雪ぎつねとたぬき晴れ

モトヤス・ナヲ

第1話

 須藤とは学生時代からの付き合いで、もう二十年にもなるだろうか。おれたちは同じサークルでバンドを組んでいた。須藤はボーカルの初音さんと結婚し、おれの女房はキーボード弾きだった。その後、就職した後も、俺たちは学生のノリで家族付き合いをし、こんな風にみんなで歳をとっていくのって素敵だね、と言い合ったころ、未曾有のパンデミックが世界を襲った。街は失業者で溢れ、区役所で生活支援課に勤めていたおれは、ホームレスの対応に忙殺された。やがて、須藤が職を失い、しばらくは職探しをしていたようだが、この災禍がやがて二年目を迎えた頃に、突然彼は失踪した。俺たちは万策を尽くして彼を探したが、消息は知れず、やがて、少なくともおれの家族の中では、彼を話題にする機会は日増しに少なくなって言った。そんな折、おれにホームレスの実態調査についての下知がくだり、毎日、都内の公園や河原での検地調査や炊き出し作業を行っているうちに、ある日、都内の某公園で須藤を見かけたような気がした。おれはその晩、その公園を訪れると、果たして須藤はそこに段ボールの家を作って暮らしていた。それから、おれは折に触れ、須藤を訪うようになったのである。そして今夜も…


 おれは須藤に紙袋を渡した。須藤は袋の中を覗き込む。

「…カップ麺か」

「冷蔵が必要なのはダメだろ」

「それもそうだな」

須藤は紙袋からカップ麺を並べた。

「赤いきつねと緑のたぬき……」

「湯は沸かせるか?」

須藤は振り向いて、電気コンロを取り出し、やかんをのせてペットボトルから水道水を注いだ。須藤が言った。

「悪いな、腹が減っているから、一個もらうぞ」

「好きなだけ食えよ…驚いたな、ここ電気コンロも使えるのか?」

「何、盗電だよ、そこの街灯から」

「お前、よくそんなことを、区役所の職員に言えるね」

「ま、聞かなかったことにしてくれ」

湯が沸くのを待っている間、須藤は赤いきつねと緑のたぬきを並べて、それを感慨深く眺めたいたが、やがて、

「ふと雪ぎつねとたぬき晴れの話を思い出したよ。聞いたことあるか?」

といった。おれが首を振ると、

「初音から聞いた話だから、たぶん長野あたりの伝承だと思うんだけど……」

そう言ってから、少し遠い目をして、

「雪ぎつねとたぬき晴れは、何年かに一回だけおきる現象でな、多分彗星の来る年だと思ったけど…違ったかな」

脱線しそうだったのでおれは先を促した。

「先を続けろ」

「その何年かに一度、きつねが激しく鳴く夜更けに、北から大吹雪がやってくる、一晩で風雪が森の枯れ木を人の姿に変えるそうな…」

須藤はここで言葉を切ると、

「…スノーモンスターってやつだな。あちらでは珍しくないだろうけど、雪ぎつねの年だけは、なぜかそれが自分の一番会いたい人の姿になるそうだ。もちろん生きているひとの姿かもしれないし、あるいは亡くなっている人の姿かもしれない、とにかく一番会いたい人の姿になる」

おれは須藤に聞いた。

「でも、森の中なんだから、スノーモンスターは何千体もできるだろう、その中から、どうやって自分が会いたい人の雪像を見つけるのよ」

「夢のないやつだな。雪像なんてどれでも良いんだよ。一番会いたい人の姿は、雪像を見ているその人の心の中に映るんだ」

須藤があまりにしたり顔で言うので、おれは、

「それ、初音さんがいったんだろう?」

「…ああ」

「じゃ、お前だってそう思ったんじゃないか」

「うるさいやつだな」

「まあいい、雪ぎつねはわかった。じゃ、たぬき晴れってなんだ」

「雪ぎつねの吹雪の後は、必ずたぬきが晴れを連れてくる。それのことさ。たぬき晴れの日は、南風をもたらして、それで雪像がゆっくりと解けて、そこに野の花が咲くというわけだ。タヌキがもたらす春…会いたい人にきっと会えるという暗喩だよ」

須藤はうどんを啜りながら答えた。

「やっぱり、今日みたいな寒い日は、こういう温かいものが嬉しいね、ホームレスでもゴミ箱を漁れば大抵のご馳走はありつけるんだ。だけど、カップ麺は金を出さないと食えない。ありがたいよ」

おれは、どう答えて良いのかわからず、須藤がうまそうに、本当にうまそうに、麺を啜るのを見ていた。須藤は時折、段ボールの隙間から表を伺って、

「しかし、寒いな、雪もちらついてるし、暖冬の予報もあてにならんね」

といった。おれも外を除いてみた。公園の街頭にてらされて、粉雪がゆっくりと舞い落ちるのが見える。すべり台の横の小さなケヤキが侘しい。おれは言った。

「…雪か…赤いきつね…今夜はその雪ぎつねとやらになるかもな」

「はは、東京でスノーモンスターは無理だろう。表のケヤキもしょぼいし。待ち人、来らずというやつだ。しかし、何だね、食い始めると余計腹が減るわ。行きがけの駄賃で、緑のタヌキも食うとするか」

