斉服
荒波一真
第1話
斉服
1
「洋一、起きなさい! 遅刻するわよ!」
母親の声が階下から聞こえてきて、しまった、と思わず呟く。怒鳴り声の調子からして、大寝坊をやらかしてしまったらしい。慌てて布団から脱出すると、案の定階下の母親はこう続けた。
「あんた、今日試験でしょう!? 留年したらどうするの!」
「起きたから。すぐ下行くから」
「もう八時二十分よ!?」
「分かってるって」
僕は急いでパジャマを脱ぎ、クローゼットから新品の斉服を取り出した。
うなじの後ろについたボタンを押すと、ぶかぶかだった斉服のマイクロ繊維が起動し、ほどよい可動域を残して僕の身体にフィットする。僕は二、三度首を回して斉服を馴染ませてから、『通学用:猛ダッシュ』のコードを暗唱する。斉服はすぐに意図を汲み取り、大腿四頭筋と大殿筋に微弱電流を流す。数秒もしない間に僕の足は競輪選手さながらのパフォーマンスを手に入れる。全身の骨を通じて伝わってくる斉服の指示は、僕の気持ちを駆り立てると同時に、今からやらねばならないこと――今回の場合は、試験開始時間までに大学の講義室にたどり着くこと――を繰り返し伝えてくる。
僕はその性能に舌を巻きながら、クローゼットに吊るしてあるシャツとジーンズを身に着けた。そして一目散に階段を駆け下り、自転車に飛び乗った。速度はすぐに時速五十キロメートルを突破し、霞む視界に慣れる頃には、大学の姿が目に入っていた。
「やれやれ」と僕は呟いた。
斉服という概念が初めて世の中に認識されたのは、中国・上海の郊外に位置する総合服飾企業、ダヤン公社のプレスリリースだったと思う。
ダヤン公社はサステナブルなファッションに長年力を入れていた。自社で開発していたマイクロ繊維――筋肉及び毛細血管を刺激する特殊繊維を用いた肌着を、現場で日夜仕事に勤しむ工場員に、無料で支給したのだ。面白半分の在庫処理は、生産率を二〇〇パーセント向上させると共に、工場員の離職率を半分に減らした。
無敵の肌着はその後幾度かの改良を経て、人類のパフォーマンス向上という名目の下、華々しく売り出された。皆が同じ服を着ることから「セイフク」と呼ばれるようになった便利な肌着は、体温調節や血行改善はもちろん、筋肉や神経の刺激にも役立った。デザインは似たりよったり、一昔前に流行ったウェットスーツのような形状を呈していた。
今やこの世界において、斉服を着ていない人を探す方が難しい。斉服自体の性能は折り紙付きだ。それだけでなく、別売りのコードを口ずさむだけで、理想の自分に近づくことができる。この服はお財布にも優しいことで知られていた。よほど高性能のものを求めない限り、普通の肌着の二倍程度の値段で買うことができるし、丁寧に使えば十年はもつ。
もっとも、その用途と依存具合は個人によりだいぶ異なる。黒い斉服のみで街の中を歩き回る人も近ごろは増えてきたというが、羞恥心に耐えきれない僕は上から普通の服を羽織る。マイクロ繊維の塗料は反射率を自在に変更できるから、普通の服を着た後に、自然に近い肌色を身にまとうのが常だった。近年のトレンドとして、黒色の斉服を部分的に露出する人もいるらしい。僕にそこまでの勇気はない。
そんなことを考えているうちに建物の入り口がぐんぐんと迫ってくる。僕は自転車をスムーズに停め、怒張した太ももをそのままにエレベーターへ駆け込んだ。余裕の五分前到着だった。同級生と挨拶を交わしながら、ゆうゆうと着席する。
「みんな集まったかい?」
最前方に座る教授は威厳に満ちた声で学生に問いかける。その調子からしておそらく『指導用:尊敬される教授』のコードでも導入しているのだろう。僕は呆れ半分緊張半分で解答用紙を後ろへ回す。
「さあ、皆さん、うなじのスイッチを切って。近頃はカンニングに特化したコードが売り買いされているらしいな。決して怪しい真似はしないように。もし不正行為が発覚した場合、即刻留年はもちろんのこと、罰金や停学・退学など、然るべき処分がくだされるぞ。それでは、はじめ!」
