第17話

「まずは生まれてきた事。次に俺だった事。でも一番は、あの親の子であった事」

 御簾に映ったネズミの影に注視する。

「見てくれ、この痕。ほら。ここにも、ここも。こっちにも」

 服を捲りあげ、自分の身体を示す。御簾に阻まれ細かいことは分からないが、多くの傷跡が付いているのだろう。センが自分の前髪に触れると、顔を背けたように見えた。

「俺の父親は典型的な古いオヤジだった。酒、煙草、女、ギャンブル、そして暴力。そう、暴力。暴力だ。クソを固めてクソにした以上にクソ野郎だった。自分が常に正しいと信じて止まないクソだった。酒を飲めば酔って暴力。煙草を吸えば火で焼かれ、ギャンブルで大損すれば八つ当たり。いつも昼間からふらふら出掛けて、帰ってくるのは夜だった。上機嫌で何も無いのは女遊びの時だけだったよ。そうでなければ割を食うのは大抵俺だった」

 そう言ってから押し殺したように笑い出す。

「母さんは。まぁ、普通だった。昼間は仕事、夜はパートだったかバイトだったかをやっていた。朝と夕方は家だったのは俺がいたからだと思う。朝早く起きて支度して、俺と一緒に会社に行っていた。クソ親父が起き出すのはもっと遅い時間だったから朝は良かった。俺は母さんといろんな話をした。学校でどうだとか、勉強は難しいかとか、必要な物はあるのかとかな。

 俺はなるべく我慢したよ。子どもだったが状況くらい理解できる大人だったからな。鉛筆や消しゴムは落とし物を集めて使って、教科書は上級生から貰ったんだ。盗ったんじゃない。いいか、盗ったんじゃない。ノートは使わないプリントの裏を使った。だがな。勉強は嫌いだった。

 理由なんてわかるだろ? 母さんに無駄な心配を掛けさせたく無いが一つ。もう一つは、あんなクソみたいな大人になりたくないと思ったからだ」

 ネズミの笑いが溢れ出す。腹を抱え、身体を折り曲げてひたすら笑う。大丈夫かと、センが手を差し出すと、ネズミはその手を強く払う。

「大丈夫じゃねぇよ。お前がもっと早く行動してればこんな目にあわずに済んだんだよ。遅すぎんだよ。何もかもがな!」

 荒らげた声が響く。そして笑いの混ざるため息。

 センは手を引っ込めるも、至って冷静だった。ネズミに何か答える事無く、膝の上で手で手を包む。

 気づけば息を潜めていた。苦しささえも感じられるが深呼吸さえできない程に、空気は冷たく固まっている。思わず自分自身を抱きしめ肩を縮める。

「夕方だ。地獄は夕方にあったんだ。帰宅してクソが居ればクソだった。クソが居なくてもクソだった。学校の課題や宿題よりも、家事をしている時間の方が長かった。誰のおかげで生活できていると思っているんだ、俺はお前の親だぞ、敬意を持てって。それで飯の用意が遅れれば殴られた。用意しても少なかったら殴られた。不味くても殴られた。

 飯が終わってもクソなもんはクソだった。掃除しろ、肩を揉め、酒や煙草を買ってこい。未成年が買える訳ないってのにな。だがクソから離れられたのだけは良かった。

 クソな注文ばかりでも一番クソだったのは、カネを持って来いだった。クソは自分で稼ぐなんてしてなかったからな。誰のおかげで生活できているんだ、ってクソは言ったが母さんだ。全部母さんのおかげだった。

 母さんはクソにカネを渡そうものなら浪費するから、渡さないように気を付けていた。だがクソはカネを求めた。力でだ。母さんも俺も、身の安全を守るためだとカネを渡した。そうすれば奴は家に居なくなるからな。このままではダメだと、母さんはカネが無いふりをしながらコツコツと、貯金をしていた。俺の未来の為に貯めるんだってな。

 クソは最初は気づかなかったが、ある日気づいた。理由は知らん。気づかれないように口座を作って、そこにカネを貯めていたってのに。もちろんクソには引き出せない。だから俺を使ってカネをせびるなんて方法を思いついた。

 残念ながら母さんはバカじゃない。俺が学校を言い訳にカネを頼むと裏にクソがいるとすぐに気づいた。母さんはブチ切れた。と言うか覚悟を決めたってのが正解かもな。

 そして母さんは絶対味方だって。必ず守ってあげるからねって。俺に言ったんだ」

 気づけば声が振るえていた。静かに鼻を啜り上げ、目頭を仮面の上から強く抑える。笑っていたかに思えた彼はいつの間にか泣いているかのようだった。

「母さんは俺を連れて出ていく決心をした。クソが居ない内にってな。だがその時の俺達は、運に見放されていた。家を出る直前にクソが帰って来たんだ。意図に気づいたクソは母さんを殴り飛ばした。そして何度も何度も蹴った。

 クソは母さんを強引に台所へと連れて行った。何の為かはすぐにわかった。クソは包丁を持ってくると、容赦なく母さんを刺しやがった」

 彼は泣き出し鼻を啜る。時折嗚咽を漏らしながらも、震える声で彼は続ける。

「俺は逃げた。必死にな。靴も履かずに走ったよ。逃げて逃げて逃げまくって、辿り着いた公園で眠った。警察には行かなかった。助けを求めて連れ戻されたことがあったからな。もちろん学校にも行かなかった。定期的に移動してどこまで行ったか覚えていない。ただ逃げて逃げて逃げまくった。

 長い時間を外で過ごした。不便だらけだったが不安は無かった。クソが居なかったからな。それから何か月か、何年か過ぎたある時、風の噂で母さんが死んだと聞いた。クソはいったいどうなったのか。分からなかった。

 俺は家に戻らなかった。戻ったって嫌な思い出ばかりだった。それから更に時間が過ぎた。気づかないうちに自販機が減ったと思ったよ。公園に入り浸ってる連中もめっきり見なくなった。死んだか。それとも働き口で揉みつけたか。そう思っていた。だが実際はどちらも違う。働かなくても良い社会になっていたんだ。カネというものが無くなっていたんだ。

 体内端末を迷わず埋め込んだ。そして家を。安定した暮らしを手に入れた。それはもう、確かに幸福でもあった。だがな。いつも考えるんだ。

 もし、セントラル。お前がもっと早く動いていれば、母さんは無事だったんじゃないかって。死なずに済んだのじゃないのかって、毎日毎日考えるんだ。分かるな? 母さんが死んだのは、お前のせいだよ」

 泣き荒ぶネズミの姿に胸が痛くなる。

 この人も親に苦しめられてきたんだ。大人になっても思い出して泣くほどに、辛い体験をしてきたんだ。

 目を伏せる。シシオドシが鳴った時、センが静かに口を開いた。

「そうだね。確かにアナタの言う通り。もっと早く行動できていれば、沢山の人を幸福にできたのかもって思うことがある」

「そうだ。お前が悪いんだ。お前がもっと早く」

 でもね、とセンがネズミの言葉を遮る。

「いくら不幸だからって、誰かに不幸を振りまいても良い理由にはならない」

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