レディー・キラーの後悔


◆◇



 ナイペルクと、オーストリア皇女、マリー・ルイーゼとの出会いは、1814年。パリが陥落し、彼女が幼い息子を連れて、ウィーンに帰ってきた時のことだ。



 マリー・ルイーゼは、ナポレオン不在の間、フランスの摂政を務めていた。夫のいないパリで、迫りくる連合軍の脅威(その中には、彼女の母国、オーストリアも入っていた)に怯えていた。


 長らく続いた緊張状態のせいで、彼女はウィーンへ帰ってきてからも、体調不良を訴えていた。喀血もあったという。

 静養の必要があった。



 だが、当時、ナポレオンはまだ、エルバ島にいた。彼は、妻子が自分の元へ来ることを望んだ。マリー・ルイーゼもまた、夫の元へ駆けつけようとしたことがあった。まだフランスで、臨時政府の監視下にいた頃のことだ。女官長が諫め、彼女は諦めたが、夫婦の間のことは、余人には窺い知れない。

 既に彼女は、フランスの皇妃ではなくなっていた。だが、依然として、ナポレオンの妻だった。



 父の皇帝は、静かな温泉地での、娘の静養を認めた。一方で、ナポレオンの一味にさらわれるのではないかと、危惧した。

 彼は、娘に護衛官をつけることにした。




 「わが娘マリー・ルイーゼを監視し、細かな言動に至るまで報告せよ。ナポレオンと接触させてはならない。その為なら、いかなる手段を講じてもかまわない」


 ナイペルクは、エクス温泉でのマリー・ルイーゼの警護を命じられた。その際、彼は、こう書かれた、フランツ帝直筆の手紙を受け取った。




 ナイペルクは、勇敢なことで、定評があった。

 オランダでの戦いの際、彼は、砦に密書を届ける役を担った。だが、フランス兵に発見され、サーベルで切りつけられた。顔からばっさりとやられ、倒れた。


 死んだと思われていたのだが、なんとか、生き延びた。

 だが、右目は失われてしまった。以降、右の目は、眼帯で覆われている。


 後日、人質交換の形で、アダム・ナイペルクは、オーストリアに帰国した。

 その、勇猛果敢さが、皇帝の目に止まっての、抜擢だった。




 ……いかなる手段を講じても構わない。

 皇帝からの親書の中のこの一節が、ナイペルクは、気になった。

 ……まさか。まさかな。


 念の為、彼は、上官のシュワルツェンベルク元帥に相談してみた。


「ううむ」

上官は唸った。

「すると君は、畏れ多くも、皇女で、元フランス皇妃に手を出してもいいという許可を賜ったわけか。父君である皇帝陛下から」


 ズバリと、シュワルツェンベルク上官は指摘した。それから、心配そうに、聞いた。

「……彼女は、君のタイプか?」


「私はかつて、皇女様にお会いしたことがあります。けれど皇女様は、私のことなど、まるで気が付かれませんでした」



 それは、ナポレオンが、諸国の王に忠誠を誓わせる為に呼び集めた、ドレスデンでの会合の折だった。

 ナイペルクは、当時、フランス皇妃だったマリー・ルイーゼと、確かに顔を合わせたのだ。


 しかし彼女は、片目の将軍のことなど、見向きもしなかった……。



「なるほど。彼女は、君のタイプではないというわけだな」

 万事がさつな上官シュワルツェンベルクが、珍しくも的確に、部下の言外の気持ちを汲み取った。




 このような微妙な問題は自分の手には負えないと、賢くも、シュワルツェンベルクは判断した。彼は、極秘で、外相のメッテルニヒに相談した。


「やっぱり、そういうことなんじゃないのか?」

メッテルニヒは言い、シュワルツェンベルクは頷いた。


 外相との密談内容を、シュワルツェンベルクは、部下ナイペルクに伝えた。




 勇敢な武官でありながら、文学芸術にたしなみのあるナイペルクは、女性に、苦労はしなかった。

 女殺しレディー・キラーとの異名さえあった。


 当時彼は、魅力的なブルネット、ラモンディーニ伯爵夫人テレサを、半ば夫から奪い取る形で、自分のものにしていた。

 彼女を孕ませては、次々と子を生ませた。やがて、伯爵が死んだので、彼女と結婚した。


 ブロンドで肌が白く、女性にしては背の高いマリー・ルイーゼは、彼の好みのタイプではなかった。ナイペルクは、小柄でオリーブ色の肌を持つ、濃い色の髪の女性が好みだったのだ。


 しかし、皇帝から親書を受け取り、ナイペルクは、即座にテレサと別れた。


 ……元フランス皇妃は、6ヶ月以内に、よ。賭けてもいい。

 別離に際しての、彼の言葉だ。

 

 離婚の、心労からであろうか。テレサは、その年のうちに亡くなっている。



 果たして、ナイペルクは首尾よく、マリー・ルイーゼの心を掴んだ。

 2年後、パルマに領土を与えられた彼女について、イタリアへ下った。



 だが。

 ナポレオンの妻マリー・ルイーゼを、ことは、皇帝の命令などではなかった。


 皇帝はただ、娘を、ナポレオンの手から守って欲しかっただけだった。

 そしてもし、娘が、ナポレオンの元へ走ろうとしたら……、

 ……力ずくででもいいから、止めて欲しい。


 「いかなる手段を用いても」とは、そういう意味だったのだ。

 畏れ多くも、皇女に、力を振るうことを許す、という……。



 ナイペルクがそのことに気がついたのは、マリー・ルイーゼと共にパルマへ下って2年後、ウィーンへの、初めての里帰りの供をした時だった。


 皇帝も皇妃も、ナイペルクに対して、特別な扱いをしなかった。

 彼は、パルマ大公女の一介の従者、せいぜい、パルマ支配国の執政官に過ぎなかった。


 ……いかなる手段を講じても構わない。

 親書は決して、ナイペルクやシュワルツェンベルク、メッテルニヒらが考えたような意味ではなかった。


 ……それを自分は、まるで、遊戯ゲームのように……。

 ……女殺しレディー・キラーの異名に対する、勲章のように……。


 前の年、マリー・ルイーゼは、彼との間に、アルベルティーナを産んでいた。

 それで、里帰りが遅れた。


 パルマ領有は、彼女一代限りのことだった。ナポレオンの息子は、母についてイタリアへ下ることを、許されなかった。


 ウィーンを出た時、5歳になったばかりの子どもは、7歳になっていた。

 マリー・ルイーゼのウィーン滞在中、彼は片時も、母のそばを離れなかった。


 ナポレオンの息子は、軍人が好きだった。ナイペルクの軍服に、熱い眼差しを注いだ。

 ナイペルクの胸は、罪悪感でいっぱいになった。


 ナイペルクは、彼を、狩りに連れ出した。

 ナポレオンの息子……7歳のフランツにとって、生まれて初めての狩りだった。


 大きな銃声に少しも動じないフランツに、同行した家庭教師達は、驚いていた。同時に、さすがナポレオンの息子だと、感嘆した。

 仕留めたのは、うさぎやうずらなど、小さいものばかりだった。

 それでも、フランツは、誇らしげだった。



 マリー・ルイーゼがパルマへ帰る際、彼は、ひどく泣いた。息が詰まりそうになって、見ていて心配になるくらいだった。


 いつまでも追い掛けてくる幼い子どもの泣き声は、母親マリー・ルイーゼよりも、ナイペルクの胸に、より一層、辛く響いた。


 半ば振り切るようにして、馬車は、帰路についた。







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