「ことわざの使い方が少しおかしかないか?」

須藤は、紙袋から緑のたぬきを取り出すと、

「どの部分がおかしいのよ。待ち人来らずか、行き掛けの駄賃か」

「どっちでもいいよ…それより…」

須藤は湯の準備をすると、

「それより、何だ?」

「お前、いつまで、こんな生活続けるつもりだ」

「知らん、政治家にでも聞いてくれ」

「ホームレスでいるというのと、政治とは関係ないだろう」

「ホームレスになったというのは、政治と関係あるよ」

須藤の言いたいのは、このウイルスが流行り始めた頃、政府が水際対策を標榜しながら、須藤の属していた航空業界を規制で締め付けたことと、その後の無策が祟っての相次ぐ緊急事態宣言のことだった。彼は飛行機の整備士であったので、飛行機が飛ばなければ仕事はなかった。おれはつぶやいた。

「しかし何も家族まで捨てなくても……」

「それは違う、お・れ・が、初音に捨ててもらって、ホームレスになったんだ。初音には初音が望む幸せというものがあって、おれがそれを叶えてやれない以上、おれの方で身を引くしかないじゃないか。」

おれは唖然とした。

「お前それを本気で言っているのか?」

「本気も何も、そう信じない限り、この寒空の下でホームレスなんかやっていられるか。お前ひょっとしたらホームレスは気楽な商売とでも思っているんじゃないのか」

「ああそう思っているかもな。おまえが一番苦しい状況から逃げ出したという意味では」

「言ってくれるな…これはおれと初音の問題だ、お前に何がわかる」

「じゃ、お前にはわかっているんだな。それなら初音さんは何がしたいか言ってみろよ」

「初音が幸せと思えるような、新しい人生を歩めばいい」

須藤の目が青白く光っていた。おれは言った。

「生憎、初音さんはその新しい人生も、お前みたいな馬鹿と歩みたいんだよ」

「ありえないね」

須藤は鼻で嘲笑した。おれは座り直すと、

「よく聞け…お前には悪いが、お前のことを初音さんに話したんだ。おれ一人では手に余るからな。女房と相談して結局それが一番いいと判断した」

須藤が生唾を飲んだ。やかんの蓋が蒸気で音を立てた。

「そしたら初音さんが、今日その紙袋を持って家に来た。お前に渡してくれとな。俺たちは、はじめ、中身がカップ麺だと聴いて耳を疑ったよ。なんてセコイ、これは初音さんからの最後通告だと思ったくらいだ」

おれは、硬直している須藤の横に手を伸ばし、ヤカンをコンロから外し、スイッチを切るとさらに続けた。

「だがな、お前から雪ぎつねと晴れだぬきの話を聞いて、初音さんの真意がわかったよ」

そしてヤカンの湯を、須藤の目の前においてある緑のたぬきに注いでやった。

「なあ、今から五分たったら、タヌキ晴れになる。悪いことはいわん、初音さんところに帰れよ」

須藤は紙袋を指差しながら、

「……これが初音からのメッセージだと?」

おれは言った。

「メッセージなんかじゃない。初音さんの祈りだ」

須藤はそれから何も言わずに何処か一点を見ていたが、それから緑のたぬきに目を落とした時、ほんの少しだけ表情が緩んだ。どんなに厚い雲でもその向こうに青空があるように、須藤はいつでも心のどこかで、誰かに見つけてもらうことを、いや、初音さんに見つけてもらうことを願っていたのかもしれない…

その時スマホの通知音。おれは言った。

「須藤、表に出よう」

 そして有無を言わさず、須藤の襟首を掴むと、段ボールの家から外に出た。すべり台のところに女房が立っていた。そしてその横で初音さんと娘さんが心配そうにおれたちを見ている。須藤を認めて初音さんの表情に一瞬緊張が走ったが、すぐに覚悟を決めたのか、彼に向かって一歩踏み出した。須藤はまるで小動物のように後退りした。初音さんは再び足をすすめた。須藤はまた後退りした。そしてまた一歩、そして後退りの繰り返し。このまま須藤が逃亡するのではないかとおれは身構えた。そして初音さんがその一歩を踏み出した時、何かが須藤の果てしない後退りを止めた。彼が先ほどスノーモンスターにはなれないと決めつけたケヤキだった。ケヤキの幹が遮って、彼をそれ以上後ろに行かせなかった。初音さんはついに須藤の正面に立った。しかし彼女は言葉に詰まって何も言うことができない。そのとき、娘さんが初音さんの後ろから飛び出して須藤に抱きついた。初音さんがそれに続いた。須藤が、不器用に手を伸ばし、二人を抱き抱えた。公園のホームレスの間で拍手が起こった。みんないいやつばかりなのだ。おれは感動して彼らを見渡すと、須藤に叫んだ。

「須藤、早く家に帰れ、後片付けはおれがしておく。強制撤去はおれの専門だ」

ホームレスの人たちは、それを聞いた途端にお互いに顔を見合わせると、まるで蜘蛛の子を散らすように、どこかに行ってしまった。

 その後、女房に須藤家族を送ってもらい、おれは明け方まで後片付けをした。タクシーを拾って家に向かうとき、車中のラジオ放送で、昨夜レナード彗星の地球に再接近したことを知った。








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