最愛のジョイア



 引きこもって暮らしているカールの耳に、マリー・テレーズの夫、アングレーム公についての、様々な陰口が飛び込んできた。

 妻を顧みないとか、もっと露骨に、身体的に満足させられないのだ、とか。

 いくぶんかは、彼女にふられた形になっているカール大公への身びいきもあったろう。


 マリー・テレーズがまだ、ウィーンにいた頃、フランス人のこの従兄弟は、彼女に殆ど、手紙をよこさなかった。たまに寄越しても、天気の話が大半だったと、例の秘密情報員が言いふらしていた。


 マリー・テレーズと結婚してすぐ、アングレーム公は、ロシアの軍隊に参加した。彼は、新婦をほったらかし、亡命してきた祖国フランスとの戦いに明け暮れていた。

 その後も、アングレーム公は、妻の傍らにいることは少なく、各地を転戦しているという。二人の間に、まだ、子はない。



 ……彼女は、幸せなのだろうか。

 カールは訝しんだ。


 自分なら、幸せにしてやれたのに、と身悶えする思いだった。少なくとも、アングレーム公よりは多く、彼女の傍らにいただろう。


 だが、仕方のないことだった。

 その資格がないから。

 自分は、フランスに敗北したのだ。


 かつてマリー・テレーズの両親と弟を殺し、彼女から青春時代を奪ったフランス、その人民の「王」を名乗る男ナポレオン・ボナパルトを、自分は誅することができなかった……。




**




 風向きが変わった。

 ナポレオンはロシア遠征に失敗し、1813年、イギリス、オーストリア、ロシア、プロシアを初めとする大同盟軍に敗北した。


 ナポレオンは、エルバ島に封じられた。



 カールの姪、マリー・ルイーゼは、ナポレオンとの間に生まれた子どもを連れてウィーンに帰ってきた。

 ウィーンの人々は、ミノタウロスの腕から生還した乙女を迎えるように、歓呼して、彼女を出迎えた。




 フランス王には、ブルボン朝のルイ18世が、即位した。マリー・テレーズの叔父、彼女の夫の伯父だ。彼女の夫、アングレーム公は正式に王太子としてパリへ入城し、彼女は、王太子妃となった。


 カールは、知っていた。マリー・テレーズは、両親の雪辱の為に、ブルボン家に嫁いだのだ。

 ブルボン王朝の再興。

 それこそが、彼女の悲願だった。ギロチンの犠牲となった、両親の尊厳を取り戻すのだ。



 ルイ18世とマリー・テレーズのパリ入城は、怒涛のような、国民の歓呼に迎えられた。

 馬車は、ブルボン家を象徴する百合の花で満たされていた。その中に、マリー・テレーズは、銀の葉模様を刺繍した白いガウンを着用して、座っていた。


 国王はにこやかに手を振っていたが、マリー・テレーズは、終始、緊張して、しゃちこばっていた。着ていたガウンに、ひだ襟がついていたせいで、その青白くこわばった表情は、いかめしくさえ、集まった人々の目に映った。


 「王太子妃は、堅苦しく、なんだかとても、苦しそうでした」

 そんな報告が、ウィーンに齎された。


 ……貴女は今、幸せですか?

 心の中で、カールは呼びかけた。

 ……私を置いて、フランスを選んだ貴女は、幸せになれたでしょうか。




**




 それから1年もしないうちに、ナポレオンがエルバ島から脱出した。次第に兵を増やし、ついにパリに返り咲いた。

 ルイ18世は、即座に、ブリュッセルへ逃亡した。



 マリー・テレーズの夫アングレーム公は、ニームで反ナポレオン軍を組織した。

 妻のマリー・テレーズは、親王派の多いボルドーに残り、強烈な反ナポレオンのキャンペーンを張った。



 しかし、軍の将校初め、兵たちは、彼女に従わなかった。彼らは、同じフランス人と戦いたくなかった。

「いいえ。フランス人は、名誉を忠実に守ります。国王を裏切ったあなた方は、もはやフランス人ではありません。回れ右! 退がりなさい!」

彼女は命じた。


 一方で、ボルドーの地元守備隊の国民衛兵らは、マリー・テレーズの味方だった。ガロンヌ川岸辺に集結した彼らは、ブルボン家の白い旗をはためかせ、彼女のため、王のために戦う決意を見せた。

