第一章

 共通歴1941年の帝都は、ひどく暑かった。

 大陸での戦争が始まってから、もう十年になる。尋常小学校に通う子供たちは、戦争していない真国を、知らない。

 そういう、夏である。

 駅のプラットホームを、「対米開戦近し」「討つべし暴虐なる米英」と書かれた新聞の切れ端が流れて、柱にひっかかってバタバタと揺れている。

 その向こうには、封切りされたばかりの米国の漫画映画のポスターが輝いている。マントをつけた超人が活躍する漫画映画や、人好きのする鼠の走り回る漫画映画は、皆大好きだ。どこへ行っても無許諾のコピー商品を見かける。その気持ちと、新聞の見出しに矛盾があると思う者は、すくない。

(この国は、ずっとこうだ)

 神谷新八郎は、そうひとりごちた。

 太平洋の彼方にあるアメリカという国に憧れ、愛し、それでいながら憎んでいる。

 海軍の白い軍服を纏った神谷自身も、そうである。

 航空隊の一員として、合衆国の横暴は許してはならん、と思っている。アジアを植民地化しようとするその野心を阻むのは、自分たちに与えられた天命だと感じている。

 が、同時に。

 漫画映画のポスターを見ながら、次の休暇には妻を連れて行ってやろうか、という自分もいる。対米開戦が不可避なら、早い方がよいだろう、とも思う。自分はまた、戦地へ行く。そうなる前に、妻には美しいもの、楽しいものを見せてやりたい。それが、産まれてくる子への慰めともなろう。

 矛盾しているが、矛盾していない。

 ジャズも、映画も、クリームソーダも、アメリカから来るものは、素敵だ。

 黒船が下田沖に来た時から、日本人はそう思っている。

(そもそも飛行機も軍艦も、連中が作ったものだ)

 そういう事実は、ある。

 維新以来、あるいはその前から日本が列強に追いつき追い越せと取り込んできたテクノロジーは皆、他ならぬ列強の産み出したものだ。

(米英と戦うために、米英の技術を用いる)

 無論、和魂洋才、という言葉は、神谷も心得ていることである。

 西洋の作り出した魂の通わぬ技術に、大和魂を宿らせれば、すなわち勝つ、ということだ。

 それが間違いである、と神谷は思わぬ。

 事実、維新以来の戦いをそうして勝ってきたという自負は、真国軍人ならば持ち合わせていることである。

 資源に乏しく、人口少なく、技術力において列強に劣る真国が勝利できたのは、科学と精神の正しい融合の結果であろう。

 が。

 足下に転がってきた鞠を拾い上げながら、神谷は想う。

 この鞠が風に吹かれて飛んできたのは、物理法則によるものだ。

 風速が同じであり、重力が同じであり、湿度が同じであり、緯度経度とが同様と仮定するならば、地球上のどこであっても、鞠はほぼ同じような振る舞いをするであろう。

 無論、すべての分子運動が決定論的に振る舞う、とは言えない。同様の系であっても、小さな誤差がズレを呼び、実際には異なる結果を生む、という反論もあろう。しかし、それすらも巨視的に見れば確率論の誤差の中に収束可能なものだ、ともいえる。

 つまり、だ。

 鞠がどう飛ぶかに、精神論の関わる余地はない、ということだ。

 そう考えるのが、飛行機乗りというものである。

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