五章 未来の軌跡(2)

 研究にかかりきりで収入が増えても使っている暇がない状態が長く続いたセレナは、ふと思い立って館を建てることにした。研究機関に入ったときから住んでいて手狭になった部屋から、広さは十分な住居に移り住むために。

 貴族の屋敷のような豪華さよりも、魔術師であり研究者であるセレナが暮らしやすいように設計した館だ。もとの部屋よりは比べ物にならないくらい広いが、庭の敷地も含めて管理しきれないほど広大ではない。

 部屋の一つは書庫で、大量に集めた蔵書が詰め込まれている。その隣の部屋は研究機関の実験室と同様の設備を備え、魔術実験ができるようにした。

 館の管理をする使用人の類は雇っていない。外見の人間らしさよりも性能を重視した簡易的な外見の使い魔たちに、家事や雑事を担当させている。

 昔だったら毎日家事をする使い魔に魔力を使うくらいなら、人を雇ったほうが経済的だと思ったかもしれない。

 だがいまは使い魔にかけられる金があり、無理のない魔力量で動かせる魔術式を自力で組み上げた。その手間は惜しまななかった。この館に第三者を入れたくないという思いのほうが、強かったから。

 門を潜ったセレナは、すっかり慣れ親しんだ館の扉を開けた。

「ただいま」

「おかえりなさい」

 出迎えてくれたのは、亜麻色の髪に紫の瞳の少年――に見える使い魔だ。

 人間そっくりではなく、等身大の精巧な人形のような姿で家の中を動き回っている。セレナが館にいないときは使い魔の術は切れ、魔術式を刻み込んだ宝玉に戻る。

 ローブ姿だが、魔術学院指定のものとは傾向が違う意匠のものだ。話し方だけなら、モデルとなった少年よりも丁寧で礼儀正しい。

「今日はいかがでしたか」

「魔術学院に講演に行って、ハインリヒ先輩と会ったわ。学院長は一見以前と変わりなく見えたけれど、先輩いわくそうでもないみたいね」

「お疲れ様でした」

 使い魔はハインリヒの名前を聞いて学院一年のときの決闘の話題を出しはしない。学院長の話題を出しても養父のこととは思わない。あらかじめ設定していない受け答えはしないし、できない。

