第5話
長かった話を終える。背中を丸めたタヌキの影は一層小さく丸い。その姿を見て鼻を鳴らすも音は出ず、ミュートアイコンが出るだけだった。
「今、何か希望はあるかな」
センは言った。
「妻の居場所が知りたいです」
「ごめんね。奥さんがそれを望んでいない」
ですよね。と、タヌキは縮む。そんな彼にセンは、でも、と言葉を続ける。
「奥さんが今何をして、幸福かどうかを教えてあげる事はできるよ」
「教えてください!」
タヌキはキツネの肩を掴み、噛みつくようにして言った。センは動揺する素振りも見せず、彼の手を優しく取ると、静かにまた座らせた。
「奥さんは今幸福だよ。とても生き生きとしている。笑顔で、そして楽しそうに。お喋りしながら、定食屋さんで働いているみたいだね」
定食屋、と呟くタヌキの声が聞こえた。
「妻は料理が好きでした。そして得意でもありました。和洋中、いずれをとってもプロのそれに引けを取らない出来栄えでした。食事を注文した事なんて一度もありません。朝と晩、休日ならば朝昼晩と、全て妻が作っていました。妻は妻で、やりたいことがあった。でも我慢していた。にも拘わらず私は。勝手に妻の気持ちを推し測り、妻の自由を奪おうとしていた」
タヌキの声に震えが混ざる。
「妻は今笑っているのですね」
「はい」
「妻は幸福なのですね」
「はい」
「後悔はしていないのですね」
センは少しの間を置いて、はいと答えた。
「これからアナタはどうするの?」
「わかりません。私は妻と共にこの国を見て回りたかった。私一人ではなく、です」
タヌキは膝に乗せた手を固く握る。
「わかっています。もうそれは叶わぬ夢。私には何もない。センさん、最後にアナタに会えて良かった」
彼は刀に手を伸ばす。白鞘の反りの無い短刀だ。
両手で握る。そして持つ手に力を入れていく。鞘と柄に、ほんの少しの隙間ができた時だった。
「言ったはず。私は誰一人として見捨てないって」
センは身を乗り出して手首を掴む。タヌキの仮面を見ながら両手で彼の手を包む。
「ですが、私には。もう生きる理由が」
「大丈夫。必ず見つけられる」
「何を無責任な」
「大丈夫」
「アナタは人じゃないでしょう! だからそんな事が言えるんだ」
「待って!」
最後の言葉は明らかに、私達へと向けられた物だった。
立ち上がりセンの襟を掴む。そんなタヌキの影を見ながら、サルは腰を浮かせたままに動きを止める。大丈夫、改めてセンが言ったとき、渋々ながらサルは静かに腰を下ろした。
「私とゲームしてみない?」
「ゲーム?」
「そうゲーム。やるんでしょ? 将棋」
私は耳を疑った。おそらくタヌキも同じだろう。タヌキの荒い鼻息ばかりが響くだけで、誰も彼もが黙り込む。だが意外にも、タヌキは冷静さを取り戻したようで、センを掴む手を放した。
「もしアナタが勝てば、私はもう何も言わない。アナタの意志を尊重する」
「センさんが勝ったら?」
「考えてないよ」
タヌキは大きくため息をつく。そして深く息を吸うと、ハッキリとした口調で言った。
「一局だけなら」
おそらくセンは笑ったのだろう。影しか見えない仮面の下で、確かかどうかは分からない。でもセンは笑った。根拠はないがそんな気がした。
「持ち時間は十五分。立会人になってもらう為にも、この対局はあとの五人にも公開される。何か意見や要望は?」
「ありません」
刀が消える。代わりに足つきの棋盤が現れる。正方形の駒台が棋手の右手に据え置かれ、九、二、九で一組の駒が二組、合わせて四十もの駒が自ら基盤に収まった。
空中に二枚のモニターが現れる。一方はタヌキの目線で、もう一方はセンの目線だ。モニター下にデジタル時計が表示され、オレンジ色で共に十五分と刻まれていた。
「表ならアナタ。裏なら私」
タヌキは頷く。飛と角の間に収まる歩が五枚、宙に浮いて回転始める。充分に回った後、音を立てて駒が振られた。
二枚が表、二枚が裏。残る一枚は勢いに乗って回り続ける。優に五秒は経過した後、それは静かに倒れ込んだ。
「私の先手だね。さぁ、始めようか」
センの側のデジタル時計が動き始める。三秒と掛からずに飛の前の歩を一歩動かす。センの時計が停止して、次はタヌキの時計が動く。
