五
第9話
髪を一つにまとめる。原因不明の跳ねた髪を隠すため、ハンチング帽で上手く誤魔化す。
私の中の端末が意図を理解し、天気予報を表示させる。
晴れ、晴れ、晴れのお出かけ日和だ。滅多に外を出歩かないが、約束したから、たとえ雨の中でも向かう気だった。
黒のスニーカーに足を突っ込み、長い靴ひもを結い上げる。右も左も固く結んで立ち上がると、シズクが傍に現れた。
ルームサービスに見送られ、私は家の外に出る。私の体内端末と連携された建物は、既にエレベーターを用意して、扉を開けて待っていた。
扉が閉まる。私とシズクを乗せた箱は、操作も無しに降りていく。三十余りの階層と、地下数階分をノンストップで突っ切る。圧力すらも感じさせず、静かに箱は停止した。
木の温もりに包まれた地下を歩いていく。
無数の柱に支えられた空間は、かつての地下鉄を利用している。都市圏に限られていた地下鉄網は全国にまで拡大されて、各駅間は列車に代わって自動車が結ぶ。
数秒間も待たずして一台の自動車が走り込む。音も静かに速度を落とし、私の前で停車する。
扉と共に、安全柵が開いていく。点滅する警告マークが消えるのを待って車に乗ると、一緒にシズクも飛び乗った。
完全無人の自動車は私の体内端末と連携し、目的の場所を読み取った。フロントモニターに地図とルートと到着時間を映しだす。見た所、所要時間は三十分程だそうだ。
自動車は扉を閉める。来た時と同じように音も静かに走り出す。
シズクは私の足元でのんびり身体を舐めている。
ツンツンと、センに言わしめた全身の毛は気づけば元に戻っていた。シズク自身が戻したのか、はたまたセンが直したのか分からない。どちらの可能性もあり得るが、舐めた先から乱れる様子を察するに、きっとセンが直したのだろう。
ゴーグルは置いてきたからゲームはできない。だから一冊の本を出す。
読み途中の失われた地平線だった。
揺れも騒音もほとんど無い車の中でページを捲る。
生き字引とも言える住民達。主人公は、かの音楽家ショパンの直弟子を名乗る者から未発表の作品を学び、またある者は金鉱山を発見し開発を望んだ。
シャングリ・ラを統べる僧の頭領、大ラマは、主人公らの行動を止める事無く好きにさせた。思うがままに、思う通りに。望むがままに、望む通りに、好きにさせた。
迷い込んだ一行は暮らす内に、この地を好きになっていた。美しい音楽、風景、美味しい食事に幸福に暮らす人々。嫌いになれるはずが無い。たった一人を除いて、だ。
時間は瞬く間に過ぎた。
通知が届く。間もなく到着する合図だ。減速していく感覚がひかえめながら感じられる。車の外は見えないが、駅のホームに着いたのだろう。完全に停車すると、自動で扉が開かれた。
本を消して車を降りる。誰も居ない駅構内から地上階行きエレベーター、及びエスカレーターホールへ向かう。
海と描かれた壁画には無数の魚が描かれている。拡張現実によって壁の魚は動き出し、私の周りを泳ぎ出す。
シズクは魚が気になるらしい。
歩きながらも後ろ足で立ち上がっては一生懸命捕まえようと、やたらパンチを繰り出している。残念ながら魚はシズクよりも俊敏だった。煽るように近づいて来ては散開し、また集まってはシズクの鼻先を掠めて泳ぐ。
扉を開けて待機していたエレベーターに乗る。周囲を泳いでいた魚達も、ついでにシズクも一緒に、皆乗り込むと扉が閉まる。
ネイビーブルーの暗い照明の中で魚は踊る。踊る魚に魅せられて、猫は見事に踊らされる。見ていて滑稽な姿だが、当の本人は気にも留めずに小魚を追う。
小さな泡沫が浮かぶ。
散っては集いを繰り返す、平和な小魚の群れに大きな魚が突っ込む。
群れは散り、猫は隅へと駆けだす。
大きな魚は次から次へと現れる。小魚の群れは、大きな魚に次から次へと追われて消えた。
低い音が私の身体を突き抜ける。音は歌とも呼べそうな、同じフレーズを繰り返す。
あまりに巨大で気づかなかった。
二つの魚影が遅々とした動作で、上下に身体をうねらせ泳ぐ。特徴的な尾びれの形を一目見ればすぐ分かる。クジラ、それも世界最大級の哺乳類、シロナガスクジラだ。
仲睦まじく同じ方角に頭を向けて、互いに寄り添い泳ぐ。楽し気に歌を歌いながら、魚もシズクも、この私さえも歯牙にも掛けず、怖れる事なく泳いでいく。
エレベーターは疑似的な海水面に浮上する。穏やかな波間の奥で、クジラの噴気が高く上がる。
予報通り晴れだった。澄み渡る空は雲一つなく、既に燈色となっている。
傾きかけた太陽から細く白い線が延びる。赤道上空を取り囲む環状人工衛星の、スターリンク衛星群だ。
元はどこぞの国の企業が打ち上げた通信衛星だったらしい。今では軌道エレベータと接続し、絶えず資源を地球上に送っている。
かつての洋上の港と同じく、衛星上には多くの人が集まっているそうだ。労働者から雇い主まで幅広く。また生活をサポートするための各種商業施設に、癒やしをもたらす娯楽施設まであると聞く。世界で最も活気あふれる場所は、宇宙と言っても過言でなかった。