 正規軍の兵士たちは、背中を向けたというのに。


 ナポレオン軍を川の向こうに挟み、マリー・テレーズは、無蓋の馬車に立った。敵の標的になる危険を犯しながら、言った。

「あなた方は素晴らしい名誉を示しました。貴重なその忠誠心は、とっておいて下さい。今、私はあなた方に、戦闘中止を命じます」

 そしてマリー・テレーズは、フランスを離れ、イギリスへ渡った。



 「彼女は、家族でただ一人の勇者だ!」

報告を受けたナポレオンは、そう言ったという。





 ……相変わらずやってるな。

 カールは思った。


 兄の差し出す書類にサインを拒んだ、彼女。

 秘密警察の目を欺くために、レモンの汁で手紙を書いていた、彼女。


 ……少しも、変わっていない。





 だが状況は、マリー・テレーズにとって、悪くなるばかりだった。

 夫のアングレーム公が、ナポレオン軍の捕虜となったのだ。


 幸い彼は無事で、妻に手紙を書いた。

 その手紙で、アングレーム公は、妻のことを、「最愛のジョイア(イタリア語で喜び)」と呼んでいたという。


 捕虜の手紙を監視するのは、どこの国でもやっていることだ。

 アングレーム公の妻への呼び名をすっぱ抜いたのは、他ならぬナポレオンだった。


 『若きウェルテルの悩み』が愛読書だというナポレオンは、ラシュタット会議で、スウェーデンのフェルゼン伯に、マリー・アントワネットとの関係を尋ねたこともあった。

 他人の色恋沙汰に、ことさらに敏感な男だった。



 ……なんだ。幸せじゃないか。


 アングレーム公が、愛情いっぱいの言葉で妻を呼んでいることは、カールには、衝撃だった。

 だがそれは、いやなものではなかった。


 ……彼女は、とても幸せなんだ。


 心の重荷がとれたような気が、カールはした。静かな開放感が、心を満たしていく。

 マリー・テレーズは、夫に愛されている……。




**




 どん!

 何かがカールの脇腹にぶつかって止まった。

 勢いで転びそうになった体を、危ういところで、カールは支えた。

 フランツ。ナポレオンと、カールの姪、マリー・ルイーゼとの間に生まれた男の子だ。父の没落に伴い、母の実家であるウィーンの宮廷に連れてこられていた。


 体温が高く柔らかい物体を、大公は、しげしげと眺めた。



 ……薄い金色の髪、青い目。身長は2フィート(約60センチ)もあるだろうか。子どもにしたら、しっかりした体つきをしている。少し、前歯の間が空いているな。でもこれは、すぐ生え変わるだろう。全体的にどことなく、ナポレオンと似ている。



 掴まれた腕を、子どもは振り払おうとした。

 子どもフランツは、普段は、決して、カールに近づかなかった。


 ……カール大公は、ナポレオンに最初に黒星をつけた軍人である。

 身の回りのフランス人従者の誰かから、その話を聞いたのだろう。



 ……頑固な性格は、父親とそっくりだな。

 苦笑しながら、カールは、手を離した。


 フランツは、父親が、大好きなのだ。

 戦争に明け暮れ、戦地でしか生きられない男だというのに。


 ……子どもというものは、そういうものなのかな。

 そこまで慕われる「父親」というものが、カールには、ちょっと、羨ましい気がした。



 開け放たれたドアから、子どもは、弾丸のように、外へ飛び出していった。

 生き生きと、太陽の下を走っていく。

 とても嬉しそうに。楽しそうに。


 ……かわいいじゃないか。

 反抗的な小さな子どもは、まるで命の塊のように、カールの目に映った。




 「あっ、カール大公!」

玄関ホールへ走ってきた侍従が、息を切らせて立ち止まった。

「プ、プリンスをお見掛けになりませんでしたか?」


「外へ出ていったよ」

カールが答えると、侍従は、ぎりぎりと歯を噛み締めた。

「出し抜かれたっ! ぼ、帽子も被らず、上着も着ずに……。放っておくと、そのままのお姿で、街なかまで行ってしまわれるんです!」

「そういうことなら、早く追いかけたらどうだ?」

 侍従は飛び上がって、再び走り出した。



 小さなフランツは、生け垣の根本にいた。窓からカールが見ていると、子どもは、何の前触れもなく、ふっとしゃがみこんだ。

 すぐそばを、侍従が慌てふためいて走り過ぎていく。


 ……うん。子どもを持つのも悪くない。

 カールは思った。




**




 1815年4月。

 ナポレオンはワーテルローで大敗し、セントヘレナへ流された。


 この年の9月。

 カールは、ナッサウ=ヴァイルブルク侯の娘、ヘンリエッテと結婚した。彼女は、イギリスのジョージ2世の玄孫に当たる。


 ナポレオンがフランツの父となったのは、42歳の時だ。

 今なら、カールも間に合うだろう。








fin








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