ドアが閉じ、鍵がかけられる冷たい音が廊下に響く。防火扉は再び世界の果てに戻ったのだ。 

 弓子は硬直したままだった。

 高志は弓子の傍らに近づく。

「誰か、いたよな……」

 弓子がこくりとうなずくのが分かった〝天の声〟が、実体を現したのだ。弓子は解剖で受けたショックを忘れた。〝敵〟の登場は、解剖以上の衝撃を与えたのだ。

 弓子がつぶやく。

「白い……人……」

 高志は部屋に戻るのが先だと判断したようだ。〝天の声〟は刺激できない。弓子の両肩に手を回す。

「さあ」

 弓子は硬直したままだが、逆らわなかった。高志が力を加えるままに回れ右をして、背中を押すと素直に進む。手術台の横にずらしたソファーに誘導するのに力は要らなかった。

 弓子が崩れるようにソファーに座る。ぽつりと漏らした。

「つらい……」

 高志も横に座り、うなずく。ぐったりと力が抜ける。

「僕にだって、厳しい」

 背後で、閉じた戸口に鍵がかかる音が響く。2人は振り返りもしなかった。〝天の声〟も、相変わらず消えたままだ。そのまま、しばらく黙り込んだ。

 不意に弓子が言った。

「鍵がかかったら……部屋にも戻れないですよね……」

 声には、落ち着きが戻っている。

 弓子の精神が、現実を受け入れたようだった。もう、発作的な行動は予想しにくい。それを嗅ぎ取った高志は皮肉っぽく微笑んだ。

「戻れないね……。手術台を見続けなくちゃならない」

 それは危険な賭けだった。弓子を崖から突き落としたのは、解剖作業だ。思い出せば再び理性を失うかもしれない。それでも、乗り越えなければ先がない。息を詰めて弓子を見守る。 

 弓子はゆっくり顔を上げた。首を回して手術台を凝視する。解剖途中の〝腕〟が残されたままだ。弓子は皮膚がめくれ上がった腕を見つめて、目を逸らそうとはしなかった。わずかに嫌そうに頬を歪めたが、淡々とつぶやく。

「続けるしかないんですよね……」

 狂気、ではなかった。締念だ。

 高志は長い溜息を漏らすと、全身の緊張を解いた。

「よかった……立ち直ってくれて」

 弓子が高志を見つめる。

「でも、またいつ逃げ出したくなるか……分からないんです。自分の体なのに……」

 高志は心から微笑んだ。

「君は、もう大丈夫だと思う」

「そうでしょうか……」

「僕は確信している」

 弓子も笑顔を返した。しかし、その寂しげな笑顔もすぐに曇りを見せる。

「あれ、誰だったんだろう……」

 高志の表情が厳しく変わる。

「誰かは、はっきりしている。〝天の声〟の一味だ」

「真っ白な服をすっぽり被っていました……」

 高志は後ろ姿しか見ていない。

「僕はちらっと見ただけだ。詳しく教えてくれる?」

 弓子は自信なさげに目を伏せた。

「信じてもらえるかどうか……」

「話してみて」

 口を開くまで間があった。迷っている。

「なんだか、漫画みたいで……」

「マンガ……?」

「全身真っ白で。頭からすっぽり被る、長いポンチョみたいで、尖った帽子を被っているんです。マンガの魔女みたい」

「女⁉」

「さあ……顔は見えませんでした。動転しちゃって……。服が魔女みたいだな、って……。でも、男の人だったような気がします。背が高かったし、顔にも白いお面を付けていたような……。よく覚えてないんです……」

 高志が不意に反応した。はっと顔を上げると目つきの鋭さが増す。

「十字架は? 胸とかに十字架のマークはなかった?」

 弓子が激しくうなずく。

「ありました! 大きな模様に見えたけど、そういえば十字架です。胸のあたりに、グレーの十字架!」

 高志が息を呑む。

「やっぱり……」

「心当たりが?」

「KKK」

「はい?」

「クー・クラックス・クランだ。頭文字をとって、KKK」

「政治団体……でしたっけ?」

「聞いたことはあるんだね。政治団体というより、宗教だ。元はアメリカの黒人排斥主義者の集まりだ。かつてはとんがり帽子の集団で黒人を狩ったこともある。ゲームのシナリオを書くからみで、そんな右翼的な連中のことを調べたことがある。でも、勢力が大きかったのは何10年も昔の話だ。今ではほとんど絶滅している。数が減った反面、過激化しているという説もある。ブラック・ライブズ・マターなんかの活動に反発して、逆に勢力を増しているという情報もある。海外の右翼組織やネオナチの集団と連携してテロ組織化しているとか……本当かどうかは分からないけど」

