内線で高志に呼ばれ、〝手術室〟で顔を合わせたのは翌朝だった。

 モニタにはすでに腕のワイヤフレームが表示されていた。今度は外形だけではなく、いつの間にか複雑な内部構造も薄い色の線で表示されている。

 肩を並べて画面を見ながら、弓子が驚く。

「これって……」

 高志は平然とうなずいた。

「僕が以前から用意していた人体データだ。3Dスキャナはモデリングに使えることが確かめられた。しばらく使ってなかった間に、スキャナの精度も進歩したようだね。この人体データを基本して補正を加えていけば、作業は相当早められるだろう。小型のスキャナで細部を接写すれば、指紋の凹凸まで拾えるかもしれない。でも、表面のデータはやっぱり高解像度の画像を使わないとだめだな。カメラでの撮影は省略できない。だから、カメラと3Dスキャナのデータを自動的に比較して、不一致が見つかれば警告するプログラムを組んだ。これが普通の仕事なら3Dスキャナだけで済ますんだけどね。この競技に限っては、作業効率を劇的に上げることは望めそうもない」

 弓子は高志の説明についていけない。

「用意していたって……このデータ、もう中身まで再現されているんじゃないんですか?」

「その通り。この人体データが完成したのはほぼ2年前。大金も次ぎ込んだ。いろんなCG制作会社から、当時最高のデータを買い漁った結果だ」

 その言い回しに、弓子は直感的に危険な匂いを感じた。

「買い漁ったって……」

「非合法的に。世界中の友人に手をまわして集めた3Dデータを全て統合した、内部まで人体そのもののデータなんだ」

〝内部〟という言葉に、弓子は文哉の事故を連想した。背中に寒気が走る。

「やっぱり……」

「骨も筋肉も血管も、くまなく詰まっている。今は表示を目立たなくしているだけだ。それに、腕だけではなく、全身のデータが揃っている。アニメーションを前提としたリギングやスキニングも終えている」

 新たな専門用語に戸惑う。

「リギング……?」

「あ、詳しい説明はいずれ必要な時に。簡単にいえば、リギングは〝骨〟を関連づけて自然に連動するように設定する作業で、スキニングは〝皮膚〟の弾力を再現することだな」

「そんなに出来上がってるんですか? そんなもの、どうやって……?」

「映画関係者から買ったデータを元に、最新の医学用のデータベースや美術関係の資料を加味した。アメリカの医学生の多くは、コンピュータのシミュレータで解剖を学んでいるからね。元になる画像は、ボランティアの献体から作ったものだ。全身を冷凍して、1ミリごとにスライスした映像を合成したという。2000枚近くの画像から解析したもので、どこでも切れるし、どの臓器も選択的に見られる。献体の数は数10にのぼるから、平均的な人体は再現できているはずだ。医学的には最も信頼できるデータだ。そこに、生身の人間から取った3次元のCTスキャンやMRIの画像も加えた。人体を傷つけずに内部を調べる方法は、加速度的に進んでいるからね。自動車会社が衝突シミュレーションに使っている人体モデルも加味した」

「そこまで……」

「仕事、だからね。僕はゲーム畑の人間だが、知り合いが世界中で活躍している。デジタルドメインやウェタはもちろん、まだ誰も注目していない小スタジオからもいいものはかき集めた。産業スパイ同然の取引で集めたデータを、こうして一体のモデルに投入したんだ。この仮想人体モデルは、汎用的な素材としてとてつもない価値を秘めている。今は〝誰でもない〟架空の人物のデータだが、〝誰にでも〟変化できるポテンシャルを持っている」

「でも……なんだか、フランケンシュタインみたい……」

「見方による。僕が操作しているのは、見た目だけだ。現実にクローン人間を作るより、社会に与える影響は遥かに小さい。CGの最先端は、プロフェッショナルがしのぎを削る闘技場のような場所だからね。このモデルを作り始めたきっかけは、20年ほど前にヒットした透明人間の映画だ」

 弓子はピンときた。

――〝インビジブル〟だ……。

 アメリカ軍の秘密研究を任された天才科学者が、人間の透明化を完成させて自ら人体実験を行う。ところが透明人間になったとたんに内面に抱えた〝悪〟を押さえきれなくなり、同僚たちをを殺し始める――。

