第18話

 ネズミは言葉を失った。徐々に呼吸が荒くなり肩を激しく上下させる。固く握った手は震え、全身へと伝播していく。

「俺が。誰を、不幸にしたって?」

 歯の隙間から捻りだすようにネズミは言った。

「確かにアナタの父親は酷い人だった。日本中、世界中を探してもアナタ程辛い目にあった人はいないと思う。でもね。アナタが今、振りまいている不幸を、私が知らないとでも思った?」

 その問いにネズミは何も答えなかった。

「アナタには子どもがいたね。十歳になる女の子が」

「それがどうした。関係ないだろ」

「関係ならある」

 何か言いかけたネズミを制して、入っておいでとセンが言った。

 椿の襖が開く。

 うす暗い部屋の奥に人影が映る。背は大して高くない。私と同じくらいか、むしろ低い程度であった。髪は長く伸ばしており、顔に仮面を付けているらしい。人間離れした巨大なくちばしが小さな灯に鈍く光った。

「アナタは人目につかないように閉じ込めたあげく、体内端末を与える事もしていない。この国において体内端末を持たないと言うのが、どういう事か理解しているはず」

 光の下に現れたのはカラスだった。眉間に深い皺が寄り、太く凛々しく描かれた眉は高く吊り上がっている。丸く開いた両の目は黄金色の環により縁どられ、細く鋭い瞳が覗く。

 ネズミはしばらく呆けていたが、すぐに自分を取り戻すと唸るようにして言った。

「今は勉強の時間のはずだ。なんで俺の言うことを聞かなかった。おい!」

「私が呼んだの」

 一音毎にハッキリと聞き取れるように言ってのける。

「いいか。いくらセントラルだからって家庭の事情に口出しさせるつもりはねぇぞ。ましてや俺が悪者みたいな言い方しやがって、許さねぇぞ!」

「アナタはアナタが嫌悪している人と同じことをやっている。気づいて居ないだけと思うけど、今、現実に不幸を振りまいている。アナタがこの子にしている事は、新しい不幸でしかない。今まで不幸な目に遭ってきたアナタなら、辛さが理解できるはず」

「この際だからハッキリ言っておく。俺はクソが二度と生まれないように教育してやってんだ! お前とおんなじだよセントラル! 俺みたいな不幸な人間を生み出さないように協力してやってんだぞ!」

 ネズミの声が響いて消えた。

 立ち上がり、カラスを庇いながらもネズミから決して目を離さずに、肩を落としてため息をつく。大きくて深いため息だ。今にも殴り掛かりそうなネズミに、わかったと、たった一言呟いた。

「不幸は不幸で連鎖する。鎖のように連なっていく。だからね、誰かがどこかで断ち切らなければならない。アナタにそれができないのなら次の誰かに託すしかない」

 刀が飛んで鞘から抜ける。刃を鈍く光らせながら、センの手に納まる。

 急ぎ立ち上がろうとしたネズミの身体は硬直し、片膝をついた姿勢で固まった。 

「おい、待て! 待ってくれ! 言っただろ。俺は正しい事をしているって。確かに厳しくしすぎたかもしれん。だが、クソ野郎みたいな人間を増やしたく無かっただけだ! 俺みたいな人間を増やしたく無かっただけなんだ! 頼む。頼むから、許してくれ!」

