第2話 特定スペクトル光線増幅魔導レンズを用いた色覚補正福祉機器によるQOLの向上について

 長旅の末に目的を果たしたフィズの心は、安堵に満たされたような、ぽっかりと真ん中が抜け落ちたような、不思議な感覚に包まれていた。きっとそんな心境が表情にも出ていたのだろう。先に声をかけたのはキリノミヤだった。

「お疲れのご様子ですね」

 フィズははっとしてこれに応える。

「あぁすみません。…なんかちょっと…これからどうしようかなって。急に考えちゃって」

 ここまで考えてこなかったわけではないが、どこか後回しにしていた、自分の将来。旅の目的の片方が達成された今、もう目を背けることはできない。

「これから、と言いますと?」

「私、基礎課程修了して施設の部屋も後輩に空け渡してきたんスよ。早い話帰るとこもないんス。それも探しついでの旅だったんスけどねー」

「そうだったんですね。あなたはこれからどうしたいのですか?」

「そっスねー。とりあえずまた旅しないとっスねー」

「それはやらなければならないことでしょうけど、やりたいこととも一致しているのですか?」

「えっ…はい…」

 はいと答えたものの、フィズの心の中は小石を投じられたようにゆっくりと波紋が広がっていった。

「きっとここまでの旅が、楽しいものだったんですね」

「ええ…まぁ、そっスね…」

 それは嘘ではなかった。ここまでの道のりで沢山の人と出会い、多くのことを知り、色々なものを見てきた。しかし、自分のやりたいことは終わりのない旅なのか?旅人になりたいのか?自分への問いに、フィズは回答することができなかった。

「今晩は泊まって行ってはいかがでしょうか。まだ日は高いですが、折角の長旅のゴールですからね。是非ゆっくりしていってください。」

「あぁ、ありがとうございます。宿も取ってないんでそうさせてもらえると助かるっス」

「2階の緑の扉の部屋を自由に使ってください。夕食が用意できたらお呼びしますので」

 そう言ってキリノミヤはキッチンで手を洗い始めた。


 階段を上がって二階に着いたフィズは無意識にカエルのエンブレムの吊るしてあるドアを開けた。

「のわっ!?」

 小さな家に鈍い物音が響く。ドア越しに積み上げられていた何かが、家を通り抜ける風圧で倒れ込んできたらしい。床には様々な工具や機材らしきものが散乱していた。

「お怪我はありませんか?」

 物音を聴いたキリノミヤが駆けつけた。

「怪我とかはなさそうっスね」

 上体を起こして手足を見回して確認しながら応える。倒れ込んだのはどちらかというと勢いよく開くドアに驚いたせいだった。しかし確かに少々危なそうなものも転がっている。

「申し訳ありません。実はコバコから連絡を受けた後、慌ててこちらの部屋にリビングで散乱している仕事道具を詰め込んであったんです」

 意外とズボラなところもあるのかと思いつつ廊下の奥に目を向けてやっと、フィズは自分のミスに気づいた。奥の部屋のドアには四葉のクローバーのエンブレムが吊るしてあった。

「こちらこそごめんなさい…。しっかり確認してなかったっス…」

「やはりお疲れのご様子ですね。そう気にしないでください」

 フィズは片付けを手伝おうともしたが、"色々変なものもあるから"ということで部屋に流された。幸い壊してしまったものなどはないらしい。ないらしいが、部屋で一人きりになったフィズはベッドから天井を見つめうなだれていた。些細な失敗であることはわかっているはずなのに、自分への批難が頭の中で繰り返される。フィズは体力に自信があったし、今感じているものが疲れから来るものではないことは自覚があった。

「……不安なんだ…私…」

 ぽつりと呟いた声は静かな部屋の天井に弾き返されて顔をさらに不安で染めた。


 夕食を終えて会話が途切れた頃、フィズは不躾だからと喉の奥に閉じ込めていた言葉を漏らした。

「キリノミヤさんは、今幸せですか?」

 言ってしまった後ではっとすると、キリノミヤは多少フィズの事情を察したようだった。

「どうしてそんな質問を?」

「えっと…今って大戦も終わりましたし、みんな幸せに暮らしてて、何も不自由なくて、だからなんか、自分も大人になったらそこに仲間入りするんだろうなって、ずっと勝手に思ってたんスけど」

「けど?」

「でも、どうやったらみんなみたいに幸せになれるのかとか全然イメージできないんス」

「そうなんですね」

「だから、キリノミヤさんがどうやって幸せになったのか聴けたらなって思いまして…」

 キリノミヤは柔らかい表情のまま、慎重に言葉を選ぶようにコーヒーをひとくち飲んでから話し始めた。

「フィズは何故幸せになりたいのでしょう?世間の人々の仲間入りするため?」

「いやいや、別に世間とか関係ないっスよ」

「では、あなたにとっての幸せってどんな状態のことでしょう?」

「そりゃあなんか…好きな人と結婚とか子育てとか…なんかそういう感じのアレっスよ」

「……そうなんですか?」

「……いや正直全然興味ないっスね」

「全然興味ないんですね」

 フィズは全然興味なかった。

「質問を変えましょう。フィズは何をしているときが一番幸せですか?」

「やっぱホバーボードに乗ってるときっスねー。…あぁそっか」

 キリノミヤは変化するフィズの表情を見て少し微笑んでみせた。

「それが私にとっての幸せってことっスね?」

「もちろんそれだけということはないでしょう。幸せの種類も数も人それぞれですから」

「でもなんだか少しだけ、どうやって方向決めたらいいのかわかった気がするっス」

「それは何よりです。それがきっと大切なんです。ゴールする力よりも、自分のゴールを作る力の方が重要なのだと、私はそう思いますよ」

 今まで目の前の道を選んで生きてきたフィズにとって、目的地を自分で作るというのは新しい発想だった。


 翌朝フィズが目を覚ましリビングへ降りると、キリノミヤはテラスへと彼女を案内した。彼の表情は昨晩と変わらないはずなのに、どこか嬉しそうな様子が伺えた。

「フィズ。あなたのここからの旅立ちを記念して、1つ私からのプレゼントです。きっとこれからの旅の景色と、あなたを照らす光とを、鮮やかに彩ってくれるはずです。受け取ってください」