 弓子にとっての問題は、その映像のあまりのリアルさだった。人間が透明になっていく過程が、皮膚の表面から順番に消えていくことで表現される。つまり透明化することによって、筋肉や内臓、そして骨格へと、人体の内部が順に透けて見えていくのだ。

 当時、漠然とDTPに憧れていた弓子は、古いMac雑誌の紹介記事を目に留めて、そのDVDを1人で見た。最後まで見通すことはできなかった。主人公の顔の皮膚が消えて頬の筋肉が露出した瞬間、止めるしかなかったのだ。

「わたし、あの映画で気を失いそうになった……」

 高志は椅子を回して振り返った。弓子を見上げている。

「制作当時はそれほど真に迫った映像だったわけだ。僕にも衝撃だった。あのCGはMAYAで作られた。僕は、どうしてもデータが欲しかった。正確さはともかく、骨格や筋肉、内臓や血管までモデリングされ、アニメーション化されていたんだからね。学術的なデータを詰め込む土台としても、有望に思えた。たまたまスタッフの1人に、僕の弟子のような奴がいてね。金を渡してコピーさせた。もちろん、ハリウッド側は気づいていない。あの頃に比べて、CGは格段の進歩を遂げた。ハードのスペックが上昇し、クリエイターたちが新技術を競って、リアリティを追求した。その結果、〝ロード・オブ・ザ・リング〟や〝キングコング〟、そして〝プロメテウス〟が生み出された。CGが一般的になり始めた頃は役者の出番を奪うと恐れられたが、〝アバター〟以後、その立場は完全に逆転した。今では、実力がある役者が演技をつけていないCGなど、おもちゃだと笑われる。〝プロメテウス〟のCGは僕が見ても衝撃だったけど、ウェタとMPC――ムービング・ピクチャー・カンパニーが共同で手がけている。その両雄が、今の敵という訳だ」

〝アバター〟がエポックメイキングな映画だということは、弓子も知識としては知っている。

「〝アバター〟って、わたし、観てないんです……」

「もったいないね。大人が納得できる最初の3D映画だったからね。あれ以後、明らかに映画は新時代に入った。〝アバター〟は、壮大な実験だったんだ。そのためにウェタは常識外れのシステムを作った。役者の演技がリアルタイムでCGの動きに反映されるし、それがコンピュータ内の架空の世界と合成される。セットを組まなくても、緻密な世界観を創造できる。要求したのはジェームズ・キャメロン。それを可能にしたウェタのおかげで、ニュージーランドはCG先進国の地位を不動のものにした。今じゃハリウッドに並ぶ映画産業の町を作り出している。しかもキャメロンは、歴代の興行成績を上位から独占している。映画界の勢力地図を塗り替えたんだ。〝アバター〟シリーズはほとんどフルCGと言っていいが、その登場人物は架空とは言い切れない。生身の人間が演技した内容を、そっくりそのままコンピュータに写し取っているからだ。体の動作、顔の筋肉の動き、そして眼球のかすかな揺れまでね。動作を記録するだけのモーション・キャプチャーと区別するために、ウェタではそれをパフォーマンス・キャプチャーと名付けていた。感情をデータに置き換える、エモーション・キャプチャーと呼ぶ者もいる。〝アバター〟は映画のタイトルとしてだけではなく、登場するCGが俳優のアバター――つまり、分身であるという点で、本当に画期的だったと思う。さらにウェタは、シリーズ化のためにいくつもの新技術を開発した。僕も、それを応用するつもりだ」

