義兄妹になんてなりたくなかった
ミソネタ・ドザえもん
臆病者
高坂龍治の初恋は小学校低学年の頃だった。高校生になった今でも彼の人見知りは酷い有様だったが、小学生低学年の頃となると最早同級生相手に目も合わすことさえ出来ない始末だった。
同級生は彼のそんな性格を茶化して嘲笑った。
今でこそ、あれは彼らなりの交友の築き方だと隆治は割り切れていたが、当時は彼の根暗な性格を悪化させる一端であったことは言うまでもなかった。
隆治にしてみれば、当時の学校生活は地獄そのものだった。
そんな時、彼に優しく声をかけてくれた少女が彼の初恋相手。
名前は、櫻井凜花。
人懐っこくて、友好的で、笑顔が眩しい少女。それが龍治が最初に抱いた凜花に対するイメージだった。
しばらく彼らは、凜花が龍治に声をかけたことをきっかけに仲睦まじく遊ぶようになった。
公園での二人きりの鬼ごっこ。
空き地の隅っこで丸くなってのしりとり。
色々な遊びを龍治と凜花は二人で楽しんできた。その中でも龍治が好きだった遊びは、凜花の家でやるゲームだった。
龍治の家は、あまり裕福ではなかった。母を早くに亡くし、父も仕事に育児に追われる日々を送っている中で、一度長期入院を余儀なくされるほどの病気を患ってしまったのだ。その結果、龍治の父は出世レースから外れてしまい、ゲームなんてぜいたく品には手が届かない極貧生活を余儀なくされたのだった。
だから龍治にとって、凜花の家で遊ぶゲームはどれも輝いて見えて、彼女と少し打ち解け合った頃になると常に彼女の家に遊びに行きたいとせがむようになったのだった。
凜花は快活な少女で、外で遊ぶことを楽しみにしている少女だったが、龍治がこれと言い出したことには不承不承ながら従ってくれたのだった。
しばらくして龍治は、凜花が嫌々ながら自分のお願いを聞いてくれる理由が、彼女が学校で同級生の女子から虐められているからだと言うことを知った。異性とはいえ折角出来た話し相手を失いたくなくて、凜花は龍治の言うことに従っていたのだった。
龍治は、いつも明るい彼女が学校で虐められていたこと。そしてそんな彼女の弱みを握っていたことに酷くショックを受けた。
その事実を知った翌日から、龍治はなるべく凜花の願いを叶えるように行動するようになった。龍治にしても凜花は折角出来た友達だったから、彼女に悲しい顔をして欲しくなかったのだった。
そうして二人は対等な関係に立ち、互いへの好意を深めていった。
しかし、そんな二人の関係に介入してくる人がいた。
「龍治、今日は凜花ちゃんの家、行かないのかい?」
それは、龍治の父であり、凜花の母、茜だった。
龍治の父は、龍治が凜花の家に遊びに行った日には必ず龍治の迎えに彼女の家にお邪魔していた。最初は申し訳なさそうだった龍治の父だったが、いつしか彼は随分と親しげに茜と話し込むようになったのだった。
茜は、片親だった。凜花が学校で虐められていた理由は、それが原因だった。茜のことを親に言い含められた子供達が、凜花を虐めていたのだった。
最初はただ龍治を引き取って家に帰るだけだったのに、いつしか龍治達は凜花の家で茜の振舞った夕飯を一緒に食べてから帰るようになり、最終的には彼女の家に泊まることだってあった。
「なんだか旅行に来た気分だ」
龍治は凜花の部屋に隣同士に布団を敷き、滅多にない友人宅への宿泊を喜んだ。
凜花も同じように楽しそうに笑っていた。二人は夜更かしして喋り合い、気付けば寝ていた、なんて夜を何度か過ごした。
そうした楽しい時間を送っていたある日、父から龍治に正式にある発表が成された。
「龍治。お父さんな、凜花ちゃんのお母さんと結婚しようと思うんだ」
龍治は後で知ったことだが、この時龍治の父は医者から末期がんの余命宣告をされていた。龍治の父と茜は、これから大人になっていく我が子のことを思うと、互いの好意を自覚しているものの、最後の一歩を踏み出せないでいたのだ。
