軍務への希望


 オーストリア皇帝は、久々に伺候してきた弟、カール大公を、しげしげ眺めた。

 ……随分やつれたな。

 妃のヘンリエッテが亡くなって、そろそろ1年になろうとしている。未だ、弟の心の傷は、癒えていないようだ。


「テシェンに引きこもってばかりいないで、もっと頻繁に、こちらへ顔を出したらどうだ?」

 皇帝は言った。



 弟カールは、子どものいない伯母夫婦の養子となった。テシェンは、養父母の領土だったものを、カールが継承したものだ。

 そのせいか、皇帝のすぐ下のこの弟は、なにかと、長男である皇帝に遠慮していた。

 それが、皇帝には歯がゆい。


 1年前、妃、ヘンリエッテが亡くなった。ヘンリエッテは、プロテスタントだった。厳格なカトリックであるハプスブルク家が、初めて迎えた、異教の配偶者だ。

 それを、快く思わない者は多かった。

 彼女の死に臨み、カプチーナ礼拝堂(ハプスブルク家の墓所)へ埋葬を反対する声が出た。皇帝は、即座に、彼女を受け容れるよう命じた。



「兄上には、感謝しています」

カールは微笑んだ。無理に笑っているようで、かえって、痛々しい。


 何を水臭いことを言っているのだと、皇帝は思った。

マリアお前の長女も、年頃だろう? ウィーンにいた方が、何かと好都合ではないか」


「いいえ。あの子は、14歳になったばかりです。まだまだ、そのようなことは……」

カールは、ぶるっと身震いした。

「もう少し、手元に置いておきたいのです」


「優しい子に育ったな」

慈愛を込めて、皇帝は言った。

「ありがとうございます。今年は、長男のアルブレヒトも、大佐に任命頂き……おかげで、素晴らしい軍務のスタートを切ることができました」

「後は、本人の努力次第だ」

「はい。兄上皇帝のお言葉、しかと、息子に伝えます」


 アルブレヒトの話になると、カールの口元に、微かな笑みが浮かんだ。

 自慢の息子なのだ。

 父と同じ、軍務への道を志している。


「軍務で思い出しました。今日は、兄上に、お願いがあって参ったのです」

「お前が? 珍しいな」

 意外に思うと同時に、皇帝は、嬉しかった。

「言ってみよ」

「はい。フランツのことです」

「フランツ?」


 思いがけない名前が、弟カールの口からこぼれた。確かにカール大公は、皇帝の孫のフランツに、軍務の手ほどきなどをしていたが……。



 皇帝の孫、ライヒシュタット公フランツは、12歳の時から、軍務を志していた。本来なら、司祭にしたかった。しかし、祖父でありながら同時に育ての父として皇帝は、敢えて本人の意志を尊重した。

 だが、フランツは、ナポレオンの息子だ。軍を預けるには、慎重であるべきだった。


 彼の昇進は、他の皇族に比べ、桁外れに遅かった。たとえば、6歳年下のカールの息子皇帝の甥アルブレヒトは、今年大佐に任命したが、フランツは去年やっと、大尉になったばかりだった。しかもこれが、初めての昇進だった。また、皇族男子なら誰にでも与えられる、金羊毛勲章ゴールデン・フリースも授けていない。


 しかしそれも限界だった。本人の強い希望で実務訓練が始まり、それが終われば、いずれかの連隊に所属させなければならない。



 ためらいがちに、カールが口を開く。

「皇帝は、彼を、どこかの駐屯地へ派遣するおつもりだと、聞きました」

「皇族が軍務を始めるのは、プラハからが、定石だな」

カールの顔は、憂いに沈んでいた。

「フランツには、軍務の才能があります。語弊を恐れずに申し上げれば、さすがは、ナポレオンの息子だ。ですが、いえ、だからこそ、彼には、重大な欠陥があります」

「重大な欠陥だと?」

皇帝は眉を顰めた。


 カールは、皇帝をまっすぐ見つめ言い放った。

「彼は、フランスとは、戦えない」


「いや」

 即座に皇帝は否定した。

 孫のことなら、よく知っている。

「フランツは、戦うであろう。あの子は、第二のオイゲン公を目指すと言っている。この国オーストリアを守るためなら、全世界へ剣を向けるであろう」


 オイゲン公は、元フランスの貴族である。オーストリア軍に入り、最終的には、母国フランス軍とも戦った。


「ですが、兄上。フランツは、父親ナポレオンに心酔しております。そこが、オイゲン公と、違うところです」

 少し間を開け、だが毅然として、カールは続けた。

「父親に対する批判と反感の中で育ったことが、彼に一層の、ナポレオンに対する親愛と敬意を育んでしまったのです」


皇帝は気色ばんだ。

「あの子に対する教育が、間違っていたというのか?」


「いいえ」

強くカールは否定した。

「他に方法はありませんでした。ただ……子どもの頃から、フランツは、つよい子でした。彼は、フランスの血を、捨てることをしなかった。もう片方の血筋母方オーストリアに己を委ねてしまえば、楽に生きられることを知りながら……。融通の効かない、頑固な、そして、誇り高き子です」


