第6話

 ゲーミングゴーグルを外す。

 照明の消えた暗い部屋は、家主の帰還を認識し自動で明るくなっていく。目を痛めない程度に暗く、暗すぎるような事も無く。壁を用いた反射光の照明の中、私は手をつき身体を起こす。

 滞っていた血が体中を巡り始める。寝起きとも、ゲーム直後とも違う。ボンヤリとした頭を振ってベッドの縁に腰掛ける。

 音も無く。猫が現れた。灰色をした毛を舐めて一声鳴いた。まんまるの青い瞳を向けながら、もう一度だけ更に鳴く。

 伝えたいことでもあるらしい。私はしばらく考えた後、空腹なのだとようやく悟る。

 センに貰ったファイルを開く。デジタルペットのフードであった。視線操作でフードを出すとシズクの前へと転がす。

 かじり付くシズクをそのままにして、シャワールームへと向かう。ずっと着ていたパジャマを脱いで、そこら辺に放っておく。後はルームサービスが勝手に片付けてくれる。

 熱めのシャワーを頭から浴びる。たちまちの内に浴室は、白い蒸気で満たされていく。

 目を閉じて、好みと季節に合わせたプリセットから服を選ぶ。深く考える事もなく。白と黒のモノクロ調の、いつも着ている服にする。

 タヌキの人は今頃どうしているのだろう。センが願った通り、幸福に生きようと思っているのだろうか。趣味を一つ見つけた程度で幸福ならば、私はいったい何をすれば幸福になる。

 体を拭いて服を着る。タオルを首に掛けたまま部屋に戻る。整えられたベッドには、窓から陽の光が射している。少し黄色味を帯びた暖かな光の中で、シズクがうたた寝をしていた。

 実体のない疑似的な存在ながら、太陽の光を一身に受け止める。灰色の毛は艶やかで、光が当たる所は白く輝き、届かぬ所は黒い影が落ちている。

 ルームサービスが椅子を引く。温めもせず、すっかり冷めた昼食に箸をつける。硬くなった焼き魚を突いてほぐし、乾き始めたご飯と共に口へ運ぶ。

 淡々と、ただ繰り返す。

 箸を置く。魚もご飯も半分以上も残っている。だが、もうお腹はいっぱいで、これ以上は食べられない。

 コップを退けて片付けさせる。

 あの人と一緒に暮らしていたときは、食べ残し一つ許されなかった。食べられないと何度も何度も訴えたのに、自分の分は食べなさいと撥ね返されてきた。もちろん今は一人だから、どれだけ沢山残しても、誰にも何も言われない。

 麦茶を飲んでふと気が付いた。シズクの水をどうしようと。無くても大丈夫だとは思うが、それでは流石に可哀想ではないか。

 調べてみれば見つかった。犬にも猫にも兎にも使えるらしい給水器で、疑似的な水を生み出し続ける代物だ。流水タイプでもちろん手入れは不要。すぐにファイルをダウンロードすると、解凍し部屋の隅に展開させた。

 シズクは細く目を開ける。そして欠伸を一つ。立ち上がり、腰を後ろへ強く引き伸びをして、何食わぬ顔でベッドを降りる。早速、興味を持ったらしい。のんびりとした足取りで向かう先には、さっき出した給水機がある。シズクは匂いを嗅ぐと、舌を出して飲み始めた。

 椅子に腰かけたままゴーグルをする。ゲームをしようと思ったからだ。

 仮想空間に入り込む。いつもの部屋は私の私だけの遊び場だ。今までで誰一人、母親さえも一度だって入れたことは無い。

 ソファに座りゲームパッドに手を伸ばす。放り出した時のまま転がるそれは、自分から飛んで近づき手に収まる。ゲームを起動しようとした時、不意にシズクが現れた。

 青い目で辺りを見渡し、そして鳴く。縦に置かれたゲーム機を軽々飛び越え部屋を漁る。

 大きなモニター、ラップトップに各ゲーム機を次から次へと見てまわる。猫が気に入るような物など、何一つとして存在し無いはずだがどうやら居座るつもりらしい。

 気にせずゲームを起動する。

 スタジアムに立つ女の子の主人公を、煌々とライトが照らす。迎え撃つのは一足先に世界トップに登り詰めたライバルだ。二人は共に笑い合うと、互いに向かって駆けだす。

 二人がぶつかる直前に、画面外から無邪気な乱入者が現れた。

 灰色の毛むくじゃらの後頭部、正面に向けられた円みを帯びた二つの耳、長い尾はまっずぐ天へと向けられて、画面の中のキャラが動く度に向きを変える。

 思わずため息が漏れた。

 モニターの真正面に陣取る毛玉は一切退く気が無さそうだ。画面が動く度に前足を出し、映る物を捕まえようと試みる。画面の中のキャラクターが捕まるはずが無いと言うのに。

「シズク」

 反応は無い。代わりに両前足で画面に触れて立ち上がる。

「シズク」

 今度は強めに呼びかける。シズクは首を回し私を見る。そして前足を画面から離し身体の前で揃えると、小さな声で鳴いた。

「そこ退いて」

 聞こえたのかも分からない。

 首の後ろを足で掻く。ひとしきり掻き毟った後、のんびり毛づくろいを始める。

 ゲームパッドを放り出す。シズクがここにいる限り、ゲームなんてできやしない。代わりに映画でもと思い立つも、結局シズクがそこに居るのでは落ち着いて映画なんて見られるはずもない。

