第7話

 荒れた大地を埋め尽くす軍勢が雄たけびと共に押し寄せる。魔族と蛮族、そして不死の存在からなる大群を、たった一人で迎え撃つべく立ち上がる。

 銀の髪の少女が見据える遥か先で不滅の魔神が待ち受ける。不老不死の魔法に加え、尋常ならざる魔力を有し、ありとあらゆる生命体を再生させる能力を持つ。

 魔神は赤い刃の剣を抜く。

 少女は青い刃の剣を抜く。

 夕暮れ時の太陽が赤く世界を染める中、少女は自らの身体を雷に変えた。

 雷鳴が轟いた時、やっぱりシズクがやってきた。まだ眠そうに頭をなんとか持ち上げながら、半開きの目をしている。まだ寝ていれば良かったのにと、私はゲームを一旦止めた。

 全身の毛という毛が捻れ、纏めあげられている。激昂したハリネズミにも近く、思わず吹き出しそうになる。

 好き放題にしていた罰だが、もちろんシズクに反省の色など微塵も無い。自分の身に起きた惨状にも気づかず、私の正面、モニターの前に飛び乗る。尾を前足に巻き付けて、今日もまた念入りに自分の身体を舐め始めた。

 メッセージが届く。送り主はセンだった。

 ハローハローで始まる文は、発した言葉をそのまま文に落としたように見える。

 私はゲームパッドを置く。添付されたアクセス先は昨日と少し違っている。ラップトップを引き寄せただけで、察したらしいシズクが寄って来た。

 ゲーム部屋の光景は瞬く間に変化していく。降り続ける雨の音、湿った木とそして畳の香り。空の竹を叩くシシオドシの乾いた音が響いた時、センが姿を現した。

「来てくれてよかった」

 センは言った。

「シズクとは上手くやってる?」

「そこそこ」

 応じるようにシズクが鳴いた。すり寄るシズクを、センは膝をついて抱き上げる。

「よかったね、シズク。おっとどうした。なんだか全身ツンツンしてるぞ」

 シズクはセンの腕の中で、腹を見せ、大人しく収まっている。大きな瞳で見つめる様はさながら恋する乙女のようで、思わず私は目を逸らす。

「ちょっと心配してたんだ。もしかしたらって思ってね。どうかな、家ではいい子にしてる?」

「ぜんぜん」

 借りてきた猫って言葉を知らないらしい。悪魔どころか魔神だと、言いたい気持ちをグッと抑える。シズクはセンにされるがままで、額を撫でられ目を細めていた。

「今日もまた。自分の命を終わらせたいと願う人がいる。不幸な人生を終わらせたいと願っている。もしスズネちゃんも決心したら教えて欲しい。私はいつまでだっても待っている」

 シズクを放す。

 センの緋袴に身体を擦りつけ短く鳴いた。音も無く彼女の背後に回り込んで姿を隠す。猫の仮面がどこからともなく飛んできて、私の手の中に収まった。

「セン」

 彼女は私に目を向ける。

「私は私の事が分からない。本当に死にたいって思っているのか。なにが嫌だと思っているのかも。そもそも本当に私が不幸だと思っているのかどうかも。センは私が不幸に見える?」

 ちょっと首を傾げる。少しだけ考える素振りを見せると、センは優しい笑みを浮かべた。

「放って置いてはいけない。そんな気がしたから呼んだんだ。私はスズネちゃんでは無いから何が辛いのか、答えを教える事はできない。でもね。答えを見つける手伝いならできる。他の人の話を聞いて、それからゆっくり考えると良いよ。私はずっと傍にいるから」

 猫の仮面に視線を落とす。漆によって黒く鈍く輝いている。

「さぁ、つけて。そろそろ行こう」

 仮面をつける。そしてセンに誘われ着いて行く。

 襖に描かれた椿の花が灯台の光に浮かぶ。センがキツネの面を着け、近づくだけで襖が勝手に動き出す。

 一人減って今日は四人。空いている座布団の一つに、五人目として腰かける。昨日と同じ、イヌの人の隣だった。

 キジの人が立ち上がる。ブラウンのウェーブが掛かった長い髪をなびかせて、颯爽と前に出る。キジはセンが来るのを待って、遅れて出てきた座布団の上に腰を下ろした。

「遅すぎます。何していたの」

 鋭い。刃物のような口調だった。

 ごめんねと、キツネは一言だけ言った。

「ごめんねじゃないでしょう。私がどれだけ待っていたか、分かってる?」

 御簾が出る。二人と私達を隔て、キジとキツネの影が映る。

「ずっと待ってたんだから。早く準備して」

 足の痛みを我慢しながら背筋を伸ばす。

 他の人達も似たような気持ちなのかもしれない。やたら姿勢を正したり、音を出さぬように静かにため息をついていたりしている。

 白鞘の刀が最後に現れる。縦から横へと回転し、二人の間に収まった。二人はしばらく黙っていたが、キジが刀を取り上げる。そして鞘を抜いて捨てると、自分の首に刃を押し当てた。