馬鹿馬鹿しい、と僕は呟く。その声は紙をめくる音にかき消される。僕は事前に『試験前:無敵のインテリ』でほぐしておいた指の筋肉を存分に用い、二十分もかからないうちに用紙を文字で埋め尽くした。脳の血流は至高の域に達している。ツボを刺激されたおかげで過度に分泌されるアドレナリンは、記憶回路を刺激し続ける。僕は誰よりも早く講義室を出ることに成功した。
斉服の電源を入れ直し、もう一度行きと同じコードを暗唱。次に自転車で向かうのは隣町のコンサートホールである。今日は記念すべきピアノ・リサイタル本番だった。国際コンクール前の晴れ舞台、僕は主役の一人として何曲か演奏を頼まれていた。できるだけ早く会場に着かなければならない。
ギアを一段階上げて走ると、斉服がちかちかと点滅する。時折マイクロ繊維の色が乱れる。初期不良だろうか、色彩構成が安定していないようだ。後で修理に出さないとな。僕は一抹の不安を覚えながら自転車を漕ぎ続けた。
会場に到着すると、僕と同じくらいの身長の女性が腕を組んで仁王立ちしていた。幼馴染の栞だった。美しい化粧を施し華やかにドレスアップした姿を見て、僕は思わず鼻の下を伸ばす。
「遅い! 遅すぎるんだけど!」
栞の声は怒気をはらんでいる。
「早くスーツに着替えて。もうそろそろお客さん来ちゃうから。ほら!」
放られた洋服は重く、ほとんど重量を感じない斉服との違いを感じる。感情を表に出さないコードは何だったっけ。赤面を目立たなくするコードはどこにメモしてあっただろうか。僕は真っ白になった頭を呪いながら言葉を何とか絞り出す。
「久しぶりなのに、そりゃないよ。今日はよろしくね」
栞はもう僕の言葉など聞いていなかった。足を組んでスマートフォンに注視している。可愛いドレスが台無しである。
「ほんと、余計なことしないでよね。こんな演奏会なんてサボりたかったのに! なんてったって、今日は小島の二〇〇〇本安打がかかってるんだから!」
僕は後方から画面を盗み見る。そこには群青のユニフォームに身を包んだ野球選手が映っている。少年のような笑みを浮かべる小柄な人物、ピンク色のプロテクターがなんとも可愛らしいが、彼の名前くらいは僕だって知っている。この地域に住む人は、皆彼のことを尊敬しているだろう。
小島洋介――誰よりも打撃を愛し、打撃に愛された男。守れば不動のショート、打てば首位打者、走れば盗塁王。苦しいチーム状況の中できらりと光る天才バッター。
僕はその可憐な遊撃手の姿を、しばらくの間見つめていた。リサイタルが終わっても、残像はまぶたの奥に残っていた。
2
「馬鹿なこと言わないでくれよ」
陽一叔父さんは僕の斉服をチェックしながらそう言った。マイクロ繊維の切れ端が散らばったデスクの上には、金にしたら二千万は下らない特殊コードの草案で溢れている。
彼は一流の斉服職人だ。主に国内外のスポーツ選手からの依頼を受け、個人の特性に合わせてカスタマイズされた斉服、そして特殊コードを提供している。本場フランスのオートクチュールに劣らぬ人気を誇っていると聞く。僕にとっては、斉服の整備をタダで請け負ってくれる、気の合う親戚に過ぎないのだが。
「小島洋介の斉服と特殊コードを盗みたい? 今日はエイプリルフールじゃないんだぞ」
「僕は本気です、叔父さん」
「無理に決まっている。だいたい、本人が着用してるじゃないか。どうやって脱がすつもりだ。特殊コードは機密事項だし、本人にしか使いこなせないようになっている。冗談はほどほどにしておきなさい。ほら、修理だいたい終わったぞ。まだ反射率の調整にバグが見られるから、気をつけながら使いたまえ」
「予備の斉服を貸してください。本人には眠っておいてもらいましょう。僕は何としても小島洋介になりたい、いや、ならなければならない。叔父さん、作戦はこうです。まず、最強の隠密コードを作ってください。それを用いて自宅かロッカールーム、あるいは練習場に侵入し、彼と入れ替わってしまうのです」
「ほとんど犯罪じゃないか。洋一くん、冷静になれ。好きな人をたぶらかすコードじゃだめなのか。君はどうしても、小島洋介にならなければいけないのか」
「そうです。彼女は今、小島洋介しか見ていません」
