貴賤婚
*
郵便局長、ヤーコプは、困惑しきっていた。
彼は早くに妻を亡くしていた。長女のアンナが、母に代わり、弟や妹の世話をしてきた。
苦労をかけた自覚がある。
その分、彼女には、幸せを掴んでほしかった。
ハプスブルクの大公が、自分の娘を、しきりと気にかけていることは、ヤーコプも気がついていた。
年齢は、22歳も離れている。もはや、親子である。
これが、他の男であったのなら、町の荒くれ共の力を借りてでも、追っ払うところだった。
だが、相手は、大公である。オーストリアのプリンスだ。その上、郷土の産業の育成に、尽力してくれている。
滅多なことはできなかった。
手をこまねいているうちに、相手は、なんと、結婚を申し込んできた。
「それは、妾として差し出せということですか?」
ヤーコプの声が震えた。
大事な娘を、慰みものにするつもりではなかろうかと、危惧した。
アンナは、大公に比べたら、ただの田舎娘だ。
それでも、彼の大事な娘であることに、代わりはなかった。
ヤーコプの反応に、大公は、驚いたようだった。
「いや、私は、生涯の伴侶として、彼女を妻に娶りたいのだ」
それから大公は、いかに自分が、アンナを愛しているかを、縷縷として述べ始めた。それは、父親としては、聞いていて辛いものがあった。しかも相手の男は、自分と同じ年代なのだ。
途中から、ヤーコプは、息が、苦しくなってきた。
やっと愛についての講義が終わったと思ったら、今度は、誠意について語り始めた。熱を帯びたような目をしている。
これは本物だと、ヤーコプは思った。
この人を信頼してもよいのではないかと、悟った。
……この大公様は、変人なのかもしれぬ。
……他に、いくらでも、きれいなお姫様を、妻に出来るだろうに。
……しかし、変人だからこそ、生涯に亘って、一人の田舎娘だけを、愛し続けるのやもしれぬ。
そう考え、納得した。
*
娘の父親は説得できた。
問題は、ウィーンの、兄の皇帝だった。
ヨーハンが暇さえあれば、シュタイアーマルク州へ出かけていることは、宮廷では、よく知られていた。
すでに、大公の田舎娘への色恋沙汰が、
*
メッテルニヒは、一層の警戒心を募らせていた。皇帝の信頼を得て、彼は、1821年に、宰相になっていた。
田舎の町で、大公ヨーハンが、村人たちと楽しそうに談笑したり、農業指導をしたり、また、自分の領地に車両工場を造ったりしていることを、メッテルニヒは、探り出していた。
……チロルと同じことをするつもりか。
メッテルニヒはまた、大公の、村娘への執着も、ほぼ正確に把握していた。
ただ、それが、結婚に繋がるとは、この高官は、予想もしていなかった。
30歳を大幅に過ぎた大公にふさわしい姫を、そして、オーストリアにさらなる繁栄を齎してくれる子宮を、メッテルニヒは、ヨーロッパ各国の王族の中から、物色中だった。
*
父親のヤーコプに約束した通り、ヨーハンは、アンナを日陰の身にする気はなかった。
1823年2月、ヨーハンは、兄の皇帝と直接対面し、全てを打ち明けた。
その上で、彼は兄帝に、結婚の許可を求めた。
皇族には、貴賤婚という言葉がある。
皇族は、必ず、自分の身分と釣り合った者と結婚しなければならない。
相手がたとえ、高位の貴族であっても、貴賤婚は成立する。
皇族の結婚相手は、領土領民を持つ、一国の主でないといけないのだ。
……幸いなるかな、オーストリア。汝は、まぐわうべし。
そうやって、ハプスブルク家は、戦わずして、領土を拡げてきた。
自分の恋愛の成就のみを考えて身を投ずる貴賤婚は、だから、国家への、重大な裏切りとなるのだ。
ヨーハンは、大公の位を返上するくらいの覚悟だった。
愛に関する弟の長弁舌が終わると、兄フランツは、目をぱちぱちさせた。
「そのような結婚が、どういう結果を齎すか、よく考えてみるといい」
「だから、彼女のいない人生は、私にとって、墓場同然なんです! 彼女は、私の女神、私にとって全てなんです!」
兄の言葉に、ヨーハンは食いついた。
「宮廷士族は、民を、同じ人間としてみていないんだ!」
ついに、激して、叫んだ。
「それは、誤った考え方だ。民も、貴族や皇族と、なんら変わることはない。否、純朴な分、高貴であるとさえいえる!」
「誰も、反対はしていない」
ぼそりとフランツが言った。
はっと、ヨーハンは息を呑んだ。
俯いたまま、兄は続けた。
「大事な人と共に過ごしたいという、お前の気持ちは、よくわかる。家庭の重要性は、私も理解しているつもりだ。家庭がしっかりしていなければ、王は……男は、よい仕事ができない」
この皇帝は、極めて家庭的な男だった。戦争に出ている間も、毎日のように、ウィーンの皇妃に手紙を書いていた。戦地で、子どもの
「兄上、それでは……」
ヨーハンの目が輝いた。
すばやく彼は、用意してきた結婚承諾書を差し出した。
「この書状に、ご署名を」
「いや、その、まあ……」
優柔不断に後退るその手に、強引に押し付ける。
兄帝は、ため息を付いた。
「検討することを約束する」
皇帝が、弟を呼び出したのは、それから2ヶ月経ってのことだった。
彼は、ヨーハンに、結婚の許可を与える旨を、文書で通達した。
ただしそれには、条件が付帯した。
アンナ・プロッフルと、彼女が生む子どもたちには、王族としての地位も年金も与えられない、というのだ。
実は、この2ヶ月の間、フランツ帝は、必死で、ハプスブルク家における貴賤婚の先例を調べ上げていた。
彼が参考にしたのは、16世紀半ば、フェルディナント一世の次男、フェルディナント大公と、豪商ヴェルザー家の娘、フィリッピーネとの結婚だった。
……なんだ。ちゃんと先例があるじゃないか。
記録を見つけた時、極めて官僚的なフランツ帝は、大いに安堵した。
相手が豪商の娘であろうが、郵便局長の子であろうが、貴賤婚であることに変わりはない。
弟の結婚についても、先例と同じように、ことを進めるだけだ。
妻子を皇族として認めないというのは、このフェルディナント大公とフィリピーネの結婚に倣った条件だった。
さらに、皇帝フランツは、宮廷の混乱と誹謗中傷を考慮した。
当分の間は、正式な結婚式は見合わせ、結婚の事実は極秘にするよう、命じた。
*
ヨーハンが村娘に結婚を申し込んだことは、いつの間にか、宮廷中に広がっていた。
妾に囲ったのではない。
結婚を申し込んだのだ。
これは、大変なスキャンダルだった。
憤激のあまり、この結婚をなんとか阻止しようとする策謀まで、渦巻いていた。
それでも、アルプスの麓で、アンナと過ごす日々は、幸せだった。彼女の懐の深さに、彼は甘え、彼女は彼を、頼もしく慕った。
ヨーハンは、ウィーンで雑務を片づけ、シュタイアーマルクへと飛んで帰る、という生活を続けた。
宮廷の人々は、大公はそのうち、「村の情婦」に飽きて、その身分にふさわしい結婚をするだろうと、囁いていた。
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