 悪魔め。

 私の邪魔をしやがって。センは私に必要だって言ってはいたが、邪魔されて、むしろ気分は悪い。かと言って猫相手に本気で怒り出す程、疲れる事をする気も無い。

 ゴーグルを外し現実の部屋に帰還する。

 シズクが居たのでは落ち着かないと、思った矢先にまた現れた。どうせまた仮想空間に移動しても、結局着いて来るのだろう。

 ルームサービスに麦茶を下げさせ、温かな紅茶を用意させる。たしか読みかけの本があるはず。読書ならシズクも手出しのしようがない。

 ダウンロード済みの書籍一覧を出す。数少ない本の中に探し物は見つかった。

 ジェームズ・ヒルトンが書いた、失われた地平線だ。

 本のファイルを実体化する。ずっしりとした重みと、乾いた紙の感覚が指先から伝わってくる。大昔からある文庫本のサイズ感で、持って読むには丁度いい。重力に任せて本を開けば、ページが勝手に捲れて止まる。

 以前までの読み途中で序盤も序盤、主人公らが飛行機の中で話している最中だった。正確には、話していたかも覚えていない。確かに記憶しているのは、空高くを飛ぶ飛行機の中で主人公がのんびり旅路を楽しんでいた事だけだった。

 たっぷりミルクと砂糖を入れた紅茶を啜る。香り高い茶葉の中に微かなレモンの香りが混ざる。温かな蒸気を口で感じながら私は静かに一息つく。

 シズクがテーブルに飛び乗る。興味深げに紅茶を、正確にはその湯気を見ていたが早くも飽きてしまったらしい。今度は私の方を見ながら鳴いた。

 断固無視。

 私は文字によって作られた架空の世界に潜っていく。海の底へと沈むように。呼吸さえ忘れて文字を辿る。

 行路不明の航空機、超高山での遭難、運命共同体となった四人、そして永遠の理想郷シャングリ・ラ。

 光景が目に映るようだった。霧の漂う谷の中にあり食料には事欠かず、暮らす人々は皆若々しく思うがままに暮らしている。

 次から次へとページを捲る。

 好きなゲームのモデルと聞いて興味を持つに至ったが、ゲームに夢中で放置してきた。途中読みのまま忘れていたのが勿体無いと感じる程で、序盤ながらに面白い。これなら早く読むべきだったと今更ながらに思う。

 本から目を離さずに、カップへと手を伸ばしかけた時だった。柔らかく温かい何かに触れる。

 手触りの良い毛の感覚。驚き手を引っ込めるも、それが何かはすぐに分かった。

 座り込むシズクを見る。

 構え、とでも言いたいのだろうか。ティーカップと私の間に陣取って、私の顔をジッと見ている。しばらく観察していたが離れる様子も、近づく様子さえもない。私は音を立て本を閉じると、シズクの頭に触れようとした時だった。

 まさに傍若無人。厚かましい事この上ない、生意気で不躾な、灰色をした小さい悪魔。

 これだけの言葉を並び立てても、まだ足りない。シズクと名付けた存在を表現するには生温い。

 シズクは私の手を避けた。それも一度ならず二度までも。二度どころか三度もだ。それだけならば良かったが、本に戻れば構えと喚く。

 嫌がらせは翌日にも及んだ。

 朝っぱらから自由な毛玉は私の上に鎮座して、ハイテンションで鳴いていた。数キロはある猫の重さは尋常でなく。筋力の無い私にすれば相当苦しい。大人しく待っていれば良い物を、落ち着きなく動くものだから堪らない。

 デジタルペットも、感覚フィードバックも、作った人は天才だと思う。ただ、張り切り過ぎではなかろうか。ここまでリアルに再現せずとも良かったと、むしろ作り込みすぎだと心底思う。

 払っても払っても懲りないシズクにフードを投げる。待っていましたと言わんばかりに、私の腹を蹴って飛び出し、転がるフードを追いかけていく。

 猫はよく寝る動物だ。食べたらどうせ寝るだろう。

 そう考えて大きな欠伸をする。そして枕に顔を埋めると、再び眠りにつこうとした。

 シズクが私の頭に触れる。無視を決め込み放っておく。すぐに飽きるだろうと思ったら、たった一人で、私の髪を玩具代わりに遊び始める。

 時刻はまだ朝の十時。いつもなら寝ている時間だ。まだ眠たくて寝たいのに、そんな事など露知らず。シズクは大興奮で掴み掛かる。私はルームサービスを呼びつけると、シズクの相手をするよう指示を出した。

 次に起きた時は静かだった。むしろ静かすぎるほどだった。私の他に何も居ないかのようで、空調の稼働音だけが響いている。

 見ればテーブルのすぐ足元にシズクの姿はあった。両足を揃えてまっすぐ伸ばし、両前足は体の側面につけている。顔を床に押し当てたまま動かぬシズクの様子に気が付いて、急いでシーツを跳ね飛ばす。

 血は出ていないように見える。猫だからテーブルから落ちたとは思えない。はしゃぎ過ぎて、脚に頭でもぶつけたのだろうか。それとも滑って転んだのだろうか。様々な原因が次から次へと頭をよぎるも、正確な事は後でいい。

 私はシズクに駆け寄った。体に触れるも反応がない。不幸中の幸いか。温かい鼓動は感じられる。早くなんとかしなくてはと、すくい上げた時だった。

 小さな口が目一杯に開かれる。口の周りを少し舐めて、寝言のような声を出す。灰色の前足で自分の顔を覆うと、呑気に寝息を立てはじめた。

 ため息をつく。

 怪我も無く、変な病気も無さそうだ。ただ寝ているだけ。単純に眠っているだけのようだった。

 灰色の眠る毛玉をテーブルに置く。

 シズクが来てからまだ二日なのに、これ程までに振り回されると誰が予想できただろうか。幸福そうに眠る表情を見ていると腹立たしさが増してきた。

 私はシズクを起こさぬように気を付けながら、指先で灰色の毛を摘みあげた。

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