「自分を磨こうとは思わんのか」
「自分磨きなんぞ彼女には通用しません。抜本的な対策が必要です」
「何があってもその幼馴染への愛を貫き通すんだな?」
「当然です」
叔父さんはため息をついた。
「かわいい甥の願いを無下にはできん。俺だって昔は君みたいなもんだった。自分の斉服のパフォーマンスの限界が気にならないといえば嘘になるしな。ふん、協力してやろうじゃないか。何より、小島洋介の斉服を作ってるのはこの俺だ。いいさ、やってやる。無茶というのは若いうちの特権だ」
叔父さんは奥に引っ込み、黒光りしている斉服を僕に放った。
「それ、小島洋介タイプの斉服だ。来週取り替えることになっていた。好きに使え。今から使えそうなコードのデータを送る。その斉服にしか対応しない特殊コードだから、使うときはくれぐれも慎重に」
「叔父さん、本当にありがとうございます」
「新品の斉服にはどうしても不調が多い」と叔父さんは言った。「おまけに、多くのコードを導入しすぎては、何が起こるか分かったもんじゃない。それはもちろん承知してるんだろうな?」
僕は頷いた。
「健闘を祈るぞ、洋一くん」
かくして僕は今、バッターボックスに立っている。
「三番ショート小島、背番号8……」
増強された聴覚はアナウンス音を高精度で拾い上げる。僕はその感触にぞくぞくしながらバットを振る。引き締まった筋肉が無駄のない軌道を描く。僕は自分で自分の動きに感嘆した。
小島洋介はドーム球場の数多ある控室のひとつで眠っているはずだ。『睡眠:二徹明け』のコードを吹き込んだから、よほどのことがない限り、試合の邪魔はしてこないだろう。彼の斉服はとにかくきつい。一挙手一投足がままならない。僕はこの日のために血のにじむようなトレーニングを積み重ねてきたが、一流アスリートの斉服ともなると、着こなすのでさえ苦痛を伴う。僕は粛々と彼のルーティンをこなしながら、打球の予測に全力を尽くす。びりびりと痺れるような電流は、瞳孔を開き、視界を明瞭にする。
バチン、とミットが鳴る。
僕は瞬時に状況を判断する。ストライクゾーンすれすれ、恐ろしい角度をつけて曲がったスライダーに対して空振りすることすらままならなかった。その事実を認識したときには、二球目が視界に飛び込んでいる。すんでのところでバットに当ててカットする。どうやら一瞬で追い込まれてしまったらしい。
ガンガンと鳴り響く応援歌のトランペット、ベンチのがなり声、一球ごとにずれる投手の間合い。それら全てが恐るべき解像度で僕の感覚を刺激する。こんな世界で戦えるわけがない、と僕は心の中で叫ぶ。
三球目、またもやストライクゾーン。カットしたつもりの打球は情けない放物線を描く。そのボールは客席に入る。観客のどよめきが鼓膜をびりびりと震わせる。僕は過去の自分を恨みながら必死で粘った。
転機が訪れたのは十二球目だった。投手から放たれたボールは今までのそれに比べて高かった。球速も大して早くない。これだ、この球だ、と斉服は振動する。僕はバットを思い切り振り抜く。
空を切ったと思った瞬間にはもう遅く、バットは僕の手を離れて相手側のベンチへ飛んでいく。あろうことか、バットだけを吹っ飛ばしてしまったのだ。ストラァイク、と叫ぶ球審の声が耳にこだまする。斉服は衝撃を吸収しきれず、僕は地面に倒れ込んだ。
3
目覚めた場所は球場ではなかった。さらに言うと、病室でもなかった。
僕は辺りを見回し、驚いた。眼前にはグランドピアノが鎮座している。僕がいるのは、先日リサイタルを行ったコンサートホールだった。さらに恐ろしいことに、ピアノと対峙している人物には見覚えがあった。
「小島さん、どうしてここに!」
僕の斉服を着たプロ野球選手は、悪戯っぽい笑みを浮かべている。
「プロポーズは成功したのかな?」と小島さんは言った。「あんな風にバットを飛ばす人間、俺は初めて見たな」
「あの、本当に、申し訳ありませんでした」
「いい、いい。陽一さんにはお世話になってるからね。ペナントレースの順位は確定しているし、シビアなタイトル争いも俺とは無縁な話だ。二〇〇〇本安打の記録が一試合遅れようが、大した問題ではない。君の恋路の方がよほど面白い」