「それも盗んであるんですか……?」

 高志はこともなげに言った。

「もちろん」

「でも、ウェタと戦うのに……」

「だから仮想人体モデルが役に立つ。これは僕だけの秘蔵データだ」

「じゃあ、すぐにあの〝腕〟を再現できるんですか? これほど詳しいデータがあるなら、あんなにたくさん写真撮影しなくても……」

「そうはいかない。僕のデータは、生物学的な〝ヒト〟としては正確だ。だが、個性を持った〝人間〟ではない。様々な臓器を無理につないだ、まさにフランケンシュタインのモンスターだ。人間は皆、顔の形も皮膚の色も違う。指紋は個人を識別できるほどバリエーションに富むし、シワやたるみ、ほくろやアザで個性の幅が広がる。内部はもっと複雑だ。内蔵の形や筋肉の分量や付き方も、個体によって全て異なっている。鍛えている筋肉が違ったり、持っている病気が違ったり、ね。血管1本でも、通る位置が違ったり、太かったり細かったり、どこかが詰まりかけていたり……人の違いは体の中こそ豊かだ。1人1人がオーダーメイドなんだ。極端な話、心臓が右側についている人間だっている。それが個性だ。人間を人間たらしめている現実だ。僕らが命令されたのは、それを再生することだと思っている。それらしく見えればいいだけなら、プロ中のプロを拉致してまで争わせる必要はない。目の前に置かれた〝腕〟の個性を忠実に再現できなければ、他の3組には勝てない。彼らがどんなシステムを駆使してくるか、僕にも予測もできない。そして負ければ、家族が死ぬ。だから可能な限り本物のデータを取らなければならないわけだ。このモデルに色を付けてみよう」

 高志はMAYAを操作した。一瞬でワイヤーモデルの表面に肌らしい色がつき、テレビアニメのCGのように変わる。マウスの上で指を動かして腕をくるくると回してみせる。

「すごい……」

「でも、不自然さを感じない?」

「不自然さ?」

「本物らしく見える?」

「いいえ……色合いが単調で、アニメっぽいけど……」

「データを軽くするために、解像度を落とした画像を張り付けているからだ。ローモデルってやつでね。本物に近づけるには、データを本物と入れ替える他にない。だから、撮影が不可欠だ。しかも、終わっているのは表面のモデリングだけ。作業のスタートラインにすぎない。指紋が彫ってあるのは画期的だけど」

「そうなんだ……」

「次は〝腕〟の内部を本物のデータに置き換える。外見を修正したから、内部の臓器も矛盾が起きない程度に更新されているけどね」

 弓子はモニタに向かって身を乗り出した。

「すでに内部も? でも、置き換えるって……どうやって?」

 高志はマウスを操作し始めた。

「これからモニタで腕の内部を見せるけど……大丈夫?」

 高志は、一度は弱さを見せた弓子の精神状態を心配している。解剖に対して過度な恐怖を抱いていることを敏感に察しているようだった。

 弓子は目を伏せた。

「……分かりません」

 実際に、自分がどう反応するか予測できなかった。普段、仕事上では冷静なつもりでいた。今も、作業が始まれば落ち着いて対応できると分かった。だが、取り乱したのは事実だ。かつて恋人の内部を見た後の変化も、自分では予測できなかった。今、人体の内部を見せられたらどうなるのか、分かろうはずもない。

 高志は手を止めて言った。

「もう少し時間が必要なようだね。腕の中を見るのは次にしよう。血を見るのが苦手らしいから。だから、なるべく見せないようにしてきた」

 言われて気づいた。自分はすでに何枚もの〝腕〟の写真を操作してきた。だが、拒否反応は起こしていない。そこに血液がなかったからだ。ただの皮膚なら、印刷会社で見てきたモデル撮影の写真と大差はない。高志は写真を撮る際、あるいは〝腕〟を動かす際に、弓子の目に断面が触れないように細心の注意を払っていたのだ。

 これから先はそうはいかない。

「これからは……」

「〝腕〟の内部構造を写し取る。解剖した筋肉や骨を正確に計測して、表面を詳細に撮影していく。その情報を基にMAYAの〝腕〟のデータを置き換える」

 弓子は、顔を上げられなかった。

「わたしも……やるんですか……?」

「解剖だけなら1人でできるかもしれない。だが、画像処理と整理には君が必要だ。僕は〝腕〟の再構成に専念したいから。その時に臓器の写真を目にすることは避けられない」

「血まみれの写真……」

 高志は少し間を置いてからつぶやく。

「できなければ、アシスタントの意味がない。僕も競技を続けられないだろう。共倒れ、かも……」

 もはや高志は、誰のためにとも言わなくなっていた。ここには2人しかいない。助け合う以外に状況は変えられない。

 弓子にもそれは分かる。少なくとも、理性では。

「やってみます……」

 高志は微笑んだ。

「ありがとう。君のサポートが必要なんだ」

「分かっています……」

 理性では――。

 高志は椅子を立った。

「僕はこれから、解剖の手順を考えて、準備する。実際の作業は明日からだ。君は残りの指の指紋画像を選び出しておいて。手のひらと甲もだ。次に、選んだ画像のコピーを作って、指紋を消す」