「何だってそんな人たちが? とっくに21世紀なのに……」

「どこかに過激な動きが起きれば、反発も強まる。アメリカはもはや分裂国家だともいえる。そうでなくても、自分の存在意義を見つけられない人間は過激な差別主義に飛びつく。強そうなものに頼って、弱そうな者を踏みつける。そうしていないと、自分がひとりぼっちで踏み潰されるような不安があるんだろう。経済が冷え込んでいる時はなおさらだ。現実から逃げるには、そうするしかないから。引きこもりだった僕には、分かるような気がする」

「でも、なんでKKKがわたしたちを……?」

「3Dで、何かをやろうとしている。なんだろうな、彼らと関係することって……。だけど、必ず目的はある。ここの施設やマシンにはとんでもない手間と資金がかかっている。要求も明快だ。考え方は営利目的の企業に近い。それがKKKって――あっ!」

 高志がいきなり言葉を失った。何かに思い当たったらしい。

 弓子もただならぬ緊張を嗅ぎ取る。

「何か⁉」

「やばい……僕たち、殺されるかも……」

 高志は今まで、特殊技術を持つ自分たちは殺されないと楽観視していた。その確信が突然揺らいだようだ。

「どうして⁉」

「だからアイザックなんだ! 2番手を選んだ理由がそれだ!」

「だからどうして……」

「ユダヤ人なんだよ!」

 弓子には意味が理解できない。

「はい?」

「アイザックはユダヤ人なんだ。ネオナチが一番憎んでいる人種だ。反面、ティムは英国の生え抜き。ワスプだ」

 弓子にはわからないことばかりだった。

「ワスプ……?」

「W、A、S、P。つまり、ホワイト・アングロサクソン・プロテスタントだ。KKKの信条なんだ。純粋な白人でアングロサクソン系、しかもプロテスタントであることが優れた人種の証拠だと信じている。同じ偏見を持つ者は他にも大勢いる。だが、多くは何も語らないし、行動しない。だがKKKは、その偏見を行動で表すことで一部の人間から熱烈に指示されている。支持している奴の中には大富豪も多い。おそらくは、白人至上主義の成金がこのばかげた計画に出資しているんだろう」

「でも、行動って……?」

「ユダヤ人なら、殺したっていいんだ」

「そんな……」

「他のプレイヤーはピーター・ギルモアとダン・ウォーターズ。名前はどっちも受けがいいように変えているが、ダンは黒人で、ピーターは4分の1がアボリジニ――つまりオーストラリアの先住民だ。そして僕らは、生粋のアジアン。たとえ能力が一流でも、KKKが守るべき人種じゃない。むしろ、ワスプの職域を犯す邪魔者だ。負けたチームは口封じのために殺す。最初からその意図がなければアイザックは選ばれなかったと思う。KKKの思想として、LAのナンバー1であってもワスプのティムを殺すわけにはいかないんだ」

 弓子は口を半開きにしていた。

「わたしたち、日本人だから……?」

「ワスプから見れば黄色い肌なんて嘲笑の的だ。白人と肩を並べていると思っているのは、能天気なジャパニーズだけだ」

「だってあの人たち、日本語はぺらぺらなのに……」

「敵対人種を研究するスタッフがいるんだろうね。ワスプの帰国子女、とか。沖縄辺りじゃ、基地の外国人は珍しくないし、みんなが親日家になる訳じゃない。基地は疎まれているから、逆に反感を持って帰国するアメリカ人もいるらしい」

 弓子が高志に問う。

「でも、勝負に勝ったら?」

 高志は非情な現実を淡々と語る。取り乱しても得る物がないことは、もはや2人とも分かっていた。

「当面は生き残れるだろう。させたいこと――他の人間にはできない仕事があるから、僕らを選別している。だがその仕事が終わったら、KKKがどんな行動に出るかは分からない。殺される可能性も高い。でも、時間は稼がなくちゃ」

