暗闇の先

小沢藤

 

静かな夜の底で、私のデスクを照らすライトだけが煌々と光っている。深夜12時までラボに残って実験をするような人は、ここにはいない。誰もいない実験室は、暖房で20度に保たれている。そのぬるい風が、私の髪を撫でる。


私の隣にある美香のデスクは、半年前の状態から何一つ動かされていない。綺麗に並べられた実験ノート。威圧感を放つ分厚い英語の学術書。彼女のお気に入りだった、白い陶器製のマグカップ。数か月に一度しか水をあげなくていいんだ、と言っていた小さなサボテン。大きなモニターの画面は、埃で汚れてしまっている。


私の隣に、美香がいるような気がしてならない。モニターに表示された測定データをじっと見つめる美香が漏らすため息が、聞こえるような気がする。予想通りの結果だったか、期待外れの結果だったのか、私が尋ねると美香はいつも恥ずかしそうな表情で笑っていた。ピンで留められた紙が、空調の風にパタパタと揺れている。


操作が終了したことを知らせる電子音が鳴った。私はPCR装置のあるデスクへ向かい、サンプルを回収した。卓上には遠心機、電子天秤、結晶化装置など様々な機会が雑多に並び、中にはこのラボの研究員になってから二年経った今でも何に使うのかよく分からないものさえある。


美香はこの世界からいなくなってしまった。冷酷なその事実を、私はただありのままの事実として受け入れているのだと思う。ただ、いまだに信じられはしない。




生命化学を、特に生物の遺伝子編集を専門に研究していた私はいわゆる就職難民だった。将来の計画を何も考えずに、好奇心だけで選んでしまった研究テーマは、将来性はあるものの、実際運用するのには経済的なコストがかかりすぎて企業は興味を示さなかった。面接官が言うには、恣意的に遺伝子を組み込んだキメラ生物を作り出す技術は企業にとって手が余るものだそうだ。私は現実性を考えなさい、と突き放された。


ドクターの称号を携えて就職するつもりだった私は、このラボに転がり込んだ。美香は、私が任期付き研究員として採用されたラボの博士課程の学生だった。だから、研究とラボでの経験で先輩後輩が逆で、お互い困ったときは頼りあう関係になるのに時間はかからなかった。


「よろしくお願いします、先生」


「もう、先生はやめてってば」


ついこの前まで学生だった私は、自分が彼女より上の立場の人間だと思われたくなかった。アカデミアの世界に進むつもりも毛頭無く、ただただ流されて辿り着いた職場。将来のプランも何もない、宙ぶらりんだった私と対照的に、美香は確固たる将来像を持っていた。そんな美香のことが、私にはまぶしく見えて仕方なかった。


「先生、お昼ご飯一緒に食べに行きません?」


私と美香はよく二人で昼食を食べた。大学の騒がしい食堂や、ケヤキの影が落ちるベンチや、あまり知られていない、ナポリタンが特に美味しい喫茶店で。先のことを考えるなら教授たちや他の学生とも一緒になった方が良かったのだけど、私は美香と二人きりにしかなれなかった。食堂の油淋鶏は衣が分厚すぎるからやめた方がいいかも、生協のミックスサンドはハムが分厚くてなかなかいける、マスターが出勤する日の珈琲はいつもより香りがいい、そんな情報を美香はなんだか嬉しそうな顔で話すのだった。


その自然光の結晶みたいな表情を見て、私も嬉しくなるのだけれど、彼女が私に沢山教えることができるということは、彼女には誰かと一緒だったかもしれない時間と体験があるわけで、そう考えると美香のことを遠くに感じた。


「生命って、増えるっていう事だと思うんです」


美香と研究テーマの話をしていた時のことだ。美香はトランスポゾンという、遺伝子内を移動する塩基配列をコントロールする研究をしていた。通常、個体差はあるものの塩基配列は種ごとに一定だ。しかし、トランスポゾンと呼ばれる領域は30億ある塩基の上を自由に動き回る。その原因がMobile geneと呼ばれる遺伝子であることが分かったのは10年ぐらい前のことだ。疾患の原因としか捉えられていなかったこの現象は、今では生命がなんらかの理由で自らに仕掛けたシステムである、という説が有力視されている。