しかし、まもなく自分が死ぬとわかった時、父は自分の気持ちを押し殺せなくなったのだった。猛アプローチの末、二人は結ばれて……龍治と凜花は家族となった。
龍治は最初、二人の結婚にまったく悪い気はしていなかった。
好いた凜花と、これで一緒にいることが出来る。子供ながらにそれが嬉しかった。
しかし、全てが龍治の願った方向には進むはずがなかった。
同級生の二人が突然兄妹になったことは、クラスメイトからすれば好奇な出来事以外に他ならなかった。二人はしばらく、クラスメイトから茶化され続ける日々を送った。
そして、茜という母親の存在。
「気兼ねなくなんでも言ってね」
結婚し同居するようになった初日に、改めて龍治は茜に言われた。しかし茜の言葉が、まだ子供である龍治にはわからなかった。少しだけぎこちない親子関係に、度々龍治の父は何とも言えない顔で苦笑している始末だった。
そうしたいきなりの環境の変化に、龍治も……そして当然、凜花も慣れることなく、ぎこちない家族生活が続けられて、龍治と凜花の中学卒業を見送って、龍治の父は他界した。
二人が家族……義兄妹になって長い時が過ぎた。少なくとも、二人はそう思っていた。
慣れない環境。近くなった互いの存在。そして、周囲の目。
二人の関係は、変わっていった。
* * *
いつも通りの時間に、龍治は起床した。高校に入学しそろそろ三か月が経とうとした頃、ようやく慣れ始めた学校生活を思うと、少しだけ頬が綻んだ。
ベッドに視線を落とし、布団をかけ直して制服に着替えて、自室を出てリビングへ向かった。
リビングにまだ茜がいないことに少しだけ安堵して、龍治は軽食を食べて家を出た。
父がいなくなると知った日から、龍治は新聞配達を始めた。高校に入ってからは、放課後の飲食店のバイトも始めた。
長らく一緒に住んだだけあって、義母になったばかりの時よりは茜に対してのぎこちなさも減ったが、それでも度々龍治は自分が彼女の実の息子でないことを気にかけていた。
中学二年くらいの頃、一時突然の再婚で自分を周囲の好奇の視線に晒した父を、龍治は恨んだ時期もあった。
父がまもなく他界すると知った時。茜に父との馴れ初めと結婚理由を聞いた時。
龍治は、父が恐らく自分を知らない人の身に預けられないようにするために茜と婚姻を申し込んだのだろうことを悟っていた。
だから、かつて父を憎んだ自分を、龍治は恥じていた。そして、そんな父と……本当の母の分まで生きていこうと思ったのだった。
本当の母の分まで。
そう思った時、龍治は内心で茜のことを自分が母親だとまだ思っていないことに気が付いた。龍治はこれまで、一度だって茜を「母さん」と呼んだことがなかった。
新聞配達をすると言った時も、アルバイトをすると言った時も、茜は少しだけ戸惑ったように、
「龍治君、無理しなくていいのよ?」
龍治を諭すようにそう言ってくれた。
しかし龍治は、大丈夫の一点張りで新聞配達もアルバイトも始めていた。小さい子供から物がわかる大人になり、実の両親を失い、龍治は自分のことは自分で何とかしようと思うようになっていた。
そんな龍治と茜の会話を退屈そうに聞いている少女がいた。
「好きにすれば?」
あの深刻そうな空気で、冷ややかにそう言い放った凜花のことを思い出すと、龍治は苦笑してしまっていた。
新聞配達終わり、学校に着くと既に教室は喧騒としていた。
「おっす、龍治」
「オハヨ、光彦」
小学生時代よりも友好的になった龍治には友達がいた。光彦は、そばかすがトレンドマークの知的そうな印象を受けるクラスメイトだった。
彼は小中と龍治達と別の学区だったため、同地区の同級生よりも龍治達に対する偏見めいた視線が随分と柔らかかった。だからこそ、龍治も気兼ねなく話せる友人として彼のことを好いていた。