「でも、それって……」

 弓子のためらいは高志にも理解できた。

「そう、勝つことイコール、他の3チームへの死刑宣告だ。でも、勝てなければ僕らが宣告を受ける。そして多分、家族も……」

 弓子がぽつりとつぶやく。

「自殺は阻止するって言ってたくせに……」

「〝天の声〟か? 結果が出るまでは死なせない、って意味だろう」

「従うしかないんですか?」

「ない。今は生き延びることを考えるだけだ」

「他人を踏み台にしても……?」

「それでも、だ。僕には、家族がいる」

 弓子も最悪の状態を脱したようだった。高志の深刻な言葉にも、今度は耐えることができた。もう一度、はっきりと言葉に出した。

「やるしかない。そうですよね?」

 高志もきっぱりとうなずく。

「やるしかないんだ」

 そのとき、唐突に〝天の声〟が響いた。

『結論が出たようだね』

 高志がとっさに天井を見上げる。

「やっぱり聞いてたか」

『今までの会話も、全て。作業を再開すれば、また沈黙を守る』

 高志は怒りを抑え込みながら言った。

「それまで、つきあえ。なぜ姿を見せた?」

『事故だ。ドアのロックを忘れた者がいる』

「僕たちの推理は当たっているのか?」

〝天の声〟が小さな溜息を漏らしたようだった。

『確かにわたしたちはKKKだ』

「僕らを殺す気か?」

『君たちの意見は一致したと思うが?』

 高志が弓子に向かって軽くうなずく。全ての解釈は間違っていないのだ。不意に核心に切り込む。

「目的は、〝神〟を創ることか?」

 高志は答えを見つけたようだった。まさに核心を突かれたことが、〝天の声〟が口ごもったことに現れていた。

 弓子もまた、高志が放った不意の一言にはっとした。

「神……?」

〝天の声〟はとぼける気らしい。口調に、緊張感が現れていた。

『なんのことだね?』

 高志が一気にまくしたてる。中断されるのを恐れるかのような、激しく硬い口調だった。

「とぼけるな。KKKは3Dの専門家を必要としている。人間の〝腕〟を手に入れてまでデータ化させようとしている。これが競技だ。じゃあ、競技に勝ったらどんな役目が与えられる? 競技で測った能力の延長上にあり、はるかに複雑で重要な仕事だ。でなければ、選別する意味がない。〝腕〟の再現より、もっと複雑なもの――おそらく、人体全体の再現だろう。人間丸ごと1人分を解剖して、デジタル技術で再構成する。そして、KKKにとってそれほど重要な人間とは誰か。教祖か、指導者か――」

〝天の声〟が高志を遮る。声に、怒りが渦巻く。

『黙れ。猿ごときが神の名を聞き出そうとするな』

 弓子は首すくめた。反抗には厳しい制裁があるかもしれないのだ。

 だが高志は、落ち着いている。

「神か、やはり」

『黙れ!』

 高志は黙らなかった。

「KKKの神は、今、死に瀕している。すでに死んでいるのかもしれない。それを復活させることが目的なんだろう? 猿と呼びたければ呼べ。だが、他にはない能力を持った猿だ。サイバースペースに神を復活させられるのは、僕らだけだ」

 わずかな間があった。

『競技は始まったばかりだ』

「僕らの優位性は明らかになっているはずだ。勝ち目がないなら、KKKに気づいた時点で処分されている」

『うぬぼれるな』

「僕らは初日で外側をモデリングして見せた。しかも、指紋を彫り込んで、だ。ワイヤーフレームは見たんだろう? 内臓だってすでに原型が出来上がっている。実力は思い知ったはずだ。だから猿と蔑んでも、処分できない。最大の敵はウェタだろうが、まだ外見さえ仕上げられないんじゃないか?」

 反応はなかった。虚しい息づかいだけが聞こえる。

「ビンゴ、だな。他の連中はチームで働くのが常だ。たった2人じゃできることも知れてる。映画の仕事ばっかりやってるから、時間だってかかる。その点、僕は1人が普通だ。プラグインだってそのために組み上げてきた。勝ち目はこっちにあるんだ。黙って見ていろ。さっさと決着を付けてやる。だが家族を傷つけてみろ、ただじゃおかない。僕の才能に代わりなんてないんだ」

