第8話
「二人が同時に家にいる時は、夜なら自室へ、昼なら公園へ逃げていた。大きくなれば図書館へ、喫茶店へ、ショッピングセンターへと移って行った。家に居場所はあるはずなのに、あの人にはどうしたって耐えられなかった。
そんな日々を送っていたある日、友人から遊びに誘われた。遊びにって言っても旅行じゃないよ。夜の街に誘われた、で伝わるかな。
高校生のあの人はね。部活をやっていなかった。だから勉強が終わった後、その分時間が沢山あった。でも、家に帰るのが嫌だったから、二つ返事で誘いに応じた。
夜の街はあの人にとって初めてばかりの経験だったみたいでね。大音量の音楽に、暗い室内で赤青緑に輝く照明、そして密着しながら踊る大勢の男女。最初は腰が引けていたあの人も、徐々に空気に呑まれていった。
一日だけのはずが、次の日、またその次の日と続いていった。日が経つにつれ、帰宅時間も遅くなった。当然両親は心配をした。でも二人の親の心配は怒りとなって、互いに互いへと向けられた。父親は、母親が不甲斐ないからだと言って。母親は、父親が父親らしく言ってやらないからだと責めた。
喧嘩は更にエスカレート、あの人は益々家にいる時間が短くなった。今はもう滅多に見かけ無いけど、体にとって有害なお酒や、煙草に手を出し始めた。新しい友人も増え、衣服の好みも大きく変わった。
両親はあの人の異変に気づきながらも、寄り添うことはしなかった。互いの喧嘩が進むばかりで、あの人は常に蚊帳の外だった。
快楽の為に悪いクスリにも手を出した。そして見ず知らずの他人と毎日のように行為に及んだ。今以上に制御できない頃だったから不本意ながら命を宿してしまった。
事態に気づいた学校はあの人を見捨てた。店への出入りにお酒や煙草、クスリに行為に至るまで。法律と学校の規則に反する行動だったから、学校はあの人を容赦なく切り捨てた。それも悪者のレッテル張りをした上でね」
センは雨降る池に船を浮かべる。揺れる船に乗り込んで、私に向かって手を差し出す。
私はセンの手を取り船に乗る。私達が向かい合って腰を下ろすと、船は静かに滑り出した。
「あの人は優しい人だったから、悪者の自分が嫌いになった。痛みは全て哀しみとなり、そして憎悪へ変化した。憎悪はどんどん大きくなって、自分とお腹の中へと向けられた。
心の傷はあの人自身の手によって、一つずつ実体化した。カッターナイフがあればカッターナイフで、ハサミがあればハサミで、どちらも無ければ鉛筆で爪で、自分で自分を、膨らむお腹を傷付けた。
流れる血を見た両親は驚いて、何かと世話を焼いてくれたんだって。だからその時だけは両親の喧嘩は収まった。でも傷の治療を終えた後、結局喧嘩が再開された。それも以前に増してより激しく、ね。
あの人はまた自分を責めた。そして刃物に手を出した。自分で自分を傷付けて、溢れ出す血を、痛みを感じていると、落ち着くんだって。悪い自分を自分で罰して、罰したのだから許される。許されたから両親が喧嘩せずにいるのだと思っていたみたい。
悪い努力の甲斐あって、良くも悪くも流産をした。それがどれだけ辛いことだったのか、私にはもう測り切れない。小さくて、両手で抱える程なのに。立派に人の形をしていた。赤色をした液にまみれた大きな頭。ポッコリとしたお腹に手足が着いて、泣きもせずにぐったりと横たわっていたって。
何が良い事で何が悪い事なのか、全く判別できなくなった。頭の中にあったのは、全て自分が悪いのだと囁く声だけだった。
深夜の内にベランダへと出た。誰の助けも借りないで高い手すりの上に立った。恐怖は感じなかったんだって言っていた。一度飛んだら楽になれる。解放される。そう信じてあの人は一人きりで、堅いアスファルトへと飛んだ」
椿の花が流れてくる。赤色をした花だった。纏まった花弁は小さな船のようになって、雨降る池の水面に浮かぶ。私達の乗る船は椿の花を掻き分けながら進んで行く。
「もしこれで終わりならば幸せだったって、あの人は言っていた。私だってそう思う。でもあの人はね。運悪く、助かってしまった。