それから龍治は、光彦と取り留めのない会話をしていた。光彦は龍治の一個前の席に座っていた。
「でもいいよな、龍治は」
「何が」
「だってさー。あの凜花さんと兄妹なんだろ? お前」
辟易とした気分を龍治は覚えていた。
光彦が凜花のことを好意の対象に見ていることは薄々わかっていた。わかっていたが、それを義兄である自分が理解させられることに、複雑な気持ちを覚えていた。
「どこがいいんだよ、凜花の」
とりあえず、龍治は言った。
「アハハ。そりゃああんだけ冷たい視線浴びてたらそうなるよな」
光彦は楽しそうに笑って、続けた。
「……凜花さん、クールで利己的でなんだか儚げなんだよな。美人だし。他の男子も気がある奴は多いぞ」
「それは知りたくもない情報だ」
龍治は本心から言った。
「アハハ。まあいいじゃん。とにかくさあ、凜花さんがどんなことに興味があるか教えてくれよ」
「嫌だ」
「あんだよ、俺がお前の弟になるの、そんなに嫌か?」
「まあな」
近からず遠からず、だと龍治は思った。
それからも、光彦との押し問答を龍治はしばらく続けていた。いくら袖にしても、光彦は諦め悪く突っかかってくるのだ。終いにはそんなに言うなら強引に家に乗り込むぞ、とまで言われて、龍治は少しだけ焦っていた。
そんな時だった。
ドンッ!
いつの間にか龍治に近寄り、龍治の机に黒い箱を押し付ける少女がいた。凜花だった。
「忘れ物」
怒気を孕んだ声で、凜花が言った。凜花が机にたたきつけたのは、弁当箱だった。
「ああ、ありがとう」
光彦が凜花を見て、椅子をクルリと回して前を見た。喧騒としていた教室も、途端に静まり返った。
一触即発の様相を示す櫻井兄妹の成り行きを全員が見守っていた。龍治達櫻井兄妹は、不仲義兄妹ということで入学三か月目にして既に校内では有名だった。
不名誉な呼ばれ方に、内心龍治は嫌な気持ちを抱えていた。
が、今はそんなことを言っている場合ではなかった。
「忘れ物なんて止めてよ。恥ずかしい」
「悪かったよ。ちょっと朝寝ぼけてたんだよ、うっかりしてた」
弁当は、前日の内に茜により用意されており、キッチンのわかりやすい場所にいつも置かれていた。今回は見逃した龍治に落ち度があった。
「寝ぼけてた? どうして?」
整然と凜花は言った。
「……疲れでも溜まってたのかもしれない」
「だったら新聞配達なんて辞めなさいよ」
凜花の声色は、相変わらず怒気交じりだった。
「でも、生活費くらい入れないと」
「別にお母さんは龍治にそんなことしろとは言ってない」
「茜さんは言ってないけど、そういうわけにもいかないだろ」
それは龍治なりのけじめだった。血の繋がっていない龍治なりの、櫻井家に対する恩義のつもりだった。
凜花は面白くなさそうに眉をひそめていたが、しばらくの沈黙の後、
「勝手にすれば」
そう言って、教室を出て隣の自分のクラスに戻っていった。
「いやー、いいよな。凜花さん」
凜花が帰った途端、光彦が再び龍治の方を振り返ってきた。
「え、今のどこ見てそう思ったの?」
「いやだってあれ、あれだろ? ツンデレ! ……ああいやでも、お前にはツンだけだもんな。デレがあれば完璧なんだけどなあ。デレがさ、デレが!」
「おめでたい頭しているな、お前」
龍治は光彦に対して呆れのため息を吐いて、まもなく開始された授業を受け始めるのだった。集中して授業を受けていると、時間が過ぎるのはあっという間だった。
気付けば放課後になり、龍治は場所を移動し、飲食店のアルバイトに勤しんだ。
アルバイトを終えて、少しだけ疲労感を感じながら帰路に着いていた。
「ただいま」
「あー、龍治君。お帰り」
龍治の帰宅を迎えてくれたのは茜だった。
「今日はちょっと帰ってくるの遅かったわね。バイト忙しかったの?」
「ぼちぼちです。茜さんに比べたら全然ですよ」
「そんなことないわよ。ご飯出来ているわよ」
「いつもありがとうございます」
