レディー・キラーの贖罪



 ナイペルクは、できる限り、ウィーンのプリンスと連絡を取った。

 前の結婚で得た長男アルフレッドと次男フェルディナンドを、パルマとの連絡役にし、頻繁に手紙を届けさせた。

 彼の三男グスタフは、プリンスと同じ年だった。それで、プリンスの同年代の遊び相手として、ウィーンに残した。



 いつだったか。

 家庭教師の厳しい教育に音を上げ、プリンスが、フランス語を学ぶのがいやになった、と言ってきたことがあった。


 長らくウィーンで暮らすうちに、彼のフランス語は、次第に怪しくなっていった。

 話す方はまだいい。

 だが、書くのは、苦手だという。


 ナイペルクは、返事を書いた。


 ……ナポレオンがフランスを治めるのに使った、栄光ある言葉。そして、彼が、フランス軍を勝利に導いた号令は、何語で発せられましたか?


 賢いプリンスは、それだけで、自分には、フランス語を学ぶ理由があることを、悟ったようだった。

 家庭教師からは、頑固な彼に、勉強させることに成功したと、賞賛の手紙が送られてきた。



 だが、こんなことで、ナイペルクの罪悪感は消えはしなかった。

 ……自分とマリー・ルイーゼとの結婚は、人を、不幸にばかりしてきた。


 彼は、幼いプリンスから、母を奪った。

 妊娠、そして流産を繰り返し、マリー・ルイーゼは、5歳の別れからの12年間で、5回しか、ウィーンの息子の元を訪れていない。


 これは、いかにも少なすぎた。パルマとウィーンは、早馬なら、5~6時間ほどで行ける距離なのに。

 毎回、別れの時、母を見送るプリンスの泣き顔が、ナイペルクの胸に、辛く蘇る。


 ……いかなる手段を講じても構わない。


 皇帝命令だと思っていたそれは、ただの勘違いだった。ただの勘違いで、彼の先妻テレサは死に、マリー・ルイーゼは……、

 ……ナポレオンを裏切った。


 確かに、彼女とナイペルクの結婚は、ナポレオンの死んだ後である。ほんの、3ヶ月後。

 だから、重婚罪には当たらない。


 しかし、そんなのは、言い訳に過ぎない。


 最初の子ども、アルベルティーナが生まれたのは、ナポレオンの死の、4年も前のことだ。

 次の息子、ヴィルヘルムが生まれたのも、ナポレオンの生存中のことだった。ナポレオンが死んだのは、彼の誕生の、2年後だった。


 マリー・ルイーゼがパルマで産んだ子達は、母と父のことを、「シニョーラ」「シニョール」と呼ぶ。

 両親の結びつきは、人に知られてはならない秘密の関係だったからだ。


 それは、ナポレオンが死んでもかわらなかった。

 なぜなら、貴賤婚だから。

 皇女は、領土を持たぬ者との結婚は許されていない。



 下の男の子出産後も、マリー・ルイーゼは、妊娠を繰り返した、だが、出産に至ることはなかった。全て、流産や死産に終わった。


 4人目の女児の死産は、ナポレオンが亡くなった3ヶ月後だ。奇しくもこの日は、ナポレオンの誕生日でもあった。


 ……もはや、呪われているとしか思えない。


 相次ぐ流産や死産に、ナイペルクは怯えた。趣味に己を埋没させることのできる妻とは違い、次第に、心も体も、弱っていった。








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