 そう言ってキリノミヤが差し出した直方体のケースの中には、透明なレンズのスポーツグラスが入っていた。

「これは…?」

「まぁまずかけてみてください。すぐに気づくはずです」

 言われるままにグラスをかけて目を開くと、気づくどころではなかった。

「……………っ!?」

 フィズは初めて見るその世界に、言葉を失った。より正確には、初めて"彩られた"世界に。そしてすぐにボロボロと溢れ出る喜びの涙に視界が歪んだ。

「…これは……!…これが……!でも、どうして………!!」

「入射した特定のスペクトル光線を増幅する魔導レンズです。本当は先にしっかり検査してレンズの特性を調整するのですが、まぁサプライズということで」

 フィズは鼻をすすりながらわざとらしくテーブルに置かれていた色とりどりの宝石を震える手で陽の光にかざしていた。

「なんで私の目のこと…色の見分けが難しいってなんで…」

「昨日あなたが赤の扉を開けたので、もしやと思いまして。実は食器にもいくつか細工してあなたをテストしていました。まぁサプライズのためということで」

 フィズは生まれつき色の識別が苦手だった。幼い頃に医者から説明を受けたが当然難しい話はよくわかっていなかったし、日常生活で不便はあるもののそれなりに受け入れて暮らしていた。

「これも…マジックアイテムなんスか?」

「はい。色覚異常というのは特定の色に対する感覚細胞が少なかったり未発達だったりすることによって起こります。従来の色覚補正メガネは正常に見えている色の光をカットすることで見える色のバランスを整えていました。一方そのメガネの場合は逆に、見えづらい色の光を魔術でわずかに強くしています。したがって理論上光は損なわれません」

 フィズは呼吸が落ち着いた後も、しばらくテラスから外を眺めていた。そして一つ、決心をした。

「キリノミヤさん」

「いかがなさいました?」

「私あなたに弟子入りしたいっス」

「気に入ってもらえたようで何よりです」

「え?いや、お世辞とかじゃなくて、本気で」

 フィズとしては結構真顔で言ったつもりだったのだが、ほとんど間をあけず返されたので少し動揺した。

「そう言ってもらえるのはとても嬉しいです。ありがとうございます。ですがそのお話を受けることはできません。すみません」

「本の紹介とか、質問に答えてくれるだけとか、あぁもちろん気が向いたときでも。そういうのでもいいんス。それでも、迷惑っスか?」

「迷惑だなんて少しも思ってはいませんよ。あなたの将来のためになにかできることがあるなら、できる限り力になりたいです」

 キリノミヤは相変わらずの優しい笑顔で続けた。

「私が嫌なんです。ただ、それだけです」

 笑顔で放たれた"嫌"という言葉が、フィズの耳にはとても冷たく響いた。

「それは、なんでっスか?」

「逆にあなたは何故、私の元に弟子入りしたいと?都心にはもっと優秀な魔導具技師がたくさんいますよ。そのプレゼントで判断力を欠いてはいませんか?」

「それは全然違うっス!」

 思わず大きな声が出てしまったので、すぐに目をそらして落ち着きを取り戻そうとした。

「違うんス。私が気がかりなのは、キリノミヤさんの声の色なんス」

「声の色?」

「上手く言えないんスけど、結構私声聴けばなんとなくその人の感情がわかるんス」

 デタラメにも聞こえるこの主張もキリノミヤには、色情報の乏しいフィズの脳が音情報から推察し補完するよう独自に発達した結果と捉えることができた。

「興味深い話ですね。続けてください」

「私みたいに障害なのか、呪いの類なのかわかんないスけど…でも…」

 キリノミヤは優しい目を一切変えず、それでも無意識に、わずかに息を呑んだ。

「なんで笑ってるのに、声はずっと泣いてるんスか?」

「私が…泣いている…?」

「説明が難しいんスけど、悲しいとかじゃなくてもっと、切ないとか、虚しいとか、そんな感じの」

「すみません、ちょっと話が見えないです」

「マジックアイテムは人を内側から変えることができるって思いました。だから、私はキリノミヤさんのためのマジックアイテムを造りたいんス」

「私がそれを望んでいないとしても?」

「私が嫌なんス。ただ、それだけっス」

「それはまた、横暴ですね」

 そのときキリノミヤの声色は少しだけ明るく感じることができた。そしてフィズは更に昨晩と同じセリフを重ねた。

「教えてください。キリノミヤさんは、今幸せですか?」

 少しばかりの間をおいて、椅子から立ち上がり、遠く霞んだ建造物を眺めながらキリノミヤはゆっくりと答えた。もはや顔は見せない気らしい。

「フィズ。私はですね。今のこの世界に、とても納得しているんです」

 涼しい風がテラスを吹き抜けていった。誰もが夢見たようなハッピーエンドを迎えた世界で、この"納得"という言葉は妙にくすんだ色に見えた。

「いいでしょう。気が変わりました。フィズ、あなたを今日から弟子として迎え入れましょう」

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