「消してしまうんですか?」

「指紋はモデリングに移行する。マッピング画像に指紋が残っていたら、二重になってしまう。やり方は分かる?」

「弱いぼかしをかけたりコントラストの調整で消せると思います。満足がいかなければ、バリエーションでも試します。でも、深いシワとかは無理かも……」 

「そっちは、プラグインを組んでみるつもりだ。やりやすい方法で、できるところまで下準備をすませておいて。終わったら僕がチェックする」

 それはまるで、会社で作業の進行を調整する会議のように感情を挟まない会話だった。弓子にとっては幸いだった。全てがこうしてビジネスライクに終始するなら、解剖にも耐えられるかもしれない。

 弓子はMacへ、高志は手術台へと別れた。弓子はあえて高志の作業には目を向けず、画像の調整に集中した。

 解剖の準備を始めた高志は、倉庫の棚からiPad miniを見つけ出した。背面に〝Part 2〟の文字が彫り込まれている。そこには手術用具の使用方法を記録したビデオが納められ、高志はその画像にしばらく見入った。その表情には、さすがに恐れと緊張がにじんでいた。


     *


 翌日、2人は手術台の傍らに立っていた。高志は白衣とマスクで全身を覆い、〝腕〟が載ったバットをカメラの枠の横に置いた。カメラの下には白い防水シートが広げられている。

 弓子は手術台の反対側に立っていた。なすべきことを理解し、やはり使い捨ての白衣を着てマスクをかけている。姿は熟練した看護師だが、明らかにおびえ、かすかな震えを止められずにいた。どうしても目の前の〝腕〟を見ることができない。手術台に載せられた〝腕〟から、アルコール臭に混じってかすかな血の匂いが漂う。

 1時間前、作業手順を説明された際には、人体モデルの中身を見せられた。あらかじめ覚悟を決めていたせいか、単調な色彩の内臓の集合体を見ても、弓子は動揺を見せずにいられた。だが今見ているのは、本物の人体の一部だ。鼓動が激しくなるのを抑えられない。弓子はあえて頭の中で、高志が組み立てた解剖の手順を繰り返した。

 まるで、雑念を払うために経典を唱えるかのように……。

 まずは、組織の分解を一気に進める――。

 細分化された筋肉や骨は再度冷凍され、後でゆっくり正確な寸法を計る――。

 2度の冷凍を経ると細胞の破損も激しく表面の色合いが大きく変わる恐れがあるので、表面の撮影は解剖と同時に行わなければならない――。

 記録媒体のSDカードは充分な数が揃っている。今回は撮影だけで、画像の整理は以降に持ち越すことになっていた。高志は、初めての解剖で無理はしたくないと言った。

 それは弓子に対する気遣いのようにも思えた。

 高志は弓子と目を合わせずに、手術用のメスを握って事務的に言った。

「作業に入る。できれば、皮一枚をはぎ取りたい。皮下組織の鮮明な画像が欲しい」

 弓子は、もう逃げ道はないと覚悟した。

 高志が〝腕〟を動かし、手のひらを上にして横向きにした。そして、待った。

 弓子が自分から手伝い始めるのを。

 弓子は動けない。覚悟を決めても、恐怖が消えるわけではない。

 高志が再び口を開く。口調は静かだった。だが、反論を許さない厳しさが滲む。

「これが競技なんだ。このために僕らは捕らえられた。やるしかない。囚人なんだから」

 弓子は1度つばを呑み込むと、かすかにうなずく。深呼吸をして〝腕〟の前に進み出た。おずおずと、手袋をはめた両手を差し出す。高志が肘の内側を上に向け、安定させる。

 弓子がその〝腕〟を押さえる〝腕〟の手触りは、予測とは全く違っていた。弓子は、乾いて硬直した物体を期待していたのだ。指先に伝わるかすかに残る弾力が、あまりに生々しい。弓子はまだ、〝腕〟を直視できない。言葉も喉に詰まる。だが、話をしていなければ気を失いそうだった。

