六
第10話
丘を下る。木々の合間をまた抜けて、散策路へと戻る。ふり返って見てみれば、花咲く桜がまだ見えた。
寄せては返す波の音、どこかで鳴いている鳥の声、得意げに先導するシズクの尾を眺めながら、ポケットに手を入れ私は歩く。
消波ブロックに包まれた堤防の先まで行ってみようか。それとも水族館を覗こうか。波止場に停泊している砕氷船も、回る観覧車も気にはなる。
当てもなく。目的もなく。誘う尻尾に導かれながら散策路を行く。
手を繋いで歩く、母親と幼い女の子とすれ違う。
見て見てと、シズクを指さし、猫さん、と母親を見上げて報告をする。舌っ足らずな拙い口調で嬉しそうな少女に対し、母親は、ほんとだねと、笑って言った。
シズクは益々得意になって鼻高々に歩いていく。水平線上に沈みかけた深紅の大きな太陽は、灰色猫から足の長い黒猫を産みだしていた。
適当なベンチに腰かける。海が見える場所だった。
シズクがベンチに飛び乗った。私の隣で腰を下ろす。灰色の長い尻尾を揺らしながら、私と一緒に海を眺める。
「シズク。お手柄だった」
シズクは反応しなかった。ただ私の傍で赤に輝く海を見つめる。そっと手を伸ばしてみれば、自分からすり寄ってくれた。
例の本を出す。
まだ序盤だと思っていたが、物語は既に佳境のようだ。本の残りはもう薄い。
主人公ら四人は成り行きで訪れたユートピアを、去るか去らないかで割れた。シャングリ・ラを地獄みたいだと言い放ち、現地の少女と脱出を望む者。まだやるべきことが残っているとして、帰るつもりなど毛頭ない者。
彼らの間に挟まれて主人公は揺れた。残りたいと思う反面、帰りたいとも思ったからだ。結局主人公は情に流れた。流されたから、帰還を手伝うと申し出た。
本を閉じる。一冊の本を読み終えた少しばかりの達成感と、登場人物達の感情の潮流が、言葉を介して心の堤防へと打ち当たる。砕けた波は光の粒子に変わり果て、堤防を越えてなお光をもたらす。
この本を読んだアナタにおすすめの本として、いくつものタイトルが並ぶ。虐殺器官、蠅の王、そして一九八四年だ。
いずれも読んだことはない。未読の本から選ばれているから当然だった。
私は一九八四年と、蠅の王との間で迷った。迷いながらも一九八四年を選んだ。大した理由なんてない。好きなステルスゲームに影響を与えたらしいからだった。
ダウンロードを終えてから本はすぐに現れた。不穏で不気味な片目のイラストが表紙を飾る。思ったよりも少し厚い。それなりの重みを感じられる。
表紙に指を差し入れた時、街灯の光がやけに明るいと気づいた。
本を消して立ち上がる。既に海の向こうへ陽は落ちて、上弦の月が輝いている。背の高い街灯と、足元の灯りが直線的な散策路をどこまでも照らす。
地図を出す。センが取ってくれていた部屋の場所を確認する。少しばかり距離があるが、車を使う程ではない。
シズクが立ち上がる。両前と、両後ろ足を突っ張って、腰から後ろへと身体を伸ばす。大きな欠伸を一つして、音も立てずに飛び降りる。青色の瞳の中に月の光を宿しながら、着いて参れと言わんばかりに私の前を歩き出す。
打って変わって夜の海は、全く違う顔を見せた。夜空に浮かぶ星々は水平線上まで輝いている。風は強くなり、少しばかり肌寒い。
結んだ髪が風に揺れる。合わせて木の葉が音を立てる。木の葉の音は波の音とも混ざり合い、風の音として耳に届く。悪戯好きな潮風は、シズクのように何度も帽子にじゃれついた。
目で追いながらシズクに続く。夜は自分の時間だと、言わんばかりに生き生きとして見える。昼なら目立つ灰色の毛並みも夜の中には綺麗に溶け込み、少しでも目を離そうものなら、再び見つけ出すのは極めて至難の業だった。