「止めないの?」

 勢い余って鞘が転がる。

「止めて欲しいの?」

 センが応じる。

「そんなことない。私はずっと、ずっと。本当にずっと。この時を待っていた」

「なら、どうして聞いたの?」

 キジはなにも答えない。上下する肩に合わせた荒い呼吸の音が、雨音の中に混ざり込む。

「止めないよ。それがアナタの選択だから。アナタの幸福だって信じているから」

 静かに。優しく。しかし断固とした口調で言ってのける。

 キジは短刀を持つ手を緩める。小さくため息をついて、刀を握る手を下ろす。

「冷たいのね」

「そう見える?」

「えぇ、とっても」

 そう言って、それで終わった。

 しばらくの無音。次に口を開いたのはセンだった。

「アナタの境遇は理解している。理解したうえで聞かせてほしい。私にできる事はある?」

 少しの時間考えて、キジは言った。

「私の命が終わったら、あの公園に埋めて欲しい。桜の木の元に。私の命が尽きたって、お父さんには絶対言わないで。我が儘かな」

「全然。そんなことないよ。約束する」

 キジは自分の胸に短い刀の先を向ける。一回、二回、三回と深い呼吸を繰り返す。キツネの面をまっすぐ見据える。最後にキジは震えながら、明るい口調で穏やかに言った。

「死なせてくれて、ありがとう」

 灯台の火が消え去った。

 御簾に映る影が闇に沈んだ。

 重たい物が落ちるような音がした。

 しばらく経って光が戻る。影は一つしか残っていない。キツネの面に緋袴の影だった。

 御簾が消える。輝く刀は自ら鞘へと戻る。刀と面が宙を舞う。センの周りを旋回し、その手の中に収まった。

 仮面の縁を撫でる。キジの面はセンの両手に包まれて、キツネの面のさらに奥、彼女の瞳を見上げている。

 目だけで誘われ部屋を出る。椿の襖が音を立てて閉じた。

 この空間に二人だけ。センと私、キツネとネコの二人だった。

「いま。あの人の望んだ通り、最終幸福追求権が履行された。自分で自分の死を選んで、そして実際にその通りとなった」

「セン。聞いてもいい?」

 キツネの面がふり返った。

「どうして止めなかったの? タヌキの人は止めたのに」

「あの人はね。何年も、何十年も自分の死を望んでいた。生ることがずっと重荷になっていた。あの人はあの人自身の幸福の為、自らの死を望んだ。タヌキの人は、まだ希望があった。でもあの人には希望の欠片も残っていなかった。私はとっくにチャンスを貰っていた。それで死を望んだのだから、もう止める権利は残ってなかった」

 センは顔を背けて歩き出す。彼女に着いて、私達は縁側に出る。

「スズネちゃんには話してもいいかな。あの人の事。あの人のためにも、スズネちゃんのためにも、そしてたぶん私のためにも知ってほしい」

 苔むした岩が雨に輝く。際限なく降る雨の中、今日も蛙が鳴いている。姿はどこにも見えないが、確かに蛙が鳴いている。

「スズネちゃん。聞いてくれる、かな。あの人がどうして死を選んだか」

 雨降る庭を眺めながら頷く。センは小さく礼を言うと庭に目を向けた。

「あの人はね。今から四十年くらい前、裕福な家で生まれた。父親だけで年収三百万くらい。と言ってもスズネちゃんには分からないか。当時としては滅多にいない、比較的恵まれた家庭だった」

 縁側に沿って歩き出す。

「母親はと言えば専業主婦をしていた。家庭を守る立派なお仕事だったんだけど、収入にはならなくてね。今だとルームサービスがやるような事、炊事、洗濯、掃除の他に、育児の全てをたった一人でやっていた。

 二人は顔を合わせる度に喧嘩していたみたい。同じ家に住んでいながら、それはもう毎日のように。暴力だけは無かったけれど、身の毛もよだつ罵詈雑言が飛び交っていた。それも幼いあの人がいる前でね。

 なら家を出れば良かったのにと思うかもしれない。でもそれは誰一人としてできなかった。母親が働いたところで稼げるおカネは父親の三分の一程度、その上家事に育児をしなくてはならないから負担は極度に重くなる。父親は父親で忙しくしていたから、家事をしている時間は無かった。

 もちろん幼いあの人は家を出たくても出られなかった。でもそれだけが理由じゃない。母親も父親も、あの人にだけは大切に、愛情深く接していた。父親はあの人の夢ためならどれだけだってカネを出すと言っていたし、母親はあの人の好きな料理を頻繁に作ってくれていた。

 あの人は二人が好きだった。唯一嫌いだったのが二人の仲の悪さだった。母親といれば父親の、父親といれば母親の愚痴を常に聞かされていたみたい。それがどれだけ辛い事だったか。簡単に想像できると思う」

 縁側を伝い広い池の上に出る。凪いだ水面に雨が降り、無数の波紋を作り出す。池の上にまで突き出た建物からは、岸に咲く椿の赤い花が見える。花がもたらす赤色は雨に霞む中でも鮮明で、緑の中に一層強く目立っていた。

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