第一章「帝都の燃える日」②
登戸の駅を出て、担当の憲兵に身分証を見せると、後は長い坂道だった。
降るような蝉の声がなおさらに蒸し暑さを増し、大地は陽炎でゆらめいていたから、神谷は幾度となく制服の襟を緩めたい衝動に駆られたが、それをこらえた。
坂道を登り切ると、緑の平原に、いくつもの研究棟が建ち並んでいるのが見えた。それぞれの研究棟は鉄条網で封鎖されていて、それさえ見なければ総合大学のキャンパスのように見えただろう。
(平和な時代であれば、こんな所は、大学か、さもなければ活動写真の撮影所にでもすればいいんだ)
そんなことを神谷が考えてしまったのは、彼が反体制的な人間だから、ということではない。
登戸研究所が“忌まわしい研究”に手を染めているというのは、軍のある程度の機密に関わる人間には、周知のことであったからだ。
それは細菌兵器や毒ガスのような非人道的なものだともいうし、偽札のような謀略兵器だともいう。捕らえた捕虜を用いて生体実験をしている、という噂すらあった。
話半分で聞くにせよ、それが真国の名を辱める、畜生道の行いであることは間違いない、のである。
が、大陸から戻った神谷に、海軍、それも最上層部から登戸行きが命じられたのだから、もとより拒否できるような筋合いではない。
この当時――
真国の海軍と陸軍は、犬猿の仲にあった。
これは、日本に限った話ではない。
軍隊というのは、官僚組織である。
その本質は予算、人員、資材の取り合いだ。
軍事予算が10あった時に、海軍と陸軍で1対1で分けていたものを、海軍が4、陸軍が6、と配分されてしまえば、それはただ購入できる兵器の数が減るということではない。
士官の出世先のポストが二割減る、ということなのだ。
これは、困る。
一般企業でいえば、5人までが部長に出世できるものが、来年からは4人になり、部長になれなかったものは会社から出て行ってくれ、ということになるのである。なぜなら、現在のポストも二割減ってしまうからだ。
そして、一度予算の規模を落とされてしまえば、それは組織自体の発言力の低下につながる。国家という巨大なシステムの中で、有用であるから予算が得られるのだ、という考え方をすれば、規模の小さい部署はより小さくていい、ということになりかねない。
四方を海に囲まれた真国において、海軍が要であることは、言うまでもない。
大陸や半島、東南アジアから運ばれてくる資源がなければ、戦争どころか日常生活もままならぬのが、現実だからである。そのシーレーンを守る海軍は、かつての戦争でも赫々たる武勲を挙げてきた。
が、戦争の主体が大陸での戦争に移るにつれて、その主役は陸軍へと移行しているのが現実である。海軍は神谷がそうしているように、航空隊を派遣したり、沿岸部に支援砲撃を加えたりはしているが、総体として主役なのが陸軍であるのは間違いない。
ゆくゆくは大陸を平定した後に、対ソ連を睨んでいけば、ますます陸軍の重要度は増すであろう。海軍などは、陸軍を大陸に輸送するための輸送船と、その護衛をやればいい、ということになる。
そうなれば、戦艦や空母などは不要のもの、ということにもなろう。海軍と陸軍の予算が、3対7にも、2対8にもなりかねぬ、ということだ。
それでは困るから、現在の海軍上層部では南進論、そして対米戦を意識した言論が増えている、と聞く。神谷自身も同僚たちと幾度も議論を重ねた。
大陸での戦争で、敵を支援しているのは米国、そして欧州諸国である。その補給線を叩くためには、東南アジアを押さえて、真国が必要とする資源を手にいれねばならない。
そのためには、太平洋を挟んだ米国との衝突は必須である。
故に、海軍が今後の戦争の要となるはずだ、というロジックだ。
それは理屈として正しい。
