幸福と有頂天
シェーンブルンの庭園を、ヨーハンは、気もそぞろに歩いていた。
ウィーンでの雑務は、大方、済ませた。あとは、兄の皇帝に挨拶するだけだ。
一刻も早く、シュタイアーマルクへ帰りたい。
早馬の背の上で、走り出したい気分だった。
この小道は、両側の木をアーチ状に刈り込み、まるで、緑のトンネルのようになっている。
夏も、終わろうとしている頃だった。斜めに傾ぐ夕陽が、小道を覆う木立に、複雑な陰影を投じていた。
一迅の風が駆け抜けた。
さわさわと、一斉に、葉がざわめく。それは、過ぎゆく命の季節を惜しむように、また、近づく落葉を予感し、打ち震えているようにも聞こえた。
長く真っ直ぐなトンネルの向こうから、すらりとした人影が歩いてきた。小さな声で、詩句のようなものを口ずさんでいる。
「
厚い血潮が、わが身の内を駆け巡る
無益に過ごしし23年を経て、
われは、わが裡なる力を感じる
そは、王座への道
怒れる債権者が揺り起こす
若き時間の浪費を思う時
名誉を挽回せよと命ずる声が、耳元で途切れることがない
今こそ、天より授かりしその才覚に、利子をつけて返済するのだ
世界の歴史、過去の名声を受け止めよ
栄えあるトランペットの響きが、われを奮い立たせる
時の扉が揺らいで
名誉の舞台へ向けて、広く開く
」
詩が、途絶えた。
孤独な姿が、凄絶なまでに、凛として佇んでいる。すらりとした美貌の青年は、寂寥と憂愁に、色濃く縁取られていた。
「フランツ」
ヨーハンは呼びかけた。
「あ。おじさん!」
途端に、声が、子どもの頃の響きに変わった。
正確には、ヨーハンは、フランツの叔父ではない。フランツは、兄の孫だ。だが、めんどうな呼称を、ヨーハンは嫌った。「おじさん」というのは、フランツが、小さな子どもだった頃からの呼び方だ。
「
「うん。ホーフブルクにいた」
「教えてくださればよかった。そしたら、すぐに会いに行ったのに!」
「だって、ルイーゼが来ていたんだろ」
からかうように、ヨーハンは姪の名を出した。
「久しぶりにお母さんに会ったんだ。俺のとこへ来たら、ダメだろ」
「母上なら、帰られました」
上目遣いに、ヨーハンを見る。
ぞくりとするような美しさだった。声に深い感情を滲ませ、フランツは言った。
「ナイペルク将軍のお加減がよくないようで……僕は、心配です」
「ナイペルク……」
たしかそんな名前の将軍が、マリー・ルイーゼについてパルマへ下ったことを、ヨーハンは思い出した。オランダで片目を失った将軍だ。勇敢さを買われ、
まだ、ウィーンへ帰って来られないで、姪に仕えているのか。
ウィーンには、彼の家族がいるだろうに。
顔も定かでない男に、ヨーハンは、同情した。
「そうだ。大尉に昇進したそうだな。おめでとう」
フランツの顔が、ぱっと輝いた。
「ありがとうございます、ヨーハン大公。チロル連隊所属の大尉に任命されました」
改まって、フランツは答えた。
不意に、その顔に、暗い影が落ちた。
「でも、いつになったら、軍務に就くことができるのやら」
ナポレオンの息子が、宮廷から出られないことは、ウィーンの、誰もが知っていた。
ヨーロッパのあちこちには、未だに、ナポレオンの残党が残っている。
ひとたび、フランツが彼らの手に落ちたなら……。
彼はたちまちフランスの王に祭り上げられるだろう。
……
……そうなったら、わが畢生のウィーン体制は、瞬く間に崩れ去るに違いない。
それが、ヨーロッパの御者、メッテルニヒの抱いている恐れだった。
フランツ自身は、幼い頃から、父親と同じく、軍務を志していた。
だが、一向に、昇進も、実務さえも与えられない。
それどころか、未だに、ウィーンから出してもらえないでいる。
オーストリア皇帝の孫でありながら、囚人なのだ。彼は、黄金の檻に捕らえられている……。
この先、軍人として活躍を許される日が、果たして、訪れるだろうか。
ナポレオンの息子に、オーストリアの精鋭部隊を託す。
そんな危険なことを、あのメッテルニヒが許すとは思えない。
「おじさんが、僕くらいの年齢の時は、もう、実戦に出ていらしたのでしょう?」
再び上目遣いになって、フランツが尋ねた。
ヨーハンは記憶を辿った。
「バイエルンに侵攻したのは、18歳の時だったかな」
「僕より、1歳、上の年齢だ」
フランツがつぶやいた。
頷き、ヨーハンは続けた。
「アムフィングでは、勝利を収めたのだが、どうやら、
「……」
なにか言いたそうな顔を、フランツはした。その複雑な表情を見て、ヨーハンは笑った。
「君のお父さんの、戦友だった男だ。最終的には、敵方に回ったけど。実際、
ナポレオンが、ロシア兵の中に、かつての戦友、モローの姿を見つけたのは、1813年、ドレスデンの戦いでのことだ。