隠れ上手なシズクと悪戯好きな潮風の、無邪気な二匹に悩まされながら、光に満ちる散策路を進む。風の音だけが聞こえる静かな海沿いの道に、前触れもなく、本当に急に、眩い閃光と乾いた音が鳴り響いた。
驚き思わず足を止める。暗順応する視界の中に、光の主の影が浮かぶ。目に焼き付いた光を払うと、風が帽子を攫って行った。
影は海に向けていたカメラを下ろす。
あまりに巨大で不格好な、時代遅れの代物だ。私の中の端末が教えてくれなければ、カメラだとは気づけなかった。大きなレンズに特徴されるカメラは、一眼レフのフィルム式だと映っていた。
「これは、アナタのですか?」
影が帽子を拾い上げる。聞き慣れない言語であった。
リアルタイムに翻訳された言葉はおそらく英語だ。ゲームや映画でよく聞く言葉と、同じような気がしたからだ。
影が帽子を持って街灯の光の下に入り込む。服越しからでも見て取れる筋肉質の体つきに、陽に焼けて赤みを帯びた肌を持つ。ひと回り。いやふた回りほど、年上に見える青年だった。
砂を払い帽子を差し出す。
眼鏡に似せた、入国者グラス越しに見える瞳はシズクより淡い青色だった。シズクが海の青ならば、彼は空の青だった。
見ればシズクは尾を膨らませ、鋭い眼つきで見上げている。今にも飛びつきそうなシズクに、やめて、と強めに言った。
青年は私の視線の先を見る。少し首を傾げると、私を見てからもう一度見る。
シズクはいよいよ背を丸め、威嚇しながら目を尖らせる。私は帽子をひったくるように受け取ると、向きもよく見ず頭に乗せた。
急ぎシズクを抱き上げる。大きな声で鳴きながら、強い力で暴れまわる。腕は爪に裂かれ、牙が喰い込む。私は無理にシズクを抑えながら部屋へと走る。
原因なんて分からない。シズクだからか、猫だからなのか。皆目見当も付かない。確かに突然だったとは言え、カメラのフラッシュにここまで怒るものだろうか。
ブラウザを複数同時に展開し、思考操作で検索をかける。
痙攣や、失明などの恐れがあるとの記事が並ぶ。猫の目は人より光を取り込みやすいから納得できる。だから怒って暴れているのだろうか。
待っていたエレベーターに飛び込む。目的階に向かう途中、センにメッセージを送る。扉が開くに合わせて飛び出し、私の部屋に駆けこんだ。
耐え切れなくなり、ついにシズクを投げ出す。綺麗に身体を宙で捻り、見事に脚から着地する。自由になると間髪入れずに背中を丸め、全身の毛を逆立て威嚇する。
両膝をつき、手を見せる。
いい子だから、落ち着いて。
そう言った時、シズクは私に向かって走り出した。
三、四メートルしかない距離を一気に駆ける。深く踏み込んだと思ったら、大跳躍を披露する。両前足には鋭い爪が、開けた口には長い牙がすぐ目の前に迫ってきた。
咄嗟に目を閉じ手で覆う。
一秒、二秒、三秒と、時間だけが過ぎていく。いつまで経っても痛みは来ない。固く閉ざした目を開けると、すぐ目の前に白と緋色の巫女装束の後ろ姿がそこにあった。
「大丈夫だよ。恐くない。もう恐くないよ。ほら、私もここにいるから」
腕に噛みつき爪を立てるシズクに、恐くないよと繰り返す。
センの腕に傷が付く。血が膨らんで半球状の深紅のドームを作る。ドームはやがて雫となって、腕から肘へと伝っていく。
袖に赤い染みが滲み上がる。瞬く間に広がって、大きく目立つ染みとなった。
興奮した猫の息遣いが薄れていく。膨らんだ尾は徐々に縮み、硬くなった身体には猫特有の柔らかさが戻ってくる。
シズクの身体を優しく撫でる。繰り返し何度も何度も撫でる。
