからではない。

 照れているのである。

 妻は、梨花といい、四つ年下である。

 肌は色白く、髪は夜のように黒くすべらかで、大きな瞳がくりくりと動く。背丈は神谷の胸ほどしかない。

 梨花の生まれは、日本ではない。

 真国に組み込まれた国のひとつの、王族である。梨花というのも、日本風の名で、本名は別にある。

 縁談を持ち込まれた時に、神谷の親族には反発する者も多かったが、新八郎はそのような狭い了見に、怒った。

『真国は、真実の国家である。それは、あらゆる人々を包括し、幸福にするものであろう。組み込まれた者が、平等に扱われぬのであれば、それは真国の大義をおろそかにすることで、許されぬことである』

 そういうことを、心底から思えるのが、神谷新八郎という人物であった。

 それは長い歴史の中にあっては、侵略者の独りよがりな正義であったかもしれないが、それでもなお、良き人であろうとしたことは、確かであるし、それだけで妻を愛していた、ということでもなかった。

 そういう新八郎の在り方を、梨花もまた受け入れてくれたし、戦地に出かける彼を見送るのは辛いことも多いはずなのに、こうして笑顔で迎えいれてくれるのは、心の強い女性なのだ、とわかったから、彼女を娶ったことは間違いではない、と思えた。

「今だけは、戦地のこともお国のことも忘れて、新八郎様にはわたくしをみていただければ、と思います」

「そうだな」

 そうできたら、どんなによいだろうか。


 *


「これでいいのか」

「はい」

「これでは戦地を忘れることにはならんぞ」

 梨花が見たい、といった活動写真は『ハワイ・マレー沖海戦』と言った。

 言うまでもなく、真国軍の対米開戦以降の活躍を描いたものである。

「あっ、そうですね」

 慌てた顔をしながら、しかし、妻はこれでいい、と言い張った。

「でも、私の夫になった方のご活躍を見て見たいのです」

「作り事だぞ」

「素敵です」

「……なにがだ」

「だって、作り事というのは神話や伝説なのですから、そういうものになった方を伴侶にもてたのは、素晴らしいことです」

「そうか」

 いずれ死ねば、軍神として祀られるのだから、いやでも神話に語られることになろう、とは言わなかった。

 そんなことはわかっていて、梨花も明るく振る舞っているのだ、とわかるからだ。

(少なくとも、私が戦地で果てたとしても、梨花は自分のことを覚えていてくれよう)

 そう思えるだけで、生きている張りがある、と思えた。


 *


 活動写真は満員だった。

 誰も彼もが、娯楽に飢えているのだ。

 無理もない。国民服礼が出て国民服ともんぺが奨励されるようになったのは二年前だが、今年に入ってからはその衣類すら切符がなければ買えなくなった。

 食糧では、米、味噌、醤油、塩、砂糖、酒、小麦粉、油が配給となっている。英雄の家、ということで梨花の生活には不自由がないと聞いているが、街の彩りがあせているのは、否定しようもない。

 そんな中で、銀幕に映し出される物語だけは、人を浮世の辛さから遠ざけてくれるものだ。

 映写機のカタカタという音がして、映画が始まる。

 この短い時の中には、戦争は現実ではなくて、虚構に変わるのだ。


 *


 映画は、よく取材していると思えた。

 海軍省の後援というものも、うなずける。

 平凡な少年が、愛国の魂を抱いて予科練に入り、晴れて操縦士となってハワイ攻撃に参加する。

 そして、そこでハワイ攻撃に参加した伽藍人形を目撃するのである。

(このあたりは、史実ではないな)

 神谷は苦笑した。

 ハワイに伽藍人形が上陸して掃討戦をやったのは事実だが、その時には空母の攻撃隊はすでに上空から引き上げた後である。少年兵が伽藍人形を見下ろして感嘆するような余裕があったはずもない。

 が、特撮は見事なものだった。

 ハワイはセットのはずだったが、実際に参加した神谷にも、一見して実景との区別はつかなかったし、主人公の発艦していく航空母艦も、艦型こそ異なるがよく調べてある、と思えた。

 伽藍人形は、中に人をいれたヌイグルミなのだろうが、よく動いて、敵基地を粉砕していく。

「あれに、新八郎様が乗っていたのですね」

 梨花は興奮を抑えきれぬようだった。

「おい、軍機だぞ」

 神谷は苦笑した。

「すいません、私」

「いい」

 映画館は万歳、の声で溢れていた。誰も聞いてはいないだろう。

 だが、神谷新八郎があの伽藍人形の操縦士であることは、極秘のことだった。それは、零戦の撃墜王たちが称えられるのとは、意味が違う。

(そうだ……あの伽藍人形に誰が乗っているかは、秘するべきものなのだ……)

 神谷の意識は深く、回想へと沈んでいった。

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