が、根本のところで、組織というものを維持するために構築された優等生の理屈で、結論ありきなのもまた事実である。それは、個々の局地戦での“正しい”理屈を積み重ねて、戦線を大陸全土に拡大している陸軍も、そうであろう。
根本的には、自己の組織の優越性、みずからのポストと予算というものにしか関心がない動きをしていて、それが真国を蝕んでいるのではないか――
それが神谷の偽らざる前線での実感であった。
そんなもののために、数多の戦友たちが空に散ったのでは、哀しいというものではない。
許せぬことである。
だからこそ――
海軍と陸軍がなにがしかの共同研究を行う、という話には、興味を惹かれた。
小銃の弾丸、戦闘機のエンジン、そうしたものですら、海軍と陸軍では違う。しまいには“大尉”を陸軍では“たいい”と読むが、海軍では“だいい”と読み、陸軍では“大尉殿”だが、海軍では“大尉”と敬称がつかない。“自分”という一人称、“あります”という語尾も陸軍だけである。海軍では“私”“です”だ。
そんな滑稽な言葉の違いすらある海軍と陸軍が、秘密作戦とはいえ、共同歩調を取るというのである。
そこに神谷が興味を惹かれるものがあった。
だから、神谷自身もまんざら嫌々、灼熱の坂道を登っているわけではない。飛行機乗りを志したときから、人一倍の好奇心はある。
なにより自分が歴史の中で何がしかの有用な役割を持ち得るのではないか、国家のために尽くせるのではないか、という青年らしい理想主義もあった。
彼が登戸研究所“第零実験室”の門をくぐったのは、そのような理由からである。
*
ひどく、涼しい部屋だった。
氷室か、と思うほどである。あるいは、灼熱の飛行場から、厳寒の大気上層に急上昇した時の寒さ。
「エア・コンというものだ」
「は?」
大佐の階級章を付けた男は、そう言って、笑った。
奇妙な男だった。
足が長く、背が高い。
真国の人間というよりは、映画の中に登場する米国人のようなプロポーションをしている。そのくせ、肌の色や髪の色は、神谷と同じものなのである。よほど、栄養状態のよい育ちをしているのだろう。華族か、富豪の家に生まれて、何不自由なく殿様のような暮らしをした人物なのだ、と神谷は察しを付けた。いずれ陸軍士官学校のエリートということになろう。
そのくせ、不思議なほど印象を残さない顔立ちをしている。美形といえば美形であるし、平凡といえば平凡だ。前髪が長く、鼻から上に蔭がかかったように見える。群衆の中に埋没する顔と言えばそうだが、そのくせ、奇妙な魅力があって、その上でどのような顔立ちか説明出来ないのである。
(諜報機関、特務の人間というのは、こういう顔をしているのか?)
そうも、思った。
「ある種のガスが冷媒として大気から熱を奪う原理を用いて、部屋を冷やしている。この時代のアメリカでは、工場の機械を冷やすのに使っているらしいが……ま、真夏の日本にはこれがないと、やれんな」
この時代、という言い方が奇妙だ、と思ったが、神谷が聞き返したのは、別のことだった。
「これも新兵器ということですか」
「ン……新兵器、ま、そうだな。今は、俺の道楽だ。かけてくれ、神谷少尉」
「ハ……」
戸惑いながらも、神谷は勧められたソファに掛けた。
これまた、革張りの良いものである。全身の体重を安定して支え、といって沈み込み過ぎるということがない。舶来品であろうか。
とても陸軍の秘密施設にあるようなものとは思えなかった。
「贅沢が過ぎると思うかね?」
“大佐”はそう言った。こちらの心中を正確に見透かしている、洞察力のある瞳をしていた。
が、言葉に棘はない。
「あ、いえ」
「いい。まあそう思うだろうな。だがまあ、それで俺の研究の能率が落ちても困るのでな……参謀本部の方々には悪いが、好きにやらせてもらっている」
従卒が、麦茶の入ったガラスの器を神谷の前に置いた。
氷が、浮かんでいる。
驚くべき贅沢だった。