「誇りは、王家にとって、何より、大事だ」


「兄上。私は、思うのです。フランツ……この宮廷で、誰より優れた知性を持つ、若い世代プリンス……そのフランツが、そこまで慕うナポレオンとは、いったい、何者だったのだろう、と」

「ナポレオンはナポレオンだ。ナポレオン以上の、何者でもない」

「ですが、フランツがあれだけ心酔しているのです。案外ナポレオンは、傑出した人物であったのかもしれません」


「何をバカな!」

即座に大声が否定した。

「あれは、世界の調和を乱した、反逆者だ。戦場でしか生きられない愚か者だ。彼の名の下に、何百万もの人間が死んだ。兵士だけではない。皇族、貴族、そして、罪なき民衆も」

皇帝は、立ち上がった。歩き出そうとして、ようやくのところで、踏みとどまった。


「彼は、戦地でしか生きられない男でした」

カールが言うと、皇帝は、目を瞋らせた。

「あの男は、まともではない。アウステルリッツの戦いの後、焼け落ちた風車の下で、儂は、痛感した。あれは、まさしく、『陋屋から出てきた男』よ」(※「カール大公の恋」参照下さい)


 どさりと王座に腰を下ろす。


「彼は、大変な人たらしでした」

カールがつぶやく。



 ……「今日は話せてよかった。やはり貴殿は素晴らしい。まさに、有徳の男だな」

 1805年、シェーンブルン宮殿での、ナポレオンとの会見が、カールの脳裏に甦った。

 ナポレオンは、魅力的な男だった。軍人としても、申し分のない、活力に満ちていた。

 ……しかし、あのままナポレオンの掌中に陥っていたら。

 ……自分は、臣下に乗せられて、皇帝を裏切っていたかもしれない。

 少なくとも、その隙を、カールは、兄の皇帝に不満を抱く者たちに、晒してしまったろう。



「時を経て、その引力が、自分の息子を籠絡するとは。ナポレオンも、さぞや本望でしょう。ですが、それが、フランツを苦しめることになっている」

「フランツが、あの男の血を引いているのだということは、正直、耐え難い。だが、あの子は、儂の孫だ。オーストリアの公爵なのだ」

「彼は、大公ではありません」

「それは……」

苦しそうに、皇帝は唸った。


 フランツは、マリー・ルイーゼ皇帝の娘を介して、ハプスブルク家と繋がっている。女系のプリンスは、大公を名乗ることはできない。


 さらにカールは、膝を詰めた。

「フランツは、独り立ちを望んでいます。ですから、軍務における彼の指導には、細心の注意を払う必要があります。本来なら、私自らが、彼を教え導きたいくらいだ。でも、私はすでに、軍を退いてしまった……」


 それが、自分への気遣いだということくらい、兄の皇帝は見抜いていた。

 弟カールが、自分より、遥かに優れた能力を持っていることも。


 1809年、アスペルンでカールは、ナポレオンの不敗神話に傷をつけた。その後、ヴァグラムでの負けを経て、ツナイム(現チェコ、ズデーテン地方)で彼は、ナポレオンのフランス軍と休戦協定を結んだ。

 あのまま戦闘を続けていれば、オーストリアの傷は広がるばかりだったろう。今に思えば、カールの判断は正しかったとわかる。

 しかし、これは、許可を得ずにカールが単独で結んだ協定だった。現場の判断とは、そうしたものだ。迅速さが鍵となる。わかってはいても皇帝は、カールを総司令官から外さざるを得なかった。カールは軍を退き、それどころか、数年後、全ての役職からも身を引いてしまった。

 兄である自分への完全な忠誠を示すために、有能な弟カールは、自ら退いた。


 あれは、弟から自分への、稀有な真心の発露だったと皇帝は思う。ツナイムの戦場には、ナポレオンもいた。休戦協定を手土産に、麾下の軍を率い、弟はそのままナポレオンの懐に飛び込むことだってできたのだ。







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