第一章「帝都の燃える日」①

「あの」

 鞠を手にした神谷を、質素な国民服姿の少年が見上げていた。年の頃は、十五、六というところだろうか。その足下には、まだ五つほどの少女が、神谷を恐れるようにして隠れている。

「神谷新八郎少尉どの、でありますか」

 少年の声は、上気していた。

 憧れの対象、崇拝の相手を見つけた者の声音である。

「そうだが、君は?」

「川辺賢一と申します! これは、妹の和子です」

「ああ」

 神谷は賢一と名乗った少年の足下にいた少女に鞠を差し出した。少女は、ひったくるようにして鞠を取ると、賢一少年の影に、また隠れる。

「和子! 神谷少尉に無礼だろ!」

「構わんよ」

 神谷はつとめて笑顔を作った。

 軍人である自分は、少年にとっては憧れの的であろうが、幼い少女にとっては、怖いものであろう。鍛えられた筋肉もそうであるし、大陸でまとわりついた血と硝煙の臭いも、そうだ。

「ありがとうございます!」

 賢一少年は直立不動の姿勢を取った。

「雑誌で、少尉殿の武勇伝を読みました! 敵の新型爆撃機を、体当たりで撃墜されたとか!」

「ああ」

 神谷新八郎は戦闘機乗りである。

 大陸では、米国から派遣された“義勇軍”の戦闘機を、七機撃墜した。

 真国軍では列強のように“エース”という呼び方をしない。個人の武勇に逸ることは手柄争いを生み、和を乱して戦陣を危うくする、という考えからである。そういう、いくさをする。

 が、客観的に見れば神谷がエース、撃墜王であることは間違いがなくて、そのことは彼を、少年たちの憧れの的とした。

「あれは、運が良かった」

「運で体当たり攻撃など、出来るものではないでしょう!?」

「いいや」

 神谷は本心から首を横に振った。

「内地でどう書かれているかは知らないがね。あの時は、中本と神田というふたりの戦友がいて、彼らが援護をしてくれたおかげだ」

「おふたりは」

「空に帰ったよ」

 戦闘機乗りの寿命は短く、遺骨が見つかることは稀だ。

 大陸の空が、戦友たちの墓だった。その魂は、蒼穹に眠っていると信じたい。

「戦争をしているのだから、人は死ぬ」

 じわ、と泣きそうになっている少年の頭を、神谷は優しく撫でてやった。

「案ずるな。中本も神田も、真国のため、そして君のような少年少女を生かすために死んだのだ」

 それは“物語”だ。

 本当にそうなのかどうかは、わからぬ。

 だが、そのような“物語”を、神谷も、真国も必要としていた。おそらくは、中本や神田や、数千の死者たちの遺族も。

 そして、神谷新八郎という男は、心からその“物語”を信じる優しい男である。

 その優しさが、いずれ彼を破滅に導くとしても――。


 *


 吊り革の振動が、均一なリズムを伝えてくる。

 ピークタイムを過ぎて、ロング・シートにはそれなりにまばらな空きがあったが、神谷は吊り革に掴まることを選んだ。軍人は、民間人の前で楽をしてはならない、という信念がある。そうすることが強大な武力を扱うものの自制になるし、また、日々の鍛錬にもなろう、と考えているからだ。

 窓の外を流れて行く風景は、帝都の雑然としたものから、郊外の緑溢れるものへと切り替わる。電信柱が心地よい律動とともに現れては消えて行く。

 小母急(おばきゅう)電鉄は、新宿から箱根、小田原へと通じる、帝都の南の通勤路線である。

 なぜ、小母急というのかは、神谷も知らない。

 母の名の通り、曲線を主体にしたやわらかいラインの車体にはヨーロッパ的なモダンさがあって、あたかも“オバケのようだ”と沿線の人々に愛されてきた。

 が、それも大陸での戦争が十年を超えようとする今となっては、戦時型と呼ばれる簡素で箱型のひどく殺風景なものに変わってしまって、モダンさの欠片のようなものは、わずかな抵抗のように磨き上げられた椅子の肘掛けにしか、ない。

 吊り革の革も鮫の革である。皮革は、軍用が最優先なのだ。あからさまに鋼材を減らした車体は、小母急自慢の直線に出るとひどく揺れて、これは朝夕の通勤時間などはたまったものではないだろう、と神谷に想像させた。

「次は、登戸、のぼりと……」

 目的の駅が近づいてくる。車内の乗客は、誰も動かない。

 当然だ。

 登戸にあるのは陸軍の秘密研究所で、無許可で降りるものは憲兵の誰何を受け、事によっては投獄されるのだから……。

 神谷ひとりだけが、網棚の鞄を降ろして、降りる準備を始めた時も、車内の人々はそれに目を向けようとはしなかった。海軍の軍服を着た神谷が陸軍の研究所に向かうことは奇異であり、現在の帝都で、軍人の奇異な行動に好奇の視線を向けることは身の破滅を意味するからである。

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