彼もまたセンと同じく、飛の前の歩を一歩進める。もう一歩ずつ歩を進めると、センは左手の金を銀の前に動かす。
相居飛車、初期配置の飛をそのまま生かした戦法だ。いくつもある戦術の中でもトップクラスの攻撃速度を誇る。それゆえ対策も確立されており、最序盤故の型通りの動きだった。
互いに角の道を空けた後、センは再び歩を進めていく。相手に自ら歩を取らせ、飛を進めて取り返す。タヌキが角の前に取った歩を置き穴を塞ぐと、躊躇なく飛を元の位置まで引っ込めた。
攻防入れ替えもう一度、繰り返す。持ち駒は互いに歩が一枚ずつとなり、優劣がつくのはこれからだ。
飛のすぐ隣に銀を進めると自分の角を捨てるように、タヌキの角を取って見せる。馬と成るもタヌキは顔色一つ変えずに銀で馬を奪い取った。
型通りの剣戟を繰り広げた後、センの玉が動き出す。中央の歩の指揮を右手の金に任せきり、一歩ずつだが着実に、飛を撃退した守りの中に入っていく。金銀桂香に歩の三枚の指揮を執る玉は、防護としては未完ながらも傍から見れば極めて堅い。
センが囲いを完全なものにするため、角を守りに加えた時だった。点対称の盤面がついに崩壊を迎える。
タヌキ側の右三筋の歩が動く。
センは気にせず右手の金を守りに動かす。
タヌキは右手の銀を前に出す。
センは気にせず右手の金を更に動かす。
タヌキから見て右から四番目の歩が動く。
初めてセンは動きを止めた。
一秒、また一秒とセンの時間は減っていく。センの囲いは確かに未完であるが、たった一つの歩だけで崩れるような造りではない。きっとセンもそう考えたはずだ。考えた上での迷いだろう。
盤上に手を出し、そして止める。
一度手を戻しかけつつも、彼女は駒を取り上げる。取り上げてなお十数秒もの時間を使う。センは垂れた前髪を掻き上げると、ようやく小さな音を立てて駒を置いた。
向き合う二人は左手に盾を、右手に矛を携える。センが盾を厚くした一方、タヌキは矛を強力な物にしたらしい。鋭く重く強力な、タヌキの矛が完成を迎えつつあった。
二、三手進み、飛が動く。そして右から四列目に据える。
左側には歩や金銀越しに狙撃手の角が玉を狙う。角だけでなく、銀、桂、飛車の援護を受けた歩が、ついに一歩踏み出した。
歩が歩を取って銀が取る。
銀の前に歩を置かれるも構わず銀が前に進む。
金が銀を討ち取るも、桂が銀を取り返す。
駒を置く乾いた音が断続的に響き渡る。
タヌキの矛が叩くたび、センの盾が砕けていく。両者共に迷いは無く見える。だがタヌキは思うように動かしているのに対し、センには選択肢が無い。
崩落しツギハギだらけのセンの盾は、辛うじて身を守る程度であった。
矛は消失し、代わりに成った龍が鎮座している。それもセンの玉の近くで、だ。一度は凌ぎ切ったものの、すぐにまた武器を用意するだろう。今のセンの守りではおそらく次は無い。
センの側のデジタル時計が三分を切る。容赦無く、時間はみるみる減っていく。一方でタヌキはその倍近く残っている。センは盤から自分の膝へ視線を落とす。
金と銀と取った角に桂香を入れ歩の数枚が持ち駒にある。確かにセンは苦しいが反撃の余地は充分にある。
センは膝に乗せた手を一度固く握りしめる。
二分を切る。早くしないと時間切れで負けてしまうのに、なおもセンは動かない。
そして残り一分だけとなった時、ついに駒台へと手を置いた。
「参りました」
時計が止まる。張りつめていた空気が一気に解放されて、皆それぞれが息をつく。二人が深く頭を下げると、モニターも時計も盤も駒も消え去り刀が一本現れた。
「センさん。お手合わせ、ありがとうございました」
言ってから、タヌキは後頭部に手を当てる。
「良い攻撃だった」
「いえいえ、私なんてまだまだですよ」
タヌキの声は勝ったというのに落ち着いていた。だが少しだけ、ほんの少し早口だったと気が付いたのは思うに私だけのはずだ。
「アナタが勝って、私が負けた。この事実は見ていたみんなが知ってるよ。もう少し喜んでもいいと思う」
「確かに勝利はしましたが、諸手を挙げて万歳するにはまだまだです」
タヌキは手を膝の上で組み、顔を上げて軽やかな声で言った。
「だってセンさん、手加減をしていたでしょう?」