「解剖……本当に初めてなんですか……?」

 高志を疑っていた訳ではない。だが弓子には、高志の落ち着き払った態度が理解できずにいた。息ひとつ乱していないように感じる。

 高志は支えていた〝腕〟を放し、肘の内側にメスを近づける。

「当たり前だろう? 医者じゃないし、解剖は医学生か検死官じゃなければしない」

 言いながら、メスを軽く引く。腕に、すうっと1本の赤い線が残る。試し切りのようだ。それを見てしまった弓子は後悔した。文哉の事故が頭をよぎる。のどの奥に固まりがこみ上げる。それを無理に呑み下して話しかける。

「なのに、いきなり……?」

 高志の息も早い。

「好きでやってる訳じゃない。でも、iPadの解説で注意するべき点は分かった。力を入れすぎなければ皮一枚に切り込みを入れられそうだ。〝腕〟、回してくれる? ぐるっと一周、切りたい」

 高志はメスを肘から手首へ移した。その先端を手首の少し下に当てて、ゆっくりとメスを引いていく。血管まで切り込まないように、緊張していることが分かる。その動きに合わせて、弓子は〝腕〟を回転させていった。かすかなめまいに耐えながら。高志の冷静な動きが、逆に弓子の動揺と孤立感を高めていく。ベルトコンベア作業の一部を担当するような気持ちで手伝うことを納得したのに、まるで感覚が違う。

――ムリかも……

 めまいが強まる。だが、高志はなすべきことを着実に進めている。弓子だけが逃げ出すことはできない。それが理性だ。それでも、メスの切り口は正視できない。

〝腕〟が一回転すると、弓子はかすかな声を振り絞った。

「でも、お医者さんみたい……」

 高志はちらりと視線を弓子に向けた。

「耐えられる?」

「なんとか……」

 高志は微笑んだようだった。

「手先は器用な方だからね。人間の姿をしていなければ、冷静に対処できる」

 弓子が言葉を返す前に、さらに命じる。

「今度は少し斜めにして」

 高志は弓子が命令を求めていることを嗅ぎ取ったようだった。弓子の表情には内心の動揺がにじみ出ている。きわどいバランスを取って綱渡りをしているようにしか見えない。そんな時には命令だけに従い、何も考えないことも有益なのだ。

「手の向きを変える」

 高志はいったんメスをカウンターに置き、〝腕〟を回した。肘の断面を、自分の方へ向ける。弓子は反射的に、それを押さえようとした。手のひらが目に入った時、不意に動けなくなった。

 恐怖に捕らえられたことが分かった。

――だめ……

 のどの奥の固まりがぐいっとせり上がる。

 高志は素早く言葉を継いだ。

「手のひらは、表情が豊かなんだ。本来なら雄弁なはずの形が動きを止めると、異様に感じる。だから、怖い。でも、まだ序の口だよ。すぐに皮を剥ぐからね」

 高志はあえて明言した。次の動作を予測させておけば、目にした時に対処しやすいと判断したようだ。だが、高志の息も荒さを増している。弓子を励ますはずの言葉は、自分を鞭打つためでもあるようだった。

――やらなくちゃ……

 弓子は、そっと手のひらを上から押さえた。まさしく、握手をする感覚だった。背筋に寒気が走る。〝腕〟が、ぴくりと動いたような気がしたのだ。反射的に引きそうになった手を、意志の力で止める。めまいが激しさを増す。

 高志は、その動きをじっと観察していた。

「恥じることはない。僕だって、気味悪い。君は、よく耐えている」

 弓子はのどの奥のものを呑み下し、手をしっかりと握り直した。

「先へ……」

 高志は、手首を一周した線に、メスを重ねた。そのまま一気に、肘の切り口までメスを滑らせていく。

 高志は言った。

「向きを反対にする。〝腕〟の切り口が君に向くよ」

 弓子は黙ってうなずき、〝腕〟を回転させる。視線は、切り口を避けている。

 高志は、手のひらが下を向くように〝腕〟を回した。作業の感覚をつかみ始めていた弓子が身を乗り出し、メスの傷を避けて手首を押さえる。高志は弓子の様子を横目で確認しながら、手首の切り口にメスを近づける。