「お礼なんていいのよ。あたし達家族じゃない」
当人はそんな気はないのだろうが、龍治はそれが偽りの家族であることを誤魔化す言葉のように聞こえて嫌だった。
龍治は俯き、気持ちの折り合いを付けようとしてふと気付いた。
「凜花は?」
「お風呂入って、すぐ部屋に行ったわ。……もしかして、また喧嘩した?」
「いえ、そういうわけじゃないんです」
「そう。ならいいけど」
ご飯を食べて、制服を着替えようと、龍治は一旦部屋に戻った。
「……また喧嘩した、か」
部屋着に着替えて、風呂に入る気分にもならず、ベッドに飛び込んだ。
龍治の父と茜が結婚して、早七年。凜花と同じ家で生活を始めて、早七年。
父を失い。
血の繋がっていない偽りの母を得て。
周囲の好奇な視線に晒されて。
すっかりと、凜花との関係も変わってしまった。
二人とも、臆病になってしまったのだ。
大切な人を失うことに。
周囲から、まるで実験モルモットにでもなったかのような下衆な視線を、罵声を浴びることに。
臆病になって……同じ結果になりたくないから、変わってしまった。
真っ暗闇の中、腹部に温もりを感じた。
ゆっくりと目を開けると、電気の消えた室内で、龍治の鼻を艶めかしい髪が撫でた。
「凜花?」
「正解」
朝学校で聞いた声とは違う、優しく色っぽい声だった。
大切な人を失うことに。
周囲から好奇な視線を浴びることに。
二人は臆病になってしまった。
だから二人は、他人の前で関係を明かさぬようになった。こうして夜、二人きりの時間でだけ、二人は本当の二人になれた。
「お疲れ様。バイトで疲れてた?」
「そうかもしれない。慣れないこと始めたからかな」
茜にすら、二人は関係を打ち明けていなかった。だから、今にも消え入りそうな声で言葉を紡いだ。
「リョウちゃん」
「ん?」
「朝の新聞配達辞めたらってやつ、あたし本気よ?」
「……うん」
皆まで言われずとも、龍治には凜花の本心はわかっていた。
「でも、もう少し好きにさせてもらえないかな?」
「……体壊しちゃヤだよ?」
「うん。ありがとう」
龍治が凜花の髪を撫でると、凜花は龍治に一層体をくっつけた。心の奥底で何かが満たされていくのが、龍治にはわかっていた。
「……そういえば、風呂入ったっけ?」
「まだだよ」
「よく知ってる」
「扉の開く音、一回だけだったから」
「よく聞いてる」
「好きな人のことだもの」
「……汗臭くない?」
「良い匂いだよ」
「お風呂入ってくる」
「駄目」
「なんで」
「したい」
「……駄目だ」
「……これ以上、あたしに我慢させるの?」
「……今日は駄目だよ」
「どうして?」
「茜さんに気付かれる」
「……」
「……」
「……うー」
凜花が馬乗りになっていた龍治の上から退き、隣に寝そべった。
暗闇の中、二人は身を寄せ合った。温もりを感じながら、気持ちを静めながら、幸福を感じ合った。
幸せな時間だった。
まだ小さい子供の頃、龍治は何も知らなかった。だから無邪気な時間を過ごせたものだったが、高校生にもなると色々なことを知り、見て、学んでいってしまった。
人間の愛おしさ。
人間の醜悪さ。
様々なことを知り、見て、学んで。
大切な人と一緒にいることすらまま気の向くまま出来ないようになってしまった。
龍治は思っていた。
小さい頃は、初めて出来た凜花という友達と一緒にいれる時間が増えることが嬉しかった。だから義兄妹になれたことを喜んだ。
でも、少しずつ大人になっていく内に、社会の不自由さを知っていく内に。
今では龍治は、真逆なことを思うようになっていた。
「義兄妹になんて、なりたくなかった」
暗闇から、凜花の寝息が聞こえた。
義兄妹になんてなりたくなかった ミソネタ・ドザえもん @dozaemonex2
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