肯定も否定もどちらも無い。センはキツネの仮面の下でおそらく笑って見せただろう。
「決心がついたみたいだね」
「えぇ」
「聞かせて、くれるかな?」
タヌキは無言で頷くと両手で仮面を包み込む。そしてタヌキの仮面を外し取り、丁寧に、そして慎重に。大事な物を置くようにして刀の隣に置いた。
「この仮面はお返しします。その代わり、と言っては失礼ですが」
丸かった彼の背筋が綺麗に伸びる。
「また今度、もう一度お手合わせをお願いできますか?」
「もちろん。何度だって相手するよ」
タヌキは小さな笑い声を漏らす。小さく感じた彼の影は胸を張り、思った以上に大きく見える。彼はまた仮面に両手を添えると、センに向けて押しやった。
仮面と刀は宙に浮かび、そして消える。二人は畳に手をつくと、深く、より深く頭を下げる。
センが頭をあげた頃、タヌキの影は消えていた。たった一人残されたセンの影が御簾に映る。彼女はほんの少しだけ俯くも、すぐにまた顔をあげた。
御簾が消える。そして仮面の四人が一人、また一人と退室していく。センは立ち上がり、私に着いて来るように促す。開いた襖を潜り抜けると、片手でキツネの仮面を外し取る。
「ワザと負けたの?」
そうだよと、センはなんの気も無しに言った。
「なんで? 勝って自殺しないように言えば良かったじゃん」
「スズネちゃんの言う通り。生きることを強制するのは簡単だった。でもね。人がそれで幸福になるとは思えない」
仮面を手放す。キツネの仮面は回転しながら落下していく。畳に触れるより早く、仮面は跡形も無く消え去った。
「自らの意思で、自ら生きると決めないと。誰かに言われて生きるのは、生かされているだけになるから、どうしても不幸に感じてしまう。自分で選んで自分で決める。その上で死を選ぶなら尊重するよ。だってそれも、幸福の一つの在り方だと思うから」
歩くセンの後に続いて縁側に出る。相も変わらず降る雨は、細くしなやかで柔らかい。シシオドシがまた音を立てる。池へと注ぐ流れの中では、緑の蛙が鳴いていた。
「でも、生きる事を選んでくれて良かったよ。本当はね、私もわからなかった。選択肢を選ぶ確率を割り出す事は得意でも、当てになんてできないからさ。生か死か、半分半分の確率のうちどちらを選択するかなんて。人は理屈で生きていないから、結局わからないんだもの」
庭に目を向けるセンの頬に雨粒がつく。大きく澄んだ雫だった。センは人さし指で短く拭う。彼女に釣られて見る先で、雨に濡れて光り輝く深紅の椿が咲いていた。
「セン。あの人はせっかく一人になれたのに、それが辛かったってこと?」
「そう思う」
「私には理解できない。誰かと一緒じゃないと生きていけないなんて」
センは無言で笑みを浮かべる。
「幸福の在り方は人それぞれ違う。だから深く気にすることは無いよ。スズネちゃんにはスズネちゃんの幸福の形がある。それを見つける手伝いが私の役割」
仮面をと、センが言った。言われて初めて思い出し、猫の仮面を片手で外す。
「思うんだよね。スズネちゃんに必要なのは傍に居てくれる相手なのかなって。だから私からもうひとつ。スズネちゃんへプレゼント」
仮面は浮かびセンの傍に飛んでいく。彼女に触れられ回転した時、それは灰色の猫へと生まれ変わった。
「猫なんて」
そう思った。
「可愛いよね。この子なら話し相手にもなるし、手も掛からない。スズネちゃんの一人暮らしは変わらないよ。そりゃ、振り回されることもあるけれど、無闇に干渉したりもないよ。辛い時には黙って近くにいてくれる。そんな誰かがスズネちゃんには必要だと思う」
膝をつき、寄ってきた猫に手を伸ばす。灰色の猫は尾を立てたまま匂いを嗅ぐ。やがて満足したのか、鼻を離して腰を下ろす。
「スズネちゃんの事を気に入ったみたい。名前を付けてあげて」
猫は私を見上げていたが目を逸らす。雨降る庭を眺めると、雨の雫の一滴が猫の前に落ちてきた。しばらく不思議そうに見つめていたが、やがて興味が勝ったのか、前脚をあげ雫に触れた。
「シズク」
シズクが鳴いた。センは笑う。
私はシズクに触れようとして、やっぱりいいやと手を引っ込めた。
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