 高志の怒りが噴出した瞬間だった。ずっと怒りをこらえ、溜め込んでいたのだ。捕らえられ、強制され、傷つけられ、脅かされてきたのだ。一匹狼と呼ばれる男が我慢できる状況ではない。

 弓子はそこまで言える高志のプライドに感嘆した。同時に、そこまで言って許されるとも思えない。

〝天の声〟は言った。

『作業を続けるがいい。だが、制裁はある』

 高志は言い放った。

「もう怖いものはない」

〝天の声〟にも、動揺はない。

『君は信頼できる。未知数なのは、佐野君だ』

 不意に名を呼ばれた弓子がはっと背を伸ばす。

「え⁉ わたし……⁉」

 弓子の目に不安が噴き出す。

『君の行動には混乱させられた。今回は我々のミスだ。だが、今後はこのような反抗は認められない』

 弓子は高志が受けた制裁を思い出した。家族への脅迫。拘束され、切断された性器。一方的な重圧ばかりが加えられてきた。それでも高志は全てを呑み込み、じっと耐えていた。弓子を気遣いながら、黙々と作業を進め、理不尽な状況と戦ってきた。体の痛みも心の傷も尋常ではないはずだ。強い精神力がなせる技だった。だが、その災難が、アシスタントにまで降り掛かるとは考えていなかった。

 弓子がかすれた声を絞り出す。

「わたしを……どうするの……?」

 高志が割り込むように叫ぶ。

「彼女には手を出すな! 大事な仲間だ!」

『だから従順にさせる』

 弓子がつぶやく。

「わたしを……?」

『君には何もしない。働く者に手は出せない。だが、君が大切にしている人物は確保できる。だから君は逆らえない』

 思いもしない展開だった。弓子には兄弟も親もいない。唯一の恋人は、すでに死んでいる。

「大切な人って……」

『待て。人質を確保し次第、プライベートジェットで運ぶ。それまでは作業に専念したまえ。では会話を終える。作業再開だ』

 弓子が叫ぶ。

「待って! 人質って、誰⁉」

『待て』

 弓子は自分が孤独であることを知っている。

「わたしにはいないわ。家族も、子供も……」

 返事はなかった。スピーカーがつながっていることを示すかすかなノイズも消えている。会話は終わったのだ。

 高志がつぶやく。

「また迷惑をかけてしまった。僕が反抗したからだろう……」

 弓子はなぜか事態を冷静に分析できた。溜息を漏らして、言った。

「こじつけだと思います。本当に何かやるなら、始めから決めていたことだと思います」

 狂気の縁で我を失った時には、自分が何をしているか分からなかった。全てが無意識の行動だった。だがそこで、体内にわだかまっていた怒りや恐怖を吐き出すことができた。それが落ち着きを生んだようだ。今なら、理性的に振る舞えそうだった。

 高志がその冷静さに驚いて弓子を見つめる。

「なぜ、そう思う……?」

「勘、です」

「勘?」

「わたしだって、女ですから。ピンと来ることはあります。なんだか、作り事のいい訳か、こけ脅しみたいな気がするんです」

 高志が感心したように弓子を見つめる。

「怖くないの?」

「怖いより、分からない。人質って、誰だろう。でも、きっとそんな人、見つからないと思います」

「誰にだって大切な人はいる」

「わたしは孤独でいいんです。他人と深くつきあいたくないんです。自分でそう仕向けてきたんです。もう、苦しみたくない……」

「事故のこと? 事故があったんだろう?」

 弓子はまだ、高志には話したくなかった。

「終わったことです。でも、わたしはいつも1人っきり……わたしを大事に思ってる人なんて、もういないんです……」

 高志はそれ以上追求できなかった。

「さっさとデータを完成させれば、奴ら、譲歩するかも」

「わたしもそう思います」

「じゃあ、できそう? 解剖の続き」

 弓子が再び溜息を漏らす。

「今度は、耐えられそうな気がします。だけど……」

「だけど?」

「たとえ神様を作りたいんだとしても、なんだって体の中身まで再現する必要があるです? 仏像だって、中身はただの木だったり、空っぽだったりするのに……」

「それは僕らが決めることじゃないからね……。ただ、分かるような気はする。本当に大事なものは、永遠に残したいものだ。今の技術が許す範囲で、最大限忠実に再現したいと考えても不思議じゃない。それが神様なら、なおさらだ」