 館に移り住んでから、テオに似ているが彼ではない存在を、セレナは常に傍に置いていた。

 こんなのはただの人形遊びだ。一時的に寂しさを埋められたとしても、ふと我に返ると辛くなる。それでもこうしたものに頼らずにいられなかった。

 使い魔、幻術、現実と錯覚するほどの夢を見られる魔術。

 テオの姿を再現できる魔術や、心を騙すことができる術は、一通り手を出した。だが人間そっくりの使い魔を作り出しても、セレナはそれを受け入れることができずにいた。

 同じ姿、同じ声、同じ仕草にしようとしても、それはセレナの記憶を通して見たものだ。記憶は変化し、セレナの主観から見たものはテオそのものとは違う。

 そして人間そっくりの姿だと、テオの時間が十六歳で止まったことを突き付けられているようにも思えた。

 だからあえて紛い物のような外見で口調も変えた使い魔を、館の中に仕掛けていた。

 苦労して魔術式を刻み込んだ宝玉がまだ使える状態でも、耐えきれなくなって宝玉を破壊したことがあった。

 この動いている人形のような使い魔は、何体目だっただろう。館に引っ越してから実行に移したことなのだから、十には届いていないはずだ。

 使い魔を壊した後は、強い喪失感に襲われた。自分で自分の行動が制御できなかった。

 ただ、テオに逢いたかった。



 忘れられない、は忘れたくないになっていく。過去に囚われている、は囚われていたいに変わっていく。否応なく、過去は薄れていくのだから。

 それが嫌で認めたくなくて、テオに似た使い魔と過ごして、子供の頃や学院に入学してからの記憶を反復した。

 セレナの人生からすると、年月が経過するほどに割合が減っていくわずかな時間。テオと穏やかな日々を過ごしていた頃の記憶は、きらきらと輝いて見えた。

 生き返らせることができないのなら、いまこの時間にテオが生きていないのなら――過去に戻ることはできないだろうか。

 昔話に語られる、時を行き来する魔術師のことを思い出した。

 現実には存在しないとされているけれど、過去に戻るのが魔術では不可能だと定義されたのは、ずっと昔のことだ。いまも魔術は発展し続けている。セレナも発展に貢献した。

 使える者の少ない転移魔術は空間の移動だ。空間を移動できるのなら、時間だって移動できるはず。

 過去に戻れば、生きているテオに逢える。そのためなら、研究にすべてを費やすことは苦にならなかった。

 それから数年後、セレナは過去に戻る魔術式に辿り着いた。

 この身体のまま過去に戻るのではなく、意識だけがテオが死ぬ一ヵ月前、学院に入学した年の十月頭に戻る。

 過去に戻って死を回避しようとしても、同じようにテオが死んだら、再び一ヵ月前に戻る。テオが生き延びない限り、魔術式は止まらない。同じ結果を繰り返す。

 その魔術式を、セレナは自分の意識に刻み込んだ。

 人間の身体に魔術式を刻むことは禁じられている。だが、意識にならどうだろう。意識。精神。心。魂。長い魔術の歴史の中でも、未だ解明されていないものだ。

 しかし過去に現在のものを持ち込めず、身体も十六歳の肉体に戻る以上、意識に刻むしかなかった。

 そうしてセレナは、未来で過ごした時間も、出会った人々とのつながりもすべて捨てて、過去に戻ることを決めた。

 館の実験室で、セレナは微笑む。

「じゃあ、行ってくるわ」

 最近ではあまり発動させることがなかったテオに似せた使い魔に、そう告げた。

「いってらっしゃい」

 彼は出かける挨拶に対する応答と同じものを、いつもと同じように返した。

 テオが死んでから考え続けた記憶と、魔術師として大成した経験があれば、テオの死を回避することも不可能ではないと思った。

 だが、過去に戻る魔術を発動させた瞬間、セレナの意識に衝撃が走った。

 意識に刻んだ魔術式の影響か、それとも――魔術では実現不可能とされていたことの代償か。

 積み木が崩れるように、記憶が解けていく。あるいは、扉が閉ざされて鍵がかけられたかのように。

 テオが死んでからの記憶は、過去に戻ったセレナには思い出せなくなっていた。



 真っ暗な世界で、セレナは大人になった自分と向き合っていた。

 学生の頃よりも成長し、魔術師として成功して、世間に認められた自分。

 その内側は十六歳のあの時から止まったままで、瞳には時を重ねた疲労と絶望が渦巻き――わずかな希望の光がちらついていた。

 手を伸ばすと、鏡写しのように彼女も片手を上げた。

 ――あなたはわたしで、わたしはあなた。

 手を重ね合わせると、過去と未来の自分が一つになるのを感じた。



 夢から覚めるような感覚のあと、セレナは目を開けた。ぼやけた視界が像を結び、現実感が戻って来る。セレナを見下ろしているテオの紫の瞳と目が合った。

「あ……」

 互いに吐息のような声がこぼれる。

 意識を失ったセレナは、床にへたり込みながらも上半身をテオに支えられていた。西日に照らされて二人は夕焼け色に染まり、床に長い影が落ちていた。

「テオ」

 セレナの伸ばした手が、テオの頬に触れた。体温が伝わってくる。未来で焦がれていた存在。まだ生きている幼馴染が目の前にいた。

「君は――」

 その手にテオが自分の手を重ね、顔から離しながら握り締めた。

「いま見たことが本当なら、俺の死を回避するために、未来での功績をなかったことにしたというのか? どうしてそこまで――」

「どうしてって、わからない?」

 テオは口をつぐむ。わずかに視線を逸らされたが顔を背けられることはなく、頬が赤く染まる様子を至近距離から見ることができた。

 セレナの未来の様子はテオに知られた。口に出して告白していなくても、あなたのことが大好きだからと言ったようなものだった。

 セレナは座り直し、テオと向き合った。

「わたしはテオが生きていてくれるなら、他になにもいらなかった。だからそのために、過去に戻って来たの」

「……そうか」

 テオは一度目を閉じてから、微笑んだ。

「参ったな。未来の君を犠牲にしてセレナはここにいるのに――幸せだと、思ってしまう」

「犠牲なんかじゃないわ」

 テオに逢いたかった。過去を変えたかった。そして――伝えられなかった想いを、伝えたかった。

「わたしはテオが好き。……あなたは?」

 そう告げると、テオは目を見張った後、表情を緩めた。

「好きだよ。子供の頃から大好きだった。離れていた間も、セレナに逢いたかった」

 その表情は穏やかだが、いまにも涙をこぼしそうにも見えた。

 想いが通じ合った。夢のような、幸せな時間。

「そうか。それなら――」

 だが、幸せな時間というものは得てして短いもので、両者の間にある感情が好意だとしても、互いに望むものが同一とは限らない。

「君を死者に囚われたままにしておくわけにはいかない」

 ぞくりとして、セレナはテオから距離を取ろうとした。まだふらつきが残る身体で立ち上がるが、手はテオにつかまれたままだった。手を振り払おうとしても、かえって握られる力が増したように思えた。

 話をしているうちに夕日は沈み、夜の帳が下りていく。光に照らされていた室内は薄暗くなっていき、気温は下がりだす。セレナを見上げるテオの顔には、影が落ちていた。

「どうしたんだ?」

 いつになく優しそうな声音が、かえって恐ろしい。

 身体に刻まれた破壊の魔術式。使える者が限られる転移魔術。精神に干渉して記憶を覗き見たのは魔術なのか、それとも。なんにせよ、テオが使える魔術や能力がそれだけとは思えなかった。

 セレナを見上げていたテオが立ち上がった。子供の頃は同じくらいの背丈だったのに、いまは目線が上にある。これまでは隣にいてもここまで大きいなどと思ったことはなかったのに、否応なく体格の差や力の差を感じさせられた。

 臆しかける心を奮い立たせて、セレナは強気に言葉を紡いだ。

「……わたしは薄れていた未来の記憶を思い出したわ。大魔術師が組み立てて自分に刻み込んだ魔術式を、どうにかできると思っているの?」

「これまで認識していなかった記憶だろう? 未来で使えた魔術をすべて使いこなせるとは思えない」

 距離を詰められ、引き寄せられた。

「大丈夫。正常な状態に戻るだけだ。君はもう、時間を繰り返さない」

 至近距離でそう言われたかと思うと、唇を重ねられた。

 突然のことに見開いた瞳が、眠りに落ちるように閉じられていく。拘束から逃れようとする身体が、少しずつ動きを止めていく。やがてセレナの身体は力をなくし、テオに支えられながら膝を折った。

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