視線操作で地図を呼び出す。目的地を示すアイコンは、今いる場所のすぐ近くだ。センに聞いたこの場所は、愛知県の港湾地帯、正式な名で名古屋市にある港区だ。
地図を視界の端に追いやる。邪魔にならない位置に出したまま公園内を歩いていく。
手入れの行き届いた草花に、広葉樹が海の風に揺れている。塩っぽさを含んだ香りに、若干の磯臭さが混ざっている。
すぐに海が見えてきた。
私の興味を認識し、端末が子細な歴史知識を表示させる。
まだ自動車が人の手により地上を走り回っていた頃、日本でも随一の港だったらしい。貿易額なら首都圏をも抜いて、日本一の港となった。主な産業は自動車および関連部品で、トップの座を数十年も守り抜いたそうだ。
海と公園に挟まれた散策路から逸れる。私と自由な一匹は茂る木々の間を分け入っていく。地図に従い進むと、小高い丘が見えてくる。
芝と背の低い花が咲く。木は周囲にしか無く、唯一丘の頂上に老木が生えているのが見える。
丘を登る。緩やかながらも足場は悪い。日頃の運動不足も相まって、着いた時には息が上がっていた。
それは大きな葉桜だった。ソメイヨシノとは違うらしい。丘を囲む木々の頭越しに燈に輝く海が見える。
「来てくれてありがとう」
見ればセンが立っていた。夕陽の中で微笑みながらも、その表情には影が落ちる。
「良い所だね。とても綺麗」
「あの人が好きだった場所だもん。私もこの場所が好き」
センが桜の木に触れる。
葉の中に仮想の蕾が膨らんで、淡い桃色の花が開く。それは綺麗な花だった。次から次へと乱れ咲き、緑の枝葉を覆い尽くす。
「みんな好きな場所だった。きっとアナタも好きになると思う」
満開の桜の花が潮風に揺れる。揺れる度に花が舞う。不規則に舞う花弁は、芝生を桃色に染めていた。
ロボットが近くで止まり花を差し出す。
仮想では無く本物だろう。見事な八重の椿であった。
椿の花を受け取る。ロボットはタイヤを回して静かに下がる。私はセンに目を向けた。彼女は優しく微笑み返す。
老木の前で膝をつく。
センがやって見せた通りに、椿の花を両手で添える。赤く立派なその花は夕暮れ時の陽ざしを受けて、一層赤く染まって見えた。
私は静かに手を合わせる。
波と風の音に海の香り。膝から伝わる草と土の感覚。
目を開けると改めて、ありがとうと、センが言った。
「スズネちゃんが居てくれて良かった。私じゃニセモノの花しか添えられないから。これで喜んでくれると思う。せめて椿の花のように、いかなる時も皆が共に過ごせますように。それが幸福でありますように」
センはキツネの仮面で顔を包む。
私は声を掛けようとした。しかしできなかった。何と言えば良いのか、掛けるべき言葉が分からなかった。
シズクがセンにすり寄る。センは反応しなかった。シズクはセンに大きく鳴いた。センは初めてシズクに気づくと、両手で優しく抱き上げる。
撫でるに合わせて喉を鳴らす。それはとても心地よさそうに、大きな目を細めている。灰色のマイペースな尾は大人しく、先端だけが穏やかに揺れる。
「忘れないでいて欲しい。苦しくて苦しくって、辛くって辛くって、どうしても、どうやったって、どうしようも無いようなとき。アナタには逃げ道がある。それは人だけに許された、幸福を追求する最後の権利だってことを」
ひとしきり撫でてからシズクを芝生に戻す。大きな目で見上げるシズクの頭をもう一度、優しく撫でるとキツネの仮面を取り去った。
「セン、聞いてもいい?」
「うん?」
「センもいつかは死んじゃうの?」
センは一瞬だけ目を見開く。すぐに穏やかな笑みを湛えるも、髪が目元を隠していた。
「私はシステムだから、死にはしないよ。でも、私の記憶を狙う人が今も居る。時々不安になるんだよね。もしも記憶を失ったなら私は一体どうなるんだろうって。誰も居ない暗闇の中、誰にも気づかれない中で、私が消えてしまうのかなって。思うよ」
「私がセンの傍に居る。絶対、今日みたいに」
シズクが鳴いてアピールする。澄み切った青い瞳を輝かせ、大きな両目で見上げている。
海からの風が強く吹き、センの髪を風が掻き上げる。桜の花弁と一緒に、青い空へと吹き抜けた。
「ありがとう、すずねちゃん。シズクも。私は人と違ってできる事は少ないけれど、困った事があれば相談してね。私、スズネちゃんの為なら、なんでもするよ」
笑顔だった。今度こそ本当に、陰りの無い笑顔だった。
「そろそろ帰ろっか。せっかくここまで来てくれたんだし、スズネちゃんさえ良ければ近くに部屋を用意するけどどうかな」
願っても無い申し出だった。迷わず首を縦に振る。せっかく港まで来たのだから、少しばかり散策しようと考えていた所であった。
「わかった。部屋を用意する。ついでにゴーグルも新しいのを用意するね」
いたずらっぽく笑って見せる。それはとても楽し気で、いつものセンに戻っていた。
満開の桜の花が吹雪く中、深紅の椿が輝いている。灰色の毛玉が私の足元に来ると、早くいこうよ、と大きく鳴いた。
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