「生き返るわけじゃないのに?」

「より生き返ったように思える……ってことじゃないかな」

「やっぱり、やるしかないんですね……」

「僕らに選択権はないようだ。つらいかい?」

「それは、そうですけど……」

「今のところ、僕らが1歩リードしているらしい。厳しいなら、今日は休んでもいいと思うけど?」

 同時にコトンという音が響いた。外の鍵が開いたのだ。KKKも、弓子の休養を認めたらしい。

「やります。他人を巻き込みたくない」

「いいのかい、本当に」

「撮影まではすませたいって言ってたじゃないですか」

「君が潰れるのを心配している」

「もう潰れました。考えても解決できないって分かりました。だから、予定通りに」

 高志も弓子の覚悟を感じたようだ。半狂乱になった数10分前とは、まるで様子が違う。プレッシャーを受け流す方法を学んだのかもしれない。すでに折れてしまったのかもしれない。そのどちらかは、作業をさせてみなければ判断がつかない。

「では、作業再開だ」

 2人は無言で、作業を放棄した場所に戻った。言葉は交わさなかったが、詳しい打ち合わせをしたかのように動きは同調している。

 と高志が言った。

「ちょっと待って。いくつかアイデアを付け足したい」

 弓子はうなずき、テーブル脇のソファーに戻った。胸にこびりついた吐瀉物に気付くと、新しい白衣に着替える。その動作は落ち着いていた。

 高志は倉庫に入り、細い目盛りが彫られた乳白色のアクリル板や熱帯魚の水槽のような物を持ち出してきた。

 見守る弓子が声をかける。

「手伝えることがありますか?」

 高志は水槽を手術台に置いて言った。

「ここに半分ほど水を張って。倉庫の奥に水道とホースリールがあったから」

 弓子は指示されるままにホースを延ばして、水槽に水を入れた。その間、高志はカメラの枠に橋を架けるようにアクリル板を置き、パイプの高さを調整する。手術台から10センチほど浮く形で、アクリル板が固定された。アクリル版には十字形の目盛りが浅く彫り込まれている、さらに高志はカメラの位置を大きく変え、ライトも2機増やした。

「やってみないと分からないことが多い。アクリル板の下から光を反射させて、透過光も使ってみようと思う。その方が皮膚の透明感が再現できそうだ。これからも急な変更は続くと思う」

「いい考えだと思います」

 そして自然に作業が再開される。

 最初はこわばっていた2人の動きは、慣れるに従って同調していった。高志が素早くメスを引くと、弓子が必要な分だけ〝腕〟を回す。同じ工程を何度か行なうと、およそ5分で肘から手首にかけての表皮が剥がされた。その下の組織が完全に露出している。

 時折、高志の視線が弓子に向かう。だが弓子は、動揺を見せなかった。全ての感情を失ったかのように、淡々と動き続ける。まるで、毎日繰り返している手慣れた作業のように。少なくとも、皮膚の内部にうろたえるそぶりは見せなかった。それだけでも、大きな進歩だと言えた。高志は、無言で作業を進めた。

 高志は、剥がした皮膚を持ち上げて広げた。小さめのハンカチほどの長方形をしている。弓子の目の前には、肘から上の筋肉が露出した〝腕〟が残されていた。弓子はそこからにじみ出す血液とアルコールを、素早くペーパータオルで拭き取った。

 高志の意外そうな視線に気づき、恥ずかしそうにつぶやく。

「実は女って、血は怖くないんです。さっきは、昔のことを思い出して……」

 高志がうなずく。

「できれば、過去は忘れて。君には、忘れることが必要だ。撮影の前に、皮膚を洗いたかったんだ。だから水槽を準備してもらった」

〝腕〟の脇の水槽には、清潔な水が張られている。高志は皮膚を、いったん水槽に沈めてから引き上げ、付着した血液を洗い流した。手術台の上で、皮膚の水分をペーパータオルで拭う。次にその皮膚をアクリル板に置いた。目盛りは対象物のサイズを記録するためだった。高志は皮膚が十字の中心に来るように注意しながら、丁寧にしわを伸ばす。そして、デジカメのスイッチを押した。