「手のひらは表情豊かだからこそ、失敗はできない」

 高志は、真横から切り込みを入れた。手首の切り込みから小指の先まで、慎重に切る。さらに丁寧に小指と薬指を開いて、その間を切っていく。細かい作業に集中する高志は、屈んで〝腕〟に顔を近づけている。上体を左右に大きくうねらせながら、メスの先端で皮膚をトレースしていった。白衣の袖にわずかな血が付いたが、いっさい気にしていない。

 じわじわと進むメスの刃先は、それでも確実に手のひらを一回りした。手首の傷にメスが重なる。

 高志は、長いため息をもらした。

「さて、いよいよ剥がすよ。君はペーパータオルを用意して。手術台に血液が出たらすぐ拭き取って」

 高志は呼吸を整えると、再び肘の断面を自分へ向けた。手首の切れ目にメスを差し込む。皮膚の角を指先でつまみながら、メスを細かく前後させる。角がわずかにめくれた。高志は皮膚を軽く引っ張りながらメスを肘まで引いた。幅1センチほど、皮膚が剥がれる。同じ動作を2回繰り返す。はがれた皮膚の幅が3センチに増す。その分、鮮紅色の筋肉が露出していく。複雑に折り重なる赤い筋。それを覆うように、ミカンの房を覆う白い筋のような膜が見えた。

 高志はつぶやいた。

「何とか表皮だけを剥いでいる……この白いのが、皮下組織だ。これはまた後で剥がして、別に画像を撮りたい……切り口を上に」

 メスの先をじっと見つめる弓子は、黙ってうなずきながら〝腕〟をわずかに回転させた。

 そのつもりだった。

 だが、皮膚の下を目撃した弓子の反応は急激だった。不意に膨れ上がった吐き気が抑えられない。

〝腕〟を放り出した弓子はその場にしゃがみ込み、吐いた。何も出てこない。胃は最初から空だったのだ。胃袋が飛び出しそうにせり上がってくるだけだ。少し遅れて涙があふれる。

 眼鏡が曇って前がかすむ。

 それでも吐き気の波は収まらない。次の発作がこみ上げた。2回……3回……。唾液の泡に混じったわずかな血液が床に広がった。

――なに⁉ どうしたの? わたし、どうしたの?

 高志はメスをそっと手術台に置いた。そして、素早くマスクをはぎ取る。

「大丈夫か⁉」

 その声は弓子には届かなかった。さらに大量の涙が吹き出す。意識が遠のく。またしても、胃のさらに奥から血がこみ上げてくる。

 高志が手術台を回って駆け寄る。

「君! 分かるか⁉」

 高志が弓子の肩に手を置く。

 体に触れられて小さく身震いした弓子は、ようやく目を上げた。ちょうど、手術台のふちを見る形になった。そのすぐ先には、皮膚を切り裂かれて内部を露出した人間の〝腕〟がぼんやりと見えた。まるで、かつての恋人の、筋肉が露出した頬のように。

――文哉……。

「だめ……」

 弓子には、自分の口から漏れた言葉の意味さえ理解できなかった。

 いきなり立ち上がる。白衣の胸にはわずかな吐瀉物が張り付いている。高志はどう対処するべきか迷ったように、硬直したまま身を引いた。

 弓子は、再び口を開いた。

「だめ」

 そしてドアをめがけて、走った。鍵はかかっていない。弓子がドアを開き、真っ白な廊下に飛び出す。監視されているはずだった。ここしばらく〝天の声〟は聞こえなかったが、それでも無数のカメラが2人を見張っているはずだった。

 なのに、声はしない。鍵もかからない。何も起こらない。

 高志も弓子を追って走った。

「待て!」

 ドアを抜けて廊下に出る。

 弓子の背中が見えた。すぐ目の前だ。だが、走っていない。呆然と立ちすくんでいる。高志も反射的に足を止めた。ドアの戸口をつかんだまま硬直する。

 廊下の突き当たり、弓子の先にスチール製の防火扉がある。廊下を遮断する扉には、これまで1度も開いたことがないドアが付いている。そこが、〝世界の果て〟だった。そのドアがわずかに開いていた。

 そして、一瞬だけ見えた。その隙間に姿を消す、何者かの後ろ姿。何かの制服のような、真っ白なコスチューム――

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