(日本人全員が、このような涼やかな部屋に住み、氷の入った麦茶を飲めるような生活ができれば、そこはまさに王道楽土だな……)
そう思いながら、神谷は無礼にならない程度に麦茶に口をつけた。
「俺のことは、大佐と呼んでくれ。ああ、陸軍式でな」
「お名前は?」
「いろいろあってな。特務のやり方だと思ってくれ」
麦茶のグラスごしに、“大佐”の特徴のない瞳が神谷を見ていた。
「少佐でも中佐でもいけない。アフレコの時に混乱する。やはり特務機関のリーダーというのは、大佐だ。“だいさ”もその意味では落第だな」
アフレコ、という言葉はわからなかったが、神谷は何か陸軍の符牒なのだろう、と理解した。
「大陸での戦果は見させてもらった。確かに、参謀本部が君を推薦するだけのことはある」
「運が良かった、と理解しています」
「かもしれん」
“大佐”は神谷の謙遜を否定しなかった。
「が、愛国心がなければ、体当たり攻撃などは出来んことだ。そうだろ?」
「それは、そうです。私は真国のために命を投げ出すために軍人になり、飛行機に乗っています」
「操縦の技倆が君と同等のパイロットは、他にもいる。陸軍にも――だが、愛国心と勇気において、君は比類ない、と聞いた」
「お恥ずかしい――ですが、愛国の志は、人に劣るものではないと自負しています」
本当だった。
神谷には、そうしなければならない理由がある。
この国を愛し、この国のために戦わねばならぬ故がある。
そして、自然を、風土を、人の心を愛している。
真実である。
真実であればこそそれを恥じることはないし、だからこそ、戦友のため、国のために、敵機に向かって体当たり攻撃をすることもできた。
激突の寸前に体が機体から投げ出され、パラシュートで脱出出来たのは、結果論である。
「決死の覚悟、か」
「そのつもりでおります」
戦場に出る前は、誰しもが決死の覚悟を口にする。生命を国に捧げると誓う。
が、現実に銃弾が肉に食い込み、血が噴き出し、戦友が砲弾でバラバラになるのを見れば、叫ぶのは母の名、恋人の名で、生きていたい、と願うものである。
そんな戦場で、愛国の志を貫ける、というのは、なまじのことではない。
神谷新八郎は、それをやった。
だからこそ彼の名は軍神として真国に知れ渡ったし、その勇気は青少年の模範、軍人の鑑、と称えられたのである。
生命を軽視しているつもりは、神谷にはない。
それは『葉隠』のような武士道を知らぬ人間の世迷い言である、と思う。
命は、価値あるものである。
その生命に価値があればこそ、輝いていればこそ、国家、理想、大義、そうしたものに捧げる意味があるのである。価値のない生き方をするものが、価値のない生命を捧げるのは、侮辱であろう。
決死とは、輝いた生き方をした者が、最後まで生にしがみついてこそ、意義あるものだ。
「君にとって、国とはなんだ」
「国体は、すべてです。この真国の山河であり、伝統であり、主君であり、そして我が家族と、家族を産んでくれた血のつながり、ふるさとです。それを社稷と呼ぶこともできましょう。私は、そのために生命を捧げることが使命だと思っています」
教科書通りの言葉使いではあったが、神谷は本気だった。
狂信、というのとは少し違う。
自分の弟や妹を慈しむように、駅ですれ違っただけの子供の幸福を祈ることができる。真国に住まう人々に対しても、そうできる。
そのような想像力のある青年であった。繊細さが、勇気につながっているのである。
「よろしい」
“大佐”は破顔し、立ちあがった。
「そんな君だからこそ、見せたい機体がある。着いてきてくれ」
(機体……? テストパイロットということか? だが……滑走路のようなものは見なかったが……?)
戸惑いながらも、神谷は続いて立ちあがった。
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