 皮膚の写真は表裏2枚ずつ。透過光が必要ない物はライトの前につい立てを置いた。それぞれ2種類で、6台のカメラで合計24カットが撮影された。

 高志が皮膚を撮影する間に、弓子は左腕本体を洗浄していた。スプレーボトルに入ったアルコールを露出した筋肉に吹き付け、拭き上げていく。手つきはぎこちなかったが、優しく丁寧に作業を進める。強く掴むことにはまだ抵抗を感じる。だが、吐き気はこみ上げてこなかった。ちらちらと見るだけなら、冷静に対処できる。

 慣れ始めているのだ。慣れることなどできない、と思っていたのに……。

 撮影を終えると、高志は皮膚を弓子に手渡した。

「丸めて、冷凍する」

 弓子はぎこちない手つきで受け取った皮膚を、手巻き寿司のように丸めた。それをジッパー付きのフリーザーパックに納め、ブルーの油性ペンで〝F左腕表皮〟と書き込む。そのパックを、背後の冷凍庫に入れた。冷凍庫はまだ空だった。

 その間高志は、弓子が血液を拭き取った左腕本体を、アクリル板に移していた。目盛りの上に筋肉が露出した部分を置き、シャッターを切る。〝腕〟を回して、皮下組織の付き方と筋肉のからみ方を記録する。さらに手持ちカメラで、細部を接写していく。

 弓子は作業をサポートしながら、皮膚をはぎ取られた〝腕〟に魅入ってしまった。なぜか、取り乱した時とは全く感覚が違う。かつて事故で露出した人体の禍々しさではなく、穏やかで精緻な工芸品のようなオーラを感じたのだ。思わず感嘆のため息を漏らしたことに気付いた。意外だった。

 死んで時間が経つことが原因なのかもしれない。誰のものか分からない〝腕〟だからかもしれない。ほとんど皮膚を剥がれていたからかもしれない。まばゆいライトに照らされているからかもしれない。

 理由は分からない。

 だが、それはすでに〝人間〟を連想させるものではなかった。むしろ、神の技を誇示する芸術のような畏怖を覚える。人間が創れるものではない。

 複雑に絡み合った筋肉と腱、そして血管や神経――。

 精密機械をはるかに超える、奇跡の結晶だ。その奇跡が、自分や、この世の全ての人に備わっているのだ。これまで避け続けていた〝真実〟との対峙だった。そこで発見したのは苦痛ではない。常に自分の中にあり、自分を自分にしてきた、ダイナミズムと精緻さへの驚嘆だ。

 これが、人間なのだ。ヒトを人間にしている、人間の内側なのだ。人間を超える何かが創り出した、人間そのものなのだ。

 もっとも身近な現実であり、新しい世界だった。

 避けるのではなく、共にあるべきものだ。弓子は、恐怖に慣れた時、思いがけない地平が目の前に広がったことを思い知らされた。

 高志は、目立つ組織を説明しながら着実に作業を進めていく。もはや、弓子が恐怖に我を忘れたことなど気に止めていない。

「これが長母指屈筋で、親指を曲げる筋肉だ。こっちが浅指屈筋、そして深指屈筋。この筋からは、ほら、ワイヤーみたいな物が伸びているだろう? これが腱で、他の4本の指をコントロールしている。この腱が手首の靱帯の下を通って、4本の指につながっている」

 人体の内部にこそ強烈な個性が宿ることを伝えるために、高志はあえて実物を前に説明したようだった。目を背けることは、個性を無視することだ。個性を否定することだ。それが、これまで人体を学んできた高志がたどり着いた結論なのだ。

 弓子にも、高志のメッセージが少しずつ浸透し始めたようだった。解剖途中の〝腕〟を穏やかに見つめている。その目に揺らぎはない。

 そして言った。

「どうしてそんなに詳しいんですか?」

 高志は当然のことのように応える。

「詳しくなければリアルな画像を作れない。トップに立てない。さっきの仮想人体モデルだって、作るのに10年近くはかけている。勉強もした。専門書も買い漁った。並の医学生よりはずっと人体に詳しいつもりだ。本物を作りたかったからだ。もちろん、本物を見るのは始めてだけど」

「でも、そこまでしてもゲームには使えないんじゃないですか?」

「確かに重すぎる。だからゲームでは、最後に見えない部分を削除して、自由に動くことを優先させる。だからといって、内部を無視していい訳じゃない。全てを積み上げた上で最後に思いっきり切り落とすから、誰もが納得できるリアリティを獲得できる。少なくとも僕は、そうやって今の地位を築いた。作ってきたデータに、本当の意味での個性は備わっていなかったけど」

「外形のデータの置き換えで、仮想モデルに個性が芽生えたんでしょうか?」

 高志は撮影の手を休めずに語った。

「少しだけ。表層に合わせて、内部もわずかに変形している。仮想モデルとは、もはや別物だ。でも、矛盾がないだけで、忠実だとは言えない。だからこうやって組織を分解してデータを取る。そして、1カ所ずつ置き換えていく。単調で退屈な作業だろう。だが、全てが置き換われば、真の個性を獲得したといっていい。それが現在のテクノロジーの限界だ。でも、これをパーツに分けるのが難しくて……どこにメスを入れればいいのか、迷ってばかりだ。細かい血管の処理も、どうすればいいものやら……」

 話しながら、高志は撮影を終えた。

 だが、手のひらの皮膚を剥ぐのには時間がかかった。指先の微細な筋肉や、爪の回りの処理に慎重さを要したのだ。アクリル版に広げられた手のひらの皮は、まるで巨大なカエルの手のように見えた。

 高志は手の皮を撮影しながらつぶやいた。

「君には指紋の処理を頼んであったけど、改めて撮影しておく。一度しかチャンスがない行程だからね」

「無駄になってもかまいません。こっちの方がマッピングにふさわしいなら、もう一度やります」

 変更や修正が多い印刷会社では、無駄な作業など日常茶飯事だ。いちいち腹を立てていたらすぐに神経がすり切れる。弓子の言葉は心からのものだった。競技に勝つこと以前に、より高みを目指す高志の足を引っ張りたくなかった。

 完全に皮を剥がれた〝腕〟は、筋肉の標本のようになった。表面から見てとれる筋肉の結合部分や血管の状態が、詳細に撮影される。

 弓子は高志をサポートしながら、時折ペーパータオルを追加し、水槽の水を入れ替えた。指示された訳ではない。自らそうすべきだと判断し、動いたのだ。高志も弓子の動きを何も言わずに見守り、淡々と作業を進めていた。その姿は、長年コンビを組んだ医師と看護師に近づいていた。

〝腕〟は、さらに細分化されていった。鶏のササミのような細い筋肉が外され、撮影され、形状を損なわないように冷凍されていく。血管や筋も分割され、記録されていく。2人のリズムは完全に一致し、解体は流れ作業のように進んでいった。デジカメのカードがいっぱいになると、弓子がナンバーを書き込んで新品に入れ替える。1枚1枚筋肉を剥がされた〝腕〟は、次第に骨だけになっていった。骨も結合状態を記録された後、1本1本バラバラにされた。

 弓子は時折簡単な食事を作るために自室に戻り、高志の部屋に運んで一緒に食べた。食材が減ると、いつの間にか部屋の前に不足分が詰まったダンボール箱が置かれる。廊下に誰もいない時を見計らって部屋に鍵がかけられ、その間にKKKが運ぶのだ。作業が順調に進み始めて弓子が忙しくなると、箱の中身にはインスタント食品や冷凍食品が増えていった。

 2人はわずかな仮眠を取りながら作業を進めた。


     *


 4日後、〝左腕〟は全て細分化され、撮影され、冷凍された。弓子は周辺を片付けると、自分で撮影データを把握できるように、冷蔵庫の中身やカード類を整理し始めた。

 自分の作業を終えた高志は、ソファに座って動きを止めた。再び考え込んでいた。解剖で明らかになった機材の不具合を頭の中で修正していたのだ。そして結論を出す。

 いきなり天井に向かって叫ぶ。

「機材の追加だ。デジタル筋硬度計。肩こりの計測に使う測定器だ」

 それは要求というより、命令だった。返事はすぐに返った。

『用意する』

 その日、弓子は久々に普通の食事を取ることができた。

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