第16話

 雨とシシオドシの音に、少しばかり湿ったような畳の感覚。そして木の香りが漂っている。

 センを探す。

 部屋には居ない。ならば縁側かもと、私は一人で縁側に出る。

 雨が当たり砕け散り、飛沫が足元を濡らす。角を曲がったその先に、探していた人、つまりセンがそこにいた。

「シズクはいつ見ても可愛いなぁ、もう。あ、スズネちゃん。待ってて」

 手を離し立ち上がる。脇を抜けるセンの後ろを、シズクは尾を立て追いかける。大きな目で彼女を見上げる様子は、さながら恋人のようでもあった。

「ねぇセン」

「うん?」

「シズクに避けられてるみたいなんだけど」

「本当に?」

 頷いてからシズクを見る。シズクは私から目を背けると、袴の向こうに身を隠す。

「シズク。スズネちゃんだよ。恐くないよ」

 鳴き声をあげる。それはなんとも可愛らしく、か細い声で、不安ですとでも言うかのように鳴いたのだ。

 部屋に入る。センはキツネの仮面をだして、シズク、と一言呼びかける。シズクの姿がセンの影に消えて、猫の仮面が現れる。センから仮面を受け取ろうとした時、逃げるように飛び去った。

「これは本格的に嫌われてるね」

 影からシズクが顔を覗かせる。私が気づいて見てみれば、すぐに陰に隠れてしまう。

「ただのスズネちゃんだよ。シズク。大丈夫だから」

 消え入りそうな声で鳴く。もちろん私に対してでは無い。センに対して、だった。

「お願いシズク。後でオヤツあげるから」

 水平だった尾が持ち上がる。そしていかにも猫らしい声を出す。

 私の時はオヤツに反応し無かったのに、どうしてセンなら許されるのか。こればかりは納得いかない上に、面白くない。

 すり寄るシズクを撫でながら、ふと思い出したようにセンが言った。

「ところで今日のスズネちゃん、良い匂いがするね」

「良い匂い?」

「うん。何かの花なのかな。とっても甘くて、強い香り」

 花と聞いてすぐに思い当たった。

 青いバラを展開させる。いつもの木の香りを押しやって、バラの香りが部屋を満たす。灯火の燈の光を受けてなお、青の花弁は青を維持して、この手の中で揺らいでいる。

「これだと思う」

 シズクが鳴いた。間髪入れずにもう一度鳴く。それも結構大きな声で、目を見開いて鳴いている。センの意識が向いた時にはシズクは一人、立ち去っていた。

「ちょっといいかな。どこで手に入れたの?」

「人に貰った」

 青いバラをセンに渡す。彼女は花を取ろうとして、慌ててその手を引き戻す。大きな棘にやられたらしい。しなやかな指先に小さな傷が付いて、深紅の血が膨らんでいた。

 今度は手を触れる事無く、バラの花を持ち上げる。今までになく真剣な顔つきでしばらく花を眺めると、小さな櫃を出現させた。

 何をする気かと思っていると、センは櫃にバラを入れる。重たい蓋が独りでに閉じると、金具が降りて錠が掛かった。

「セン?」

「気になることがあるから預からせて貰うね。たぶん花の匂いが嫌だったんじゃないのかな。ほら見て、シズクが戻ってきた」

 暗がりの中からひっそりと戻ってきたと思ったら、私に背を向け腰を下ろす。大きく口を開けると、身体を舐めて毛を整える。センがシズクの名を呼べば、すぐに立って彼女の袴の後ろに消えた。

 猫の仮面が現れる。それはセンの手に納まった。

 差し出された仮面を受け取り身に着けると、椿の襖が開かれた。

 イヌの仮面の横に座る。

 サルが居ないことを除けば昨日と同じ光景だった。思えば、ここにいる人達は皆、死にたくなるほど辛いことがあって呼ばれたはずだ。タヌキもキジも、サルはどうだか分からないが、おそらくこのイヌの人もだ。

 キツネの仮面をつけたセンが前に立つ。今日はネズミが立ち上がる。

 痩せ型の男だ。髪は長く、荒れている。仮面の横から見える頬には無精髭が生え揃い、肌は青白く、痩せている。極端な猫背から腕が力無く垂れさがり、曇った瞳で周囲を見渡す。

 促されるままネズミは座る。胡坐をかいて、だが猫背のままで。曲がった背筋の延長から、突き出るように顔がある。姿勢も良く、なおかつ正座のセンに対して、ネズミの背丈は遠く及ばず、いよいよ顎を突き出して見上げるように対面していた。

 白鞘の短刀と、御簾が現れる。短刀がネズミとキツネの間を阻み、御簾が私達とセン達とを阻む。灯台によりキツネとネズミが照らされて、御簾に影が映り込む。灯火さえも固まって、雨の音が響く中で誰も彼もが無言であった。

「いつでも良いよ」

 長い長い間をおいて、沈黙を破壊するべくセンが言った。

「アナタが思ったように話してくれればそれで良いよ」

 もう一度、沈黙。それも恐ろしいほど長かった。センの言葉が聞き取れなかったのか、それとも伝わっていないのか。いずれにしても反応が無い。居心地が悪い事この上ないが、逃げ出すのはもちろん、座り直すほんの少しの動作さえも躊躇われる程、固く苦しい空気であった。

「大丈夫?」

 数分が十数分に感じられるほど、長い時間が経った気がした。改めてセンが大丈夫かと、ネズミに尋ねるもやはり反応は無い。

 もしかして寝ているのでは無かろうか。そう思った時だった。

「飯田義信、三十二歳」

 それだけ言って黙り込む。下からセンを見上げるように、上からネズミを見下ろすように、無言のまま互いに視線を交わす。

「何か悲しい事があったの?」

「悲しい?」

 悲しい事悲しい事と、口の中で繰り返し呟く。彼は再び無言になってしまったが、今度はすぐに口を開いた。

「まぁ。沢山あった」

「良ければ、聞かせてくれるかな?」

 ネズミはしばらくセンを見上げると、座り直して姿勢を正す。背筋さえ伸ばせば胡坐をかいたままでもセンと変わらぬ視線の高さだったが、結局は極度な猫背によって下から見上げる体勢となった。

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