第9話 懐かしい顔
輝夜は夢の中にいた。ふわふわとした感覚の中、確かなことは目の前に母親の面影があったことで、母親は穏やかに微笑んでいた。
花のように柔らかな人だった。幼い頃に死んだ母親は、とても美人で自慢の母親だった。
優しい面持ちでいつも輝夜の頬に手を寄せ、撫でてくれたものだ。
そんな夢を見たからか、目が覚めれば少し泣いていた。
少し涙が溜まる目元を拭い、身を起こせば部屋の中。
たいして趣味というようなモノもない簡素な部屋だ。
輝夜は探偵に拘った以外、特別何か好きな物があるわけでもなかった。
趣味と言うほどはまるものもないまま生きている。
それを不幸だとは思わないが、恵まれてないとは思う。
趣味を持って生きる人はどんな顔をして生きているのか気になる。
起き上がりに顔を洗い、朝支度を済ますと、まだ朝の午前五時である。
気分転換に少しだけ、と散歩をすることとした。
梅雨の時期だからなのか、紫陽花がいたるところに咲いていて、華麗な花弁を見せる。
美しい花弁は青や紫、赤といった色合いで鮮やかだ。
傘を広げながら紫陽花を辿っていった先に、ご近所でも長命の大樹がある。
それを目標に歩いて行くと、大樹の前に人が居た。
雨でも分かる、傘を開いていても分かる、いつも年がら年中コートを着る男がワイシャツ姿で濡れて立っているのだから驚いた。
市松だ。市松がそれも、仮面を片手に立っていた。
哀愁の募る姿に声をかけていいか躊躇っていた、勇気を出して市松の名を呼べば、輝夜は驚く。
声を失い、市松の初めて見る顔をまじまじと見つめた。
市松の顔は、母親そのものだった。
母親の優しくて美しい顔、そっくりというよりもそのものであった。
長い睫を震わせ伏せて、市松は微笑んだ。
「ついに見られてしまいました」
「市松、お前は……」
「誤解なさらないで、どのようなお顔に見えてるとしてもそれは僕ではない」
市松はぴしゃりと告げると、濡れた身体でふらりと輝夜に近づき微笑んだ。
母親がしてくれたように頬を撫でる物だから懐かしさの余り、涙を零す。
涙を零した姿に市松は瞬き、小首を傾げる。
「懐かしい方でも見えた?」
「市松、……母さんの顔をしている」
「そう、だとしたらそれが一番、先生にとってお会いしたい存在なのですよ」
「お前は一体……」
「僕は顔を持たない存在です。貴方の理想を見せるだけ。今朝のことはお忘れなさい」
「どうして?」
「未練を持つとまた顔を見たくなるでしょう? 僕の顔は見ると、一月分寿命が縮むのですよ」
しぃ、と市松が指の仕草で伝えると、輝夜は常々の疑問を述べた。
「君は何故毎回助けてくれるんだい?」
「僕の欲しい物が傷つかないために。そういうことにしておきましょう?」
これ以上は立ち入るな、という表情を浮かべ市松は帰って行った。
輝夜は死人と出会った気持ちにもなるが、不思議と懐かしい想いもよぎる。
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