第19話
「私はあの人に育てられてきた。知識としてはあったけどお母さんを知らなかった。今でも誰か分からない。あの人は厳しかったけど。でもそれが普通だって思っていた。それが普通だって言っていたから。でも嫌だった。痛かったし、恐かった。何度も逃げたいと思った。でも逃げなかった。逃げられなかった。
逃げたら怒られるから。それに逃げても人が怖かったから。誰に助けてって言えば良いのかわからなかったから。助けてって言った人がもっと悪い人かもしれないから。今より悪い事になるのなら、嫌でも我慢しなきゃって思ったから」
咳払い、から強く咳き込む。落ち着くのを待って、今度はセンが口を開いた。
「あの人が。居なくなってどんな気持ち?」
「分からない。でも、何も感じない。悲しくもないし、嬉しくもない。死んだんだ、って実感もない。帰ったら変わっていないような気がする。なに殺してくれてんだ、って。また怒られそう」
「大丈夫だよ。私が守ってあげるから」
「本当に?」
「本当だよ。これからはアナタの事をちゃんと見てるから。どこにいても傍に居る」
安心したのかのようにため息をつく。そして咳をする。その咳は肺の奥底に溜まった血の塊を吐き出そうとするかのようで、酷く荒れた激しい咳だった。
「戻ったらまずは病院にいかないとね。きっとすぐに良くなる」
センは笑った。おそらくカラスも。
静かに息を吸い込んでゆっくり吐き出す。そしてカラスは仮面を両手で包み込み外す。仮面をセンへと向けると、彼女に向かって差し出した。
「なんでもいい。困ったことがあれば、いつでも頼って。どんな些細な事でも、必ずアナタの力になるから」
「ありがとう」
カラスの仮面を受け取る。金の環の目を持つ黒の仮面は、刀と共に浮かび上がり音もなく静かに消えて行く。最後のひとかけらまで、すっかり消えてしまった頃、カラスの人の影は消え失せていた。
御簾が消えてセンが立つ。いつものキツネの仮面をしたまま私達に顔を向ける。イヌの人は私より先に立ち上がると、一足先に部屋を出た。
「お疲れ様。今日はいつもより長くなっちゃった」
何の気もなしにセンは言った。いつもと変わらぬ感覚で、いつもと同じ口調だった。それがなんだか不思議な感じで、やっぱりセンはセンだなと、システムなんだと思ってしまった。
「スズネちゃん? 大丈夫?」
「どうして?」
「ん?」
「どうしてカラスの人を止めなかったの?」
「どうしてって、そんなの。ネズミの人が他の人を不幸にしていたからだよ」
「他の人を不幸にしていたら死んでもいいの?」
座布団が宙に舞い上がる。合計七つの正方形の六つが消える。唯一残った一枚は、私とセンとの間に飛んで畳の上に落下する。センは正座で、俯く私の前に腰を下ろす。
「スズネちゃん、あのね。私はこの国に住む人全員に幸福になって欲しい。本当にそう思っている。人の不幸って言うのはね、他人がいて、初めて感じ取れるものなの。幸福は絶対的であるのに対して、不幸は相対的なもの。だから本当は人は孤独である方が、不幸だなんて感じ無い。でも、誰かの不幸を消すために別の誰かが消えるだなんて、それは新しい不幸が生まれるだけになってしまう。
だから私はあの人を、ネズミの人を許した。もしネズミの人が心を改め、再スタートしたいと言ったら、その時は可能な限り支援するつもりだった。そうやって、許してきた人も多くいる。どんな悪い事をした人でも、例外なんて一人もいない。全員を私は許して来た。許容し、理解できる人が、たとえシステムの私であっても必要だって思うから。
でもね。スズネちゃんもよく考えてみて欲しい。私が許したからと言って、その人自身がばら撒いてきた沢山の不幸はどうなると思う? 不幸を振りまいた人も確かに助けないといけない。でも本当に、最優先で幸福になるべきなのは不幸を受けた人達じゃないかな。
そう言う訳で、あの子にもチャンスをあげる事にした。ネズミの人から受けた不幸を晴らすチャンスを与えたんだよ。その事が将来、幸か不幸か、どちらに転ぶかわからない。受けた不幸を打ち消すだけか、それとも不幸をもっと深めるか。どう感じるのかは、今後のあの子次第。ただ、不幸を受けた本人が、あの子がした決断だから、きっと良い結果になるって信じている」
「でも、人を死なせるなんて」
反論しかけて口を噤む。
灯台に宿る炎は小さく弱く、キツネの仮面の下の瞳に暗い影を落としている。沈んだセンのその目には光のひとつも宿していない。
「人殺しは悪いことだと思ってないよ。殺さなきゃいけない事態に追い込まれたことが一番悪い。それは例えば環境だったり、他の人との関係だったり。一昔前ならおカネとかだった」
「でも」
「こんな聞き方、ずるいってわかっているけれど。もしも、スズネちゃんが不幸を受ける側だったなら。もしも不幸が、誰かが消えて解決できるものだとしたら。スズネちゃんも、きっと覚えがあるはず。だってここにいるんだから。
この人さえ居なければ。なんて感じた事が一度はあるはず。なんとかしたいと思ってる。だからどこでも好きな場所で、変わらない生活を送れるようにした。おカネを消して誰かに依存しなきゃいけない世界を消した。でも物理的に離れたって、できることには限界がある。受けた苦痛は消せないんだから。それが人の欠点なのかな。
本当なら、この国に暮らす人達に幸福になって欲しい。でも不幸を振り撒く人はいる。不幸を振り撒く人がいる事で、不幸を受ける人が増えるなら。誰かと誰かの幸福が競合し、どちらか一方しか救えないなら。不幸を受けた人の味方でありたい」
私は再び、でも、と言いかけて止めた。
胸に渦巻く感覚を、上手く言葉にできそうにない。センにはセンの意志と、そして立場がある。そこまで私には理解できない。想像だってしきれない。
猫の仮面を外して畳に置くと、センを置いて部屋を出た。
縁側に出る。雨は今も降っている。深紅の椿の八重の花弁に雨が当たり、奥へ奥へと流れていく。
雨音の中、猫の声が響いた。
ふり返っ見てみれば、やっぱりシズクだった。雨の届かぬ縁側で尾を足に巻き付け座っている。灰色の猫はたった一匹だけで、センの姿は見当たらない。青い瞳で私を見ながらシズクは鳴いた。
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