進化は遺伝子の組み換えミスや、外部からの影響など偶然遺伝子の配列が入れ替わることで生まれる突然変異から始まるとされている。だがトランスポゾンを持つ生物は自らの遺伝子を組み替えることで、より多くの変異体を生み出し、進化を加速させている。


だが裏を返せば、それは自ら遺伝子を傷つけているということに他ならない。


「私、思うんですよ。何かの意図があるんだろうなって。個体じゃなくて種が生き残るためのシステムが、大昔に必要とされたときがあったんでしょう」


美香にはその意図を解明するという夢があった。彼女は神と形容されるような存在を口にすることもあった。見えざる手。大いなる力。生命の後ろ側に、何かの存在を幻視していた。仮説の域を出ない、半ば妄想じみた話をする美香の目を見ていると、それが彼女の原動力なのかな、と思えた。


美香は研究という道を全速力で走っていた。にもかかわらず、きらびやかな街で服を買い、美味しいものを食べ、酒を飲み、出会いと別れを繰り返し、人生を謳歌する若い女性のようなまばゆいほどの魅力は全く失われることがなかった。彼女ほど美しく生きている人間を私は見たことが無かった。


だが、美香は死んだ。大学最寄りの駅の階段ですれ違った男に包丁で刺された。ほかの被害者は助かったが、美香はたまたま内臓が深く傷つけられてしまったのだという。メーリスで一報を受け取り、現場に駆け付けた私が目にしたのは、鉄色の血痕とその周りに張られた立ち入り禁止のカラーテープだけだった。蠢く通勤者の流れの中で、じっと立ち止まって現場を見ているのは私だけだった。



深夜のラボで、私は美香の実験ノートを見ていた。美香と一番仲が良く、テーマへの理解も深いこともあって、彼女の研究は私が引き継いだ。小さな丸い字で、事細かに操作の内容が記されている。時々現れる大きな赤ペンの書き込みは実験ミスだ。次は間違えないように、気を付けていても、死んでしまったら意味ないじゃないか。


美香はもういない。いくら仲が良くても、テーマに精通していても、彼女の実験内容を把握できても、もう意味はない。彼女のシナプスに電流が走り、脳が思考することはもうないのだから。あんなに楽しそうだったのに、瞳を輝かせて一生懸命だったのに。死ぬということは、世界から忘れられることだ。それが怖かった。だから、美香を存在し続けさせると決めた。


それから、私は遅くまでラボに残るようになった。葬儀を終え、悲痛な空気が薄れ、ラボでは日常に戻りつつあった。私の行動を不審に思う人はいなかった。


美香の遺物から毛髪を採取し、ゲノム解析してMobile geneを取り出した。彼女が熱中していたMobile geneは、生物間で違いが大きく、特に同じ種間でも個体差がある。美香の遺伝子が生き残るためのシステムがある。


顕微鏡という装置を通して網膜に小さな宝石みたいなマウスの幹細胞が映し出される。化学的に穴を開け、幹細胞は私が設計した外来遺伝子を取り込む。vectorは美香の Mobile gene領域を含み、マウスゲノムのどこかに組み込まれる。幹細胞は分裂を繰り返し、集合を形成し、命になった。


こうして、私は美香の情報を宿したマウスを創った。



北風が木々を揺らし、ゲージの中でマウスがチュー、と鳴いた。開けたところから星空が見え、今日は雲一つないことを知る。


美香のMobile geneが自然に帰る。マウスが子を作り、遺伝子が引き継がれ、美香のMobile geneは再び足を手に入れる。いくらか時間が経てば、美香はマウスと完全に融合し、どこかで生き続けるだろう。


ゲージを地面に置き、扉をゆっくりと開けた。マウスは鼻をぴくぴくと動かすと、闇の中へ走り去っていった。

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暗闇の先 小沢藤 @haru-winter

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