高さが足りなかったのかもって言っていたかな。それか当たり所も悪かったのかも。気づけばベッドに横になっていた。寝かされているのは理解できるのに、指先一つ、目を開ける事だってできなかった。頭だけが、意識だけが覚醒した状態になっていた。
音は聞こえていたから自分が植物状態だって医者の言葉から知ったみたい。今後目覚める見込みは薄いがどうするかって、あの人の両親は結局ここでも意見を違えた。
父親は延命を。母親は楽にさせてやりたいと、それぞれ言った。当然喧嘩になったけど、医者が二人を仲裁し、なんとか母親を説得した。今後覚醒する可能性があるのだから、容易に諦めるべきではないってね。
それから一年が過ぎ、二年が経った。あの人は寝たままだった。そして三年が経ったある日、母親が亡くなった。毎日のように来ていたから、すぐに気づいたみたい。
あの人は泣いた。動きもしない体の中で、涙を流すこともなく泣いた。別れの言葉もまともに伝えられなかったから余計に悲しんだ」
センは水の中に手を差し入れて椿の花を掬い上げる。
「それから更に二十年もの月日が過ぎた。その間社会は大きく変わった。経済主体の社会から人間主体の社会となった。かつて人が担っていた仕事と呼ばれる全てにおいて、私達システムが肩代わりするようになった。
もちろん医療についても大きく進展した。人が健康にある程度さえ気を付けているならば、病気の大半は治療可能となったし、手術の成功率も跳ねあがった。
でもね。その病気の原因が、もし精神から来るものだったらどうなるか。どれだけ身体を物理的に治療しようと、根本的な解決にはならない。一度治ったように見えても、すぐに再発してしまう。それも重篤な症状で、ね。
あの人はまさにそれだった。二十年もの時を経て、身体は既に治っていた。生々しい傷跡が残るくらいで、身体は正しく機能するはずだった。でも目覚めなかった。そこで体内端末を埋め込んだのが、つい最近のこと。
あの人と私は電子の世界で初めて会った。ボロボロだったよ。眠った身体の意識の中で、あの人はずっと自分を責めていた。たった一人の暗黒の中で、自分に対する憎悪だけが膨張し、押しつぶされてしまっていた」
船は止まった。池に浮かぶ小さな島に降り立つ。紫色の小さな花が咲く中を、センに着いて歩いていく。小高い丘の頂上で桜の花が咲いている。白く淡い桃色の花の下で彼女は止まった。
「これがフィクションだったらどれだけよかったか。アナタもそう感じたと思う。でもね。似た境遇の人達は少なからず実在する。物質的に豊かになった現代社会で、嘘みたいに不幸となった人達が。
私は皆に幸福を感じてもらいたい。幸せになって欲しい。でも救いきれない人もいる。
だったらせめて不幸を終わらせる選択を、逃げ道を、用意してあげないと。立ち向かえ、なんて言えないよね。他人事になっちゃうもん」
桜の花散る木の元に、椿の花を添える。それは真っ赤な花だった。花弁の一つも欠けることなく雨の雫に濡れていた。
「ここはね。あの人の好きな公園に似せて作った、ちょっと特別な場所なんだ。あの人が見つけて二人を誘って。お父さんと、お母さんと。みんなで出かけた唯一の楽しい思い出の場所だって。この時だけは良く見つけたね、綺麗だね、って。二人とも、あの人も入れて三人とも、みんな笑顔だった。たったひとつの記憶だって」
キツネの仮面を消す。凛とした、と表現できるセンの顔に、桜の花の影が落ちる。湿った土に両膝をつき、手を合わせると両目を閉じた。
「本当は本物の花を添えることができれば良かったけどね。私は結局システムだから」
「私がやる」
口を突いて出てきた言葉に、自分自身で驚いた。もちろんセンも驚いた。
「いいの?」
「うん」
「本当に?」
「いいよ」
センは私を見上げる。見上げた顔は笑っていた。微笑みとはまた違う。センの笑顔は少女のように、ずっと幼い少女のように、とびっきりの笑顔であった。
「スズネちゃん。ありがとう」
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