 懇願し、泣き叫ぶ彼を見下ろす。刀を片手に持ったまま、時間だけが過ぎていく。

 嗚咽だけになった時、ようやくセンが口を開いた。

「いいよ。許すよ。私はね」

 センの言葉に安堵のため息が漏れる。良かったと、繰り返し呟くネズミに反して、センの言葉はやけに冷たいものだった。

「でもね。あの子はどうかな?」

 刀がセンの手を離れ、カラスの前で静止する。カラスは一度目を逸らしたが、それ以上迷うことなく刀を取った。

「おい待て。待ってくれ! 悪かった。全部お前の為だと思っていたんだ。そんなにもお前が辛いと思わなかったんだ。頼む。聞いてくれ! 俺だって本当は辛かったんだ! 厳しくし過ぎなんじゃないかって思っていたんだ。お前がそんなに辛いって思わなかったんだよ。まさか本当に殺す訳ないよな。お前よりも辛い目に遭ってきた俺を殺すのか? お前も辛かったかもしれんが、俺の不幸と比べたら全然マシだろ! 俺はクソ野郎のせいで酷い目に遭って来たんだ。俺は被害者なんだぞ。いいか! 俺は! 被害者なんだぞ!」

 ネズミに刀の先を突きつける。

 短刀は両手で握られながらも、目と鼻の先で小刻みに震えている。ネズミが何か言いかけた時、輝く刃を突き立てた。

 刃を引き抜き、再び手荒く突き立てる。ネズミの身体が伏せてなお、抜いては刺してを繰り返し、何度も何度も突き立てる。

 イヌが抱き寄せ私の目を覆う。優しくて温かい。ゆったりとした鼓動が高まった感情に安らぎを運んでくれる。

「落ち着いた?」

 カラスは肩を激しく上下させ刀を手放す。回転しながら刀は落下し、畳の上に突き刺さる。センの言葉に返事もせずに、カラスはその場に座り込む。その肩にセンがそっと手を乗せた時、横たわるネズミの影が消えて行った。

「見せてくれる?」

 カラスの手を取り袖を捲る。いったい何が見えたのか、腕を見たまま黙り込む。捲った袖を優しく戻すと、座るようにカラスを促し手を放す。

「痛かったよね。辛かったよね」

 引かれるままに座布団の上に座り込む。そして両肘を抱き締めると俯きセンから目を逸らす。

 刀が飛んで鞘に戻る。二人の間に線を引くように収まる。私はイヌの手を押しやると、自分の座布団に座り直した。

「ごめんね。気づいてあげられなくて」

「別に」

 消え入りそうな声だった。顔を背け一言だけで応える。

「ハロー。アナタにも最終幸福追求権が認められている。どうしても幸福になりえない人へのプレゼントだよ。私の力ではどうしようもない。もう人生に見切りを付けたい人の為に用意した。自らの命を絶つ権利」

 カラスが顔をあげる。金の環の目の瞳をもって、キツネの仮面を見上げる。センはおそらく微笑んだだろう。キツネは刀を両手に持って、カラスに向かって差し出した。

「アナタの人生なんだもん。誰かに支配される必要はない。アナタの意志で、アナタの心に従って。幸福に生きればそれでいい。アナタも、みんなも幸福に生きられる。そんな社会ならどれだけ良かったか。でもね。人が人である限り、みんながみんな幸福に、なんてなれっこない。だけど私は尋ねたい。アナタは今、幸福ですか?」

 答えなかった。おそらく答えられなかったのだろう。カラスは腕をほぐして刀を受け取る。膝の上に支え置き、短刀を眺める。

「どうしても幸福になれない人はいる。生きていたって希望が見えない人がいる。中途半端に励まして無理矢理生かしても、不幸はやっぱり不幸だから。ただ生きてるだけじゃ幸福じゃない。最終幸福追求権は人だけに許された、幸福を追求する最後の権利なんだよ」

 短刀を両手で握る。刃を鞘に擦らせながら刀を抜く。鞘を脇に置いた時、センがカラスの手を包み込んだ。

「でも、アナタの不幸が解決できるものだとしたら? もしよかったら聞かせてくれるかな。私にできることならなんでもするから。アナタのことを簡単に見捨てはしないよ」

「私は」

 弱く、か細く、しわがれた声だった。カラスは一言だけ言って、咳をする。

「大丈夫。アナタの好きなように話してくれればそれでいいから。それとも、また今度にしようか」

「平気」

 明瞭な口調で言った後、です、と遅れて付け加える。カラスが刀を手放すと、独りでに鞘に収まった。

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