「最初からグルだったってことですか?」
「当たり前だ」と叔父さんの声。「あまり大人をみくびるなよ!」
「まあまあ。俺も楽しかったですよ、こんな風にピアノが弾けるなんて思ってもみなかったし」
小島さんはピアノのペダルを軽やかに踏み、鍵盤を叩き始める。曲目は今度のコンクール予選で使う予定の『ラ・カンパネラ』、叔父さんに無理を言って作成してもらった特殊コードだ。その荒々しくも儚い音色に僕は思わず拍手を送る。
ところがそれは長くは続かなかった。音は徐々にほどけてバラバラになり、整合性を失い宙に漂う。小島さんはやがて手を動かすのをやめ、斉服のフィット・レベルを低減させた。隙間からのぞく指は疲労のせいか震えていた。
「君、今の俺見てどう思った?」
「とてもよい演奏でした。最後の方は、少し、その……」
「いや、言おうとしてることはよく分かるよ。俺の指はつまり、斉服の要求に耐えられなかった」
小島さんは僕の方に向き直る。むき出しのしなやかな筋肉と精悍な顔つきが目に飛び込んでくる。僕はごくりと唾を飲み込んだ。
「斉服は人間を助ける。でも、万能じゃない。俺はこれまでの試合で、その事実を痛いほど思い知った。いくら筋肉を刺激したところで、肝心の燃料が尽きてしまえば、そのパフォーマンスは通常以下になってしまう。ちょうど今のピアノ演奏のように。それを防ぐには、無尽蔵のスタミナが必要だ。そして、そういう類のスタミナは努力によって勝ち得る他ないのだ」
彼の目がきらりと光る。
「洋一くん、君は決して運動を継続的に行ってきたわけじゃないだろう? ただの学生が、プロ野球の試合、しかもショートの守備と打撃に耐えうる体力をつけるには、相当の努力が必要だったんじゃないかな? 俺は君をとても尊敬しているよ。普通の人間にできることじゃない」
「ありがとうございます。光栄です」
「さて、と」
小島さんは立ち上がった。
「君はまだやり残したことがあるんじゃないかな。俺のプレーを横取りしてまで、手に入れたいものがあったんだろ?」
僕は思わず赤面した。
「行ってこい。そして言うんだ、『僕は小島洋介に認められた』と。何なら俺がついて行ってもいい。どうする?」
「……一人で、行きます」
「それでこそ男だ。頑張ってこい」
僕は勢いよく頷いた。
栞の連絡先を表示し、ホールの入り口に来て、とメッセージを送信する。文章が消えると同時に『通学用:猛ダッシュ』のコードを暗唱し、建物の外へ飛び出した。去り際に叔父さんが何か言った気がしたけれど、僕は意に介さなかった。
この日のためにとっておいた『告白用:猛アプローチ』のコードを加えると、斉服は一流の恋愛プランナーと化し、栞を攻略する複雑怪奇な手法についてレクチャーを始める。その振動に耳を傾けていたら、遠目に栞の姿が見えた。
「洋一くん!」と栞は言う。「急に呼び出されたからびっくりしちゃった」
彼女は臙脂色の美しいワンピースに袖を通していた。それはリサイタルのときの衣装に劣らず美しかった。
僕は一歩踏み出して、情熱的な愛の文句を囁いた。そして彼女の返事を待った。
栞はしばらく硬直していた。当然だろう、愛の告白に戸惑わない若者などいないのだから。だが、それは僕の勘違いだった。彼女は突然頬を叩いてきたのだ。
「洋一くん、変態っっっっ!」
そう叫ぶと、ものすごい勢いで遠ざかっていった。僕は慌てて彼女を追いかけようとしたが、振り上げた腕が視界に入り、猛烈な違和感を覚えた。
恐る恐る視線を下に向ける。
斉服は色彩を失っていた。完全に脱色されたマイクロ繊維は、透明な糸で織られた全身タイツのようであった。僕は何度も瞬きをして、頼むから夢であってほしいと願った。
追いついてきた叔父さんが、僕の肩にそっと手を置いた。斉服はその感触と叔父さんの意図を認識し、骨伝導で僕に「元気を出してください」と伝えた。〈了〉
斉服 荒波一真 @Kazuma_Q
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