ロシア軍の先頭にいたモローを遠眼鏡で見つけたナポレオンは、即座に、その辺りに向けて砲撃を集中するよう、命令を下したという。かつてライン・モーゼル軍の総司令官だったモローは、この戦いで被弾し、護送されたプラハで没した。
ヨーハンは、肩を竦めた。
「オーストリアはロシアの同盟国だったから、俺も、ロシアの悪口は、言えないわけだけどね」
「言ってるじゃないですか」
フランツの顔が綻んだ。まるで、アネモネの蕾が花開いたようだと、ヨーハンは思った。邪気の全くない、瑞々しい笑顔だ。
ふっと、柔らかな笑みが、消えた。
「でも、おじさんは、随分若い頃から、実際に、軍務についていらしたんだ」
「そうだよ。いきなり、実戦というわけにはいかないからね」
「それなのに僕は!」
低く地を這うように、フランツは叫んだ。
声が喉に引っかかり、彼は、ひどく咳き込んだ。
「おいおい、大丈夫かい?」
この冬、彼は体調を崩し、兄の皇帝がひどく心配していたことを、ヨーハンは思い出した。
それで、「来なければ銃撃部隊を差し向ける」などと物騒なことまで書いて、姪のルイーゼを、パルマから呼び寄せたのだ。
こんなに咳き込むとは、まだ、本調子ではないのだろうか。
「焦ることはないさ」
彼は言った。
「焦ることは、ちっともない」
できることなら、この子に、アルプスの雄大な景色を見せてやりたい、と、ヨーハンは思った。
高い山の頂から、澄んだ空を背景に、外界を見下ろせば、大概の悩みは、ふっとんでしまうだろう。
あの静けさ。
鋭い、鳥の鳴き声。
だが、それさえも、メッテルニヒは許そうとしない。
「戦いの為に、戦うのではないのだよ」
ぼそりと、ヨーハンは言った。
「戦いには、犠牲が伴う。敵にも、味方にも。だから、どうしても守らねばならぬものを侵略された時しか、戦ってはならないんだ」
フランツは肩を怒らせた。
「僕は、この国の為に戦います。おじさんだって、そうだったんでしょう?」
「いいや。今となっては、それも違う気がする……」
「?」
不思議そうな顔を、フランツはした。
きょとんとしたその顔を見て、ヨーハンは、思わず吹き出した。
「恋をしろよ、フランツ」
「……? なんですって!?」
「恋をするんだ。かわいい娘を見つけろ。純朴で優しい恋人は、君に、大切なことを教えてくれる。人生で、最も大切なことを!」
「そんな理想を言ったって……。いったいどこで、そんな都合のいい恋人を見つけてくるというんですか!?」
「町なか。それか、山。湖の
「おじさん……」
「皇族や貴族の娘は、ダメだ。お前も知っているだろう? ハプスブルクの結婚では、丈夫な子どもが生まれないことが多い。おそらく、血の近さが、神の逆鱗に触れるのだ。世の富を、血族で囲い込もうなどというのは、さもしい考えだよ」
「……」
「第一、顔も見知らぬ女と添い遂げられる気がしない。娶るなら、民の娘に限る」
「……僕にその自由があるとお思いですか?」
静かな声だった。
はっと、ヨーハンは息を呑んだ。
自分の半分ほどの年齢の若者に、たしなめられた気がした。
美しいアンナと過ごす幸福を。その、有頂天を。
「俺が、アンナに出会ったのは、37歳の時だ」
ぼそりとヨーハンは言った。
「機会は、いつか、巡ってくる。必ず」
我ながら、浮ついた言葉に聞こえた。
フランツは、無言で頷いた。
*
ヨーハンが、兄の皇帝から、正式な結婚を許可されたのは、その年のうちのことだった。
翌1829年、2月28日。マリアゼル(シュタイアーマルクの北部)の教会で、結婚式が行われた。
深夜に行われた式には、司祭と新郎新婦の他には、証人となる2名が出席したきりだった。
それでも、ヨーハンとアンナは、静かな喜びと、深い安心に包まれていた。
*
同じ月の22日。
パルマで、アダム・アルバート・フォン・ナイペルク将軍が亡くなった。
彼は、驚くべき遺書を、ウィーンの皇帝に宛てて、認めていた。
……。
fin
・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
※
フランツの口ずさんでいた詩は、英語版『ドン・カルロス』二幕二場のカルロスのセリフを、岩波文庫(佐藤通次 訳)を参考にして訳しました。なお、原文は散文ですが、敢えて詩の形にしてみました。
フランツがシラーの戯曲「ドン・カルロス」に心酔してたのは史実で、これに基づき小説を書いてみました。
「『ドン・カルロス』異聞」
https://kakuyomu.jp/works/1177354054887051396
*1
チャットノベルがございます。「三帝激突」37話「ホーエンリンデンの戦い」
https://novel.daysneo.com/works/episode/8bd33e0c3d4323deed77014532233d7e.html
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