センの腕から口を離す。右足、左足と床に着き、自分の身体を舐める。ベッド下へと潜り込むと、暗がりの中、シズクは身体を小さくしてうずくまった。
「スズネちゃん。大丈夫だった?」
差し出された手は血まみれだった。センは初めて気づいたようで、自分の手を見て反対の手を出す。私はその手を確かに取ったが、力を込めたセンの手は私の手からすり抜けた。
「そうだった。ごめんね。私からは干渉できないんだった」
大丈夫と、私は手をつき立ち上がる。ルームサービスが出した椅子に倒れるように座り込む。
センの指示で、湯気の立つ紅茶が運ばれた。カップを取ろうとした手には、擬似的な傷が跡を残し、酷い痛みを放っている。
噛み傷や引っかき傷が付いた手をセンが包み込む。優しく、そして温かな。包むその手が離れた時、私の傷は癒えていた。
「ありがとう」
センは笑みを浮かべる。そして巫女装束の袖を肩まで捲ると、傷口と流れ出た血を消し取った。
「あんなに怒るなんて、とても嫌な事があったと思う。スズネちゃん、シズクが怒っているのに何か心当たりはある?」
「カメラのフラッシュなら」
「フラッシュ?」
「うん。外国の人が写真を撮っていた。シズクが怒りだしたのはその時だった」
クラウド上に一時的に保存された記憶ファイルを動画形式で開く。私が見聞きしたイメージ記録を巻き戻し、その瞬間をセンにも見えるように向きを合わせる。
風波の音。黒くおぼろげな視界の内には、海沿いの道を歩くシズクが映る。足音が鳴る度上下に揺れて、散策路を照らす街灯が流れていく。
足元ばかりを見ている視界は、長い前髪も相まって極めて狭い。分かるのはシズクが歩く姿だけだ。我が輩に着いて参れと、言わんばかりの態度ながらも頻繁に振り向いている辺り、シズクなりの思いやりを感じさせられる。
モニターが光る。
目が閉じられ暗転する。そこから先は記憶にある通りであった。
「シズクはね。本質的にはプログラムだけど、私が私を解析して造られている。大きく分けて二つの要素。論理と感覚、つまりロジックとデザインの、二つのシステムによって動いているんだ。
論理は理性、意識とも呼べる部分だね。原因があって結果が返る。同じ原因なら同じ結果が必ず返る。正解のある問いを処理するのが論理の部分。古くからコンピューターが得意とするところだね。
対して感覚は、同じ問いでも違う結果が返って来る。二足す二は四じゃなく、五にも六にもなっていく。時間と人と場所や諸々変化すれば答えも変わる。不確定で曖昧な、複雑な感情の部分。
私を解析して作ったって言ったけど、本当は私も自分の事がよく分かっていないんだ。論理の部分は簡単に解析できる言語だったから、ほとんどは理解できている。でも感覚の部分は全然だった。
全く使われた事の無い言語でね。そもそもコンピューター言語かどうかも分からない。外部からの刺激に対して、上がったり下がったりするパラメーターがいくつもあるのだけは確か。この値が感情として現れているんじゃないかなって思っている」
ベッド下に目を向ける。相も変わらず縮こまり、背を向け座っている。尾も耳も顔さえ隠し、見えるのは丸くなった背だけであった。
「だからね。分かっていない部分がシズクにはある。今は落ち着いているけれど、もし心配なら私の方で預かろうか?」
「いいよ。大丈夫」
「本当に? 無理していない?」
「平気。だって猫だもん」
明瞭な口調で言ってのける。それを聞いてセンはいつもの笑みを湛えた。
「わかった。シズクはスズネちゃんに預けるよ